姫花の橙色の口紅を見て、もう秋か、と実感する。姫花は私の顔の前で手を広げ、
「なんの数字かわかる?」と指の隙間から可愛い笑顔を覗かせる。
「うーん。ニキビの数?」
「違う。旦那候補よ」
「また、マッチングアプリ?」
「マッチングアプリにも色々あるの」
姫花はマッチングアプリについて詳しい解説を始める。色白な肌、首筋のいやらしいホクロ、足を組んだ姫花のつま先が私の膝に当たるたび、鼓動が速くなる。
「次の誕生日に何をプレゼントしてくれたかで、誰と結婚するか決めるわ」
「そういうの、いい加減やめたら?」
「どうして?」
「もう28だよ」
「まだ、28」
誰がどうみても殿方に貢いでもらったことが分かる、ハイブランドの洋服とバッグ。一体どのようなことを致したのだろうと想像するだけで胸がゾワっとする。
「30までに結婚したいの」
「今時、30超えて結婚なんて普通じゃん」
「一般的な結婚はね。ハイクラスのおじさまは20代を求めてるのよ」
「よく分かんない」
「男はおじさんでも、稼ぎと、ある程度の筋肉があれば恋愛対象に入る。でも、女は無条件に30を超えると、ただのおばさんでしかない」
美人なのに、自信のない姫花にイライラする。それはきっと、容姿も財布の中身もごく普通のOLな自分と比較しているからだろう。
私は真っ黒な姫花の心も含めて、姫花という人間が好きだ。けれど彼女にお金を貢ぐ殿方は、心までは愛してくれない。綺麗だから、という理由だけで、寝る時も、お風呂に入る時も、大便をするときでさえドレスを脱がしてはくれないだろう。それが、結婚なのか?やっぱり、よく分からない。
「そういえば、おじいさんとおばあさん元気にしてる?」
私はわざと姫花を不機嫌にする話題を口にした。案の定、下唇を強く噛み、悪魔のような目つきでティーカップを見つめる。そんな表情でさえ、私にしか見せないものだと、殿方に勝った気分になってしまう。
「あのジジババはもう知らない」
「ジジババって……」
「血の繋がりがない年寄りに育てられて、周りにお父さんやお母さんのこと聞かれる辛さが分かる?」
いつもは静かでお上品な話し方の姫花だが、この話になると決まって声が大きくなる。
「せめて、もっと若い人に育てられたかった」
「でもさ、昔話ってお年寄りが育てること多くない?桃太郎とか、かぐや姫とか」
「桃太郎はスルーするとして、私はかぐや姫ってこと?」
「うんうん。ほら、かぐや姫だって沢山の男性に求婚されたって」
どんな話だったかな……と姫花はスマホで『かぐや姫』と検索する。かぐや姫の解説動画をタップすると、倍速再生に設定しスマホを横向きにする。
「確かに、私みたいだね」
姫花はどこか納得のいかない様子で画面を見つめる。
「でも、竹から産まれたとか、月に行くとか、非現実的だよね」
「そりゃあ、昔話だからね」
「私、どこから産まれたんだろう」
「その答えは、母親の股でしかなくない?」
「やだな。私を捨てた人の股という事実より、竹の方が夢があるよね」
「かぐや姫を考えた人も、捨て子だったのかも」
「急に親近感が湧いてきた」
姫花の瞳の奥に竹藪が見えた。
とある日曜日の夜、私は姫花から送られてきた地図の場所に向かった。
日差しの熱い一日だったから薄着で来たが、十一月の夜は肌寒くて、冷たい風で鼻がツーンと痛くなる。
地図を見ながら進んでいくと、竹林の並ぶ道。
「嘘つき」
姫花の声が聞こえ辺りを見渡すと、竹と竹の間に場違いなフリフリワンピースを着た姫花が立っていた。
「こんな垂直な棒に女の子を入れたら危ないじゃん」
頬を膨らませながら竹を抱きしめる姫花の姿が、たまらなく可愛い。
「竹の中にいたら、どうやって息をするの?ご飯は?お風呂は?」
「かぐや姫はあくまで物語だから」
「竹の中に子供を置き去りにするって、見つけるなって言ってるようなもんじゃん」
「竹は光ってたから、むしろ見つけて欲しかったんじゃない?」
姫花の横に立つと、ふわっとシャンプーの香りがした。あ、事後だな、と察した瞬間、私と姫花の間に太くて高い竹が地面から夜空に向かって伸びた感覚になった。
「多分、あれだよ。おじいさんはノコでかぐや姫を傷つけてしまって、悪人になるのが怖かったから、母親も探さず自分の家に連れて帰ったんだよ」
「発想が捻くれてるね」
「だって、おかしくない?女の子だよ。まず養護施設に行くとかさ」
「その時代は、養護施設とかなかったんじゃない?」
「だとしても、誘拐だよね。完全に、誘拐だよね。あのジジイめ」
「なら、おばあさんも共犯になってしまう」
「サイコパス夫婦だね、うん」
自由な妄想を繰り広げ勝手に怒り出す姫花。出会った時からよく不幸な妄想をする子だったな、と懐かしくなる。
「かぐや姫って、なんとなく綺麗な話だと思い込まされてるよね」
「最後は月に帰ってハッピーエンド的な?」
「そう。なんていうの、絵……、映像に誤魔化されてるっていうか。ミュージックビデオでもあるじゃん。ただ河川敷を歩いてるだけなのに、光が照らしてるからそれっぽく見えるみたいな。歌詞を見たら中身なさすぎてワロタ的な」
私を説得しようと饒舌になる姫花。平安時代から善人として語り継がれてきた老夫婦が、とうとう悪人になってしまった。まるで、低予算で作ったサスペンスドラマのよう。姫花の頭の中で繰り広げられるかぐや姫はあまりにも暗いストーリーで、途中から「もしかして姫花は、かぐや姫に嫉妬しているのだろうか」と思い始めた。
よく考えると、女の子が竹の中に放置されるという、現代ですれば誰がどう考えても虐待な行為に加え、知らない老夫婦に引き取られたのに、最後は天女が迎えにきて素晴らしい月の世界へ帰るという、ハッピーエンドで締めくくられていることに違和感を感じる。
姫花は本当の両親を知らず、知らない老夫婦に養子として引き取られたが、今のところ本当の家族が迎えに来る気配がない。まるで、かぐや姫だけが幸せを勝ち取った勝者みたいで、私までかぐや姫に嫌悪感を抱きそうだ。
無駄話をすること一時間。そろそろ鼻水が大洪水になりそうなので、姫花の車で帰ることにした。
「ねえ、やっぱり私ね……」
姫花が口紅を塗り直す。今日は何色だろう、と唇を見つめるが、暗くてよく見えない。
「かぐや姫だと思うの」
「どうして?」
「変だもん。他人に育てられるなんて」
「血が繋がってても、他人みたいな家族だっているよ」
さっきまでの言葉遣いの悪い姫花は、竹を離れるといなくなっていた。
「天女って、かぐや姫のお母さんかな」
「うーん。お母さんとは書いてないよね」
「月に帰るってことは、宇宙人?」
「その可能性は、高いよね」
「かぐや姫、切り替え早くない?」
「地球に何の未練もなさそうだよね」
「結局、なんで竹にいたの〜」
姫花は頭を掻きむしる。昔話なんて、どうでもいいのに。昔話に答えなんてない。真実味もない。
「ねぇ」
「なに?」
「寒い?」
「ううん、車の暖房で温かくなったよ」
「もし私が、もう一度さっきの竹林に行きたいって言ったら、どうする?」
急に殿方を扱うような、甘える瞳で私を見つめる。つい財布の中にある諭吉先生を全て差し出してしまいそうになる。
「いいよ」
私はボックスティッシュを手に持って車のドアを開ける。
ああ。寒さで頭が回らない。
竹に抱きつく姫花と、私。
姫花と一緒にいて帰りたいと思ったのは、はじめてだ。
このままでは私たちも月へ召される運命となってしまうだろう。
「かぐや姫にだけは負けたくない」
「なんの勝負をしてるの?」
「こう見えて、私は割と努力してる。メイクも、服も、立ち振る舞いも、昼間の歯科助手の仕事も」
「うん、頑張ってるよ」
「ただ月から来た姫ってだけでチヤホヤされて、色々あったけど、なんやかんや上手くいっちゃった系女子に見下されたくない」
私はてっきり、竹に抱きつくことで安らぎを感じているのかと思っていた。いくつかの共通点を持つかぐや姫と自分を重ねて、幸せになる方法を見つけたいのだと。血の繋がった母親に迎えにきて欲しいのだと……。
丈の短いワンピースを着て、私よりずっと寒いはずなのに、何と戦っているのだろう。誰に見せつけたいのだろう。
「かぐや姫は考えたことあるのかな。奨学金の返済とか、毎月の家賃とか」
「ないだろうね」
「おじいさんやおばあさんの介護のこととか」
「どうでもいいだろうね」
私が目を瞑りながら会話をしていると、背中に姫花の体温を感じた。私の手の上に、姫花の手が重なる。きっと誰かが見たら奇妙な光景なんだろうけど、私にとっては人生最大の胸キュンシーンだ。
「なんで私なんかと一緒にいるの?」
「姫花のことが好きだから」
「真剣に答えて。ちゃんとした理由を」
姫花の手のひらに熱がこもる。竹の匂いと、姫花の香りが混ざって、明日の朝イチで提出しなければならない会議資料に全く手をつけていないことが、どうでも良くなった。
目が覚めると車の中にいた。窓の外に姫花が見える。
私は怖くなった。
朝五時の光に照らされる姫花が、地球の外に連れ去られそうで、私は姫花が視界から消えないよう瞬きを我慢して、車のドアを開ける。
姫花の足元に落ちたワンピース。耳と鼻を真っ赤にして、姫花はキャミソール姿でタバコを吸っていた。
「姫花、一人にならないでよ」
「え、どうして?」
「連れ去られそうで怖い」
「ここら辺は人通りないから、変なおじさんもいないよ」
「人間の話じゃなくて……」
かぐや姫の話ばかりしていたからか、寝起きだったからか、本気で空へ飛んで行ってしまうと思い込んだ自分が恥ずかしくなる。
「今、考えてたの。かぐや姫って可哀想だなって」
どうやら姫花もまだ本気らしい。
「誰かの都合で竹に入れられて、知らない人のところで暮らして、また月に帰るでしょ。もしかしたら、その後また別の惑星に連れて行かれたかもしれないし」
私も服を脱いでみる。同じ白いキャミソールなのに、レースのついた姫花のキャミと、中学生が体操服の下に着てそうな無地のキャミの私。ここにもオンナとしての意識の差が出るのか、と脱いだことを悔いた。
「地球から月に帰るってことは、もう二度と会えないじゃない?大阪から東京に帰省します、っていうのとは違うんだからさ」
「姫花は、かぐや姫なんかじゃない……」
「会話が噛み合ってないよ」
「姫花は闇の人でいて。光のせいで目が開けれないほど、眩しく輝かないで」
姫花が輝いてしまったら、きっと私たちの世界はなくなる。
二人だけの、闇の世界。
翌年の夏、姫花は結婚をした。誕生日プレゼントで決めたなら、まだ受け入れられたけど、相手は殿方の誰でもなく、姫花の初恋のヒトだった。
結婚式の招待状は、お金のかかっていない手作りのカードだった。
もちろん、出席に丸をつける。
結婚式当日、私は真っ白のドレスを着て式場に入る。
なんて非常識な女の子。ええ、その通り。
「新郎新婦の入場です!」という司会者の言葉で、眩しいスポットライトが姫花を照らす。今まさに天から降りてきたのではないかと思うほど、姫花の笑顔は神々しく、美しかった。
参列者に会釈をしながら、ゆっくりと前に進む新郎新婦。姫花が私に近づいてきた瞬間、手を伸ばしてみる。
眩しい、眩しい、手が届かない……。
目を開けるのが怖くて、しばらく瞑ったままでいた。覚悟を決めて目を開けると、姫花は新郎とキスをしていた。
披露宴。同じテーブルに姫花のおじいさんとおばあさん。
ケーキカットに見向きもせず、食事に夢中だ。
「相変わらず、どうでも良さそうですね」
「どうでもいいよ。幸せの価値観が合う人といればいい」
「幸せにしようとか、一緒にいたいとは思わないんですか?」
「それこそ自分勝手だ」