小説

『ダンディな釣り人』春名功武(新潟県上越市大潟地区の雁子浜に伝わる『人魚塚伝説』)

 

 

 意外過ぎる先客に、中川は2度見どころか、3度見4度見した。中川でなくても彼の装いを見れば、皆似たようなリアクションになるだろう。

 彼を一言で表すと、ダンディ。真っ白なオーダーメイドのスーツを着込み、上等そうな革靴を履き、頭の上には白いウールフェルト生地の中折れ帽子を被っている。背が高く、精悍な顔立ちの彼は、そんな装いを、モデルと見まがうほどに見事に着こなしていた。

 パーティー会場で見かけたのであれば、それほど気にも留めなかっただろうが、ここはそんな洒落た場所ではない。足場の悪いゴツゴツの岩場(磯)なのだ。しかも地元の雁子浜(がんごはま)の人でもほとんど立ち入らない磯釣りの穴場スポットで、相当の釣り好きでなければ知り得ない特別な場所である。

 そんな場所で、ダンディな彼が何をしているのか。それが普通に釣りをしているのだから、中川は4度も見返したのだ。

 磯釣りをするなら、中川のように完全防水防風のジャケットでなければ、あっという間に水浸しになってしまう。ほら、見たことか。波しぶきを舐めるからだ。自慢のスーツが水を含んでみるみると変色していっている。今日は冷えるから、さぞかし寒いだろう。

 中川は彼に背を向ける形で、磯釣りを始めた。できるだけ関わりたくないのだろう。磯釣りで、狙い目の魚といえば、イシダイ、メジナ、チヌ、マダイなどがあるが、この日中川が狙っていたのはメジナ。

 メジナは、豪快な引きの強さがある上、臆病者で警戒心が強いから、慎重に駆け引きをしなくてはいけない。それが釣り人を魅了して虜にしている由縁だ。

 カリカリと釣り竿のハンドルを巻き上げる音が聞こえてきた。ダンディな彼の釣り竿にアタリがあったらしい。関わりたくないと思ってみても、やはりこの瞬間ばかりは気になるようだ。中川はさり気なく彼に視線を向ける。

 彼の持つ釣り竿は、しなってはいたが、引きはそれほど強くない。ほどなくして、海面から現れた釣り針を見た中川は、思わず吹き出しそうになる。

 釣り針に掛かっていたのが、ビニール袋だったのだ。珍しいことではないが、キザな格好をして釣り上げたのが、ビニール袋ってのが、妙に間抜けで可笑しかった。まぁ、魚だって、あんなドレスアップしたヤツに釣られたくないわな。

 慣れた手つきで、中川はメジナの仕掛けを完成させる。そして地平線に向かって、勢いよく竿を振りおろし、海に糸を投げ入れた。

 一方、ダンディな彼も、釣り竿に仕掛けを取り付けるところだった。中川は関わりたくないと思いつつも、さり気なく彼に視線を向ける。ドレスアップしたヤツが、どんな魚を釣ろうとしているのか興味があった。

 仕掛けは、魚の数と同じだけさまざまな種類がある。中川ぐらいになると、仕掛けを見れば何の魚を狙っているのか分かるのだが、彼の仕掛けを見た中川は、目をパチクリとさせるばかりであった。

 ゴツゴツの岩場に置かれた高級ブランドのボストンバッグは、ダンディな彼のもの。彼はそこから宝石箱を取り出すと、プロポーズをするかのように、パカッと蓋を開けた。中には真っ赤なルビーの指輪が入っている。そのルビーの指輪を、改造した釣り針にガチャと装着すると、地平線に向かって勢いよく竿を振りおろし、海に投げ入れた。

 海底では、中川が釣り針に取り付けたオキアミとダンディな彼が釣り針に取り付けたルビーの指輪が並んでいる。オキアミとルビーの指輪。異様な光景だ。

 彼がいったい何を釣ろうとしているのか、さすがの中川も見当がつかなかった。あんな場違いな格好で釣りをするぐらいだから、ド素人なのだろう。だとしても、ルビーの指輪で釣りをしようなんて、正気の沙汰とは思えなかった。

 完全に意識があちらに向いていたのだろう。中川は自分の釣り竿が大きくしなっていることに全く気付かなかった。

「あの、引いていますよ」

 ダンディな彼が見かねて言ってきた。

「あ!」と発した中川は、慌ててリールを巻き上げるも、一足遅れたためか、釣り針には何も掛かってなかった。

「残念でしたね」

 ダンディな彼が人懐っこそうな顔を向ける。中川は苦笑いを返す。すると今度は、ダンディな彼の釣り竿が大きくしなった。ハァ!?と中川は顔を歪める。ルビーの指輪に魚が喰いついたというのか…。嘘だろう。

 もう一つ驚くべきことがあった。懸命にリールを巻き上げていく彼の姿が、素人とは思えない見事な釣り竿さばきだったのだ。

 格闘の末、巻き上げられた釣り針には、何も掛かってなかった。「残念でしたね」と返す余裕が、中川にはなかった。ルビーの指輪はどこにいった?魚に喰われたというのか?中川の頭は混乱していた。そんな中、ダンディな彼が話しかけてきた。

「今日の狙いはメジナですか」

 中川の足元に置いてあるエサのオキアミを見て推測したのか。やはり素人ではない。

「え、ええ、まぁ」

 中川は動揺しながらも答える。こういう釣り人同士の何気ない会話は、珍しいものではない。中川だって聞いていいのだ。何を釣ろうとしているのか聞いていいのだ。

 ダンディな彼が、ボストンバックから高級腕時計を取り出し、釣り針に取り付け始める。今度は高級腕時計か、と頭の中で言い放つ中川は、もう聞かずにはいられないと腹をくくり、あくまでも自然な流れを意識して言った。

「あの、何を狙っているんですか?」

 すると彼はさらりと答える。

「人魚です」

 に、人魚。中川の目が点になる。これは、何かの冗談か?それとも、人魚という名前の別の魚がいるのか?

「あの、人魚というのは…」

「え、ご存知ないですか。上半身が人間で下半身が魚の。ほら、おとぎ話なんかで出て来る、あれですよ」

「ああ、あれですか…」

 中川は平静を装いながら返すものの、嫌悪感を抱く。やっぱり関わっちゃダメな人だー。

 ダンディな彼が、釣り竿をその場に置いて歩き出したのでどうしたのかと思ったら、ボストンバックから、四つ折りになった大きな和紙を取り出した。そして、これ見て下さいよ、と言わんばかりに和紙を広げると、そこには墨でくっきりと人魚がかたどられてあった。

「…」

 中川が言葉を失っていると、ダンディな彼は自慢げに言う。

「人魚拓です」

「ハァ…そうですか」もちろん信じちゃいない。

「一度だけ釣った事があるんですよ」

 嘘付け!と中川は言いそうになったが、何とか口をつぐむ。初対面なのでオブラートに包んで言う。

「人魚って架空の生物じゃないんですか」

「いやいや、ちゃんと実在していますよ。逃げられてしまったから、証拠はこれしかないんですけどね」

 こんなもの(人魚拓)証拠でもなんでもない。作り物に決まっている。するとダンディな彼が、大真面目な顔をしてこう話し始めた。

「別に信じてもらわなくても構わないんです。実はわたし自身も、あれは夢だったのか、幻だったのか、今となってはよく分からないんですよ。だけど、あの日以来、彼女の姿が頭から離れません。とても美しい女性でした。ブロンズの長い髪、大きな青い瞳、吸い込まれそうな白い肌。上品で高貴で、それでいて、妖艶で神秘的で。わたしは人魚に恋をしてしまったんです」

 ダンディな彼が、どうしてドレスアップしているのか、中川はようやく分かったような気がした。人魚に好かれたくて、良い男に思われたいのだ。彼は、恋をして周りが見えなくなっているだけなのだ。

「だけど、人魚を釣ろうなんて思うもんじゃありませんね。お金が掛かって仕方ありません」

 と、ダンディな彼は高級腕時計が仕掛けられた釣り竿を持ち上げて見せた。

「人魚には、そういう仕掛けが有効なんですか?」

「人魚も女性ですからね。女性は、宝石や高級腕時計やブランド物に目が無いでしょう」

 人魚にブランドの価値が理解出来るとは思えなかった。かと言って、人魚がミミズやオキアミに目を輝かせて喰いついているところも想像出来なかった。

 ダンディな彼は釣り竿を地平線に向かって、大きく振り下ろし、高級腕時計を海の底へと投げ入れた。

 しばらくして、ダンディな彼の釣り竿が激しくしなった。慌ててリールを巻き上げるが、海面から現れた釣り針に、腕時計はなかった。腕時計を取り付けてあった箇所が、開けられている形跡が見て取れた。

 何かが高級腕時計に喰いついて奪い去ったのだとしたら、それはメジナではなく、人魚だと言われたほうが、納得がいく。この海には、本当に人魚が存在しているのか。そうだとしたら、彼が人魚を釣ったというのも、事実なのかもしれない。同じ釣り人として中川は、羨ましいと思った。

「これが最後になります」

 ダンディな彼が、ボストンバックから取り出した宝石箱の蓋を開けると、ダイヤの指輪が入っていた。キラキラと眩い美しい光を帯びている。先程までの品とは桁が一桁違うのは、その輝きを見れば一目瞭然だった。

「最後とはどういう事ですか?」

「残念ながら、資金が底をつきました」

 人魚釣りに莫大なお金がかかるのは明白。中川は何だか残念に感じた。

「諦めてしまうんですね。後悔はないんですか」

「やれるだけの事はやりました。分かった事があります。人魚は、人間の女性なんかより、賢くて、したたかで、簡単には釣り上げられないという事です。どんな腕自慢の釣り人でも無理でしょうね」

 ダンディな彼は、釣り竿を地平線に向かって大きく振り下ろし、ダイヤの指輪を海の底へと投げ入れた。


 あれから数日が経った。磯釣りの穴場スポットに燕尾服姿の中川がいる。一応、ダンディな彼をまねて正装をしてきたのだが、父親が結婚式に着たという燕尾服を実家のクローゼットから引っ張り出してきたため、防虫剤臭かった。

 ダンディな彼との出会いは、中川の釣り人としてのプライドを刺激した。腕に自信のある釣り人ほど、釣ったことのない大物を釣り上げてみたいという衝動に駆られるものだ。

 ボストンバックを岩場に置くと、中から取り出したのは、昨日貯金をはたいて購入した宝石だった。宝石に興味のない中川は、店員に勧められるままに一番人気だという20万円もするダイヤのネックレスを購入した。

 あの日ダンディな彼から譲り受けた釣り竿に、ダイヤのネックレスを取り付けると、さっそく海の底にダイヤのネックレスを投げ入れた。

 色鮮やかな魚やサンゴがイルミネーションのように彩られる海の中、ダイヤのネックレスが潮に煽られユラユラと優雅に揺れている。そこにゆっくりと近づく黒い影があった。

 ネックレスの目の前までやってくると、手に持っていたリモコンの《開》ボタンを押す。すると釣り針のネックレスを取り付けてあった個所がガチャッと開き、簡単にネックレスを取り外す事が出来た。リモコンには、他に《しなる》というボタンがある。

「一丁、あがり」

 と、ダイビングスーツを着込んだダンディな彼が、ニヤリと厭らしい顔を張り付け、次のポイントへとゆっくりと泳いでいく。

 その辺りの岩場には、彼にまんまと騙されたドレスアップした釣り人たちが、高価な品を海に沈めていた。彼の仕掛けに釣り人が喰いついたというわけだ。彼が釣り上げようとしていたのは、人魚ではなく、釣り人であった。これは釣り人を狙った前代未聞の特殊詐欺であったのだ。

 全ては、彼の祖父が死んで遺品整理をしている時に古いつづらの中から、人魚拓を見つけたのが始まりであった。骨董品を集めるのが趣味だった祖父が、骨董市で面白半分に買ったのだろう。

「おかげで、儲けさせてもらっているよ。しかし本当馬鹿な奴らだ。少し考えれば、人魚なんているわけがないと分かりそうなものなのに」

 ダンディな彼は、間抜けな釣り人の顔を思い浮かべて笑った。その時、美しい銀色の尾鰭で海を蹴る黒い影があった。それは瞬く間にダンディな彼の背後に迫り、妖しい姿をさらした。日本の海で、襲われるなど誰が想像するであろう。気配を感じた彼が、何となしに振り返り、馬鹿ズラをさらした時には既に遅かった。

 ガーーーッと大きな口をあけた人魚が、彼の頭を目掛けて喰いつこうとしていた。


 海中では、釣り人たちが垂らした、高価な宝石が美しい光を放っている。しかしそんなものには全く興味を示すことなく、人魚は優雅にその場を去って行くのであった。