小説

『誰も知らない』萬造寺竜希(『メリイクリスマス』)

 

 

 総武線高尾行きの電車が、高円寺に停車する。電車を降りて、ホームの真ん中から眼下に広がる街をしばらく眺める。あの時と何も変わっていない。歩く人達が駅に向かうわけでもなく、駅周辺を何度も行ったり来たりしている。見えない何か、強く悍ましい引力のような、反発する力が強ければ強い程、引き戻される力も比例して強くなるような、はたまた結界の中にいるような、そんな風に見える。この街に一度住んだら、引っ越しを躊躇する理由はそこにあるんだと思う。僕はそんな結界から抜け出し、今は田園都市線沿いに住んでいる。補足を入れると、僕も自力でここから抜け出したわけではない。外界からの手が差し伸べられたのだ。僕は、その手に引っ張られるままに、気が付けば、世田谷にいた。つまりは、ガールフレンドができたわけで、今はその女性と世田谷で一緒に暮らしている。なので、この街に来るのは一年ぶりだ。急遽予定がキャンセルされて、しばらくは部屋でテレビを観たり、本を読んだりして過ごしていたが、突然、空白になった僕の時間がフラフラと部屋中を浮遊して、ついには僕の目の前で停滞して目障りだったので、ひとまず家を飛び出して、電車に乗った。気が付けば新宿で総武線に乗り換えてここにたどり着いていた。休日ということもあり、駅前には沢山の人の姿がある。十二月の寒空の中、昼間からお酒を片手に弾き語るシンガーもいれば、毛布をブルーシート代わりに酒盛りを楽しんでいる中年男性の集団も伺える。全てが懐かしく思える。本当に何も変わっていないのだと安堵した。この場所は、あの時のまま時間が止まっているのだ。僕は、ある一人の女性のことを思い出していた。

 その女性とはこの街で出会った。もっと言うと、彼女とこの街以外で会った事はない。当時の僕たちは、まさに結界の中にいて、そして悍ましい引力によって引き寄せられたのだと思う。他の街にいる彼女を想像することが出来ない。もしかすると彼女は、この街でしか、生きていけない特殊な人間なのではないかとさえ思う。無性に彼女に会いたくなってきた。彼女の家は何度も行ったことがある。住宅街を少しだけ複雑に曲がるけれど、早朝にも、夜中にも、視界が悪くなる雨の日も、幾度も通った家だ。二階建ての木造アパートの一階の角部屋。ちょうど階段下に玄関があった。玄関の横には、枯れ果てた何らかの植物が、鉢に埋まっていた。初めてそこに行った時に僕は聞いたことがあった。「これ、なんていう植物?」彼女は、少し大きめのダウンジャケットから部屋の鍵を探しながら、「教えない」と言った。どうしてと僕は聞いた。「聞いたところでへえ、そうなんだ、で終わるでしょ。特殊な名前だったら、なんでそんな植物を買おうと思ったのって聞くくらいのもので」「もしかしたら、君が思ってる以上にその名前で盛り上がるかも知れない」と僕は言った。彼女は、「それなら、あなたが数年後にどこかでこの種物をたまたま見掛けて、その時に初めて名前を知って、一人でくだらない名前にクスッと吹き出す方がいくらかまし」と言った。そんなものかな。と僕が言った。彼女は、やっと鍵を探し出し、ポケットから取り出した。鍵と一緒にくしゃくしゃのレシートと11円が出てきた。「それは何」僕が聞いた。「この前知らない男とファミレスで食事をしたの。その時のお釣り」と言った。「楽しかった?」「もう、会話が尽きないの。ずっとあれこれ話をしてて、割り勘で支払いをして、お釣りを私にくれたの」

 それが彼女との出会いだった。記憶として確かに存在している。昼間でも薄暗い玄関。その原因は部屋に入ってすぐに分かった。台所の二枚の窓。その窓を塞ぐように、大きな本棚が突っ立っていた。彼女は本を読むことが好きだった。たまに文学的な表現をすることもあった。暇さえあれば時間を共有した。商店街を抜けて、目印となる店を探す。この辺の角は、どこも似たり寄ったりで、目印がないと分かりづらい。目印の古本屋があった。ここを左に曲がってしばらく進む。間違いない。曲がってすぐに僕は立ち止まってしまった。全く見覚えのない景色が広がっているからだ。都市開発が進んで、新しい家が建ったとか、更地が増えたとか、そういったことではない。おそらくあの時と何も変わっていない。でもどうしてだろうか。全く見覚えがない。しばらく、歩いてみるが、すぐに交差する道路に突き当たった。そこには見覚えのないコンビニがあった。仕方なく僕は引き返して、来た道を辿る。しかし、いくら探してもどこにもない。何度も何度も繰り返す。結果は変わらなかった。いつまでもたどり着くことが出来ない。

 諦めて、僕は駅の方向に戻る。商店街を駅の方に進む途中に大きな窓が特徴的な純喫茶があった。彼女とよく通った店だ。僕は店に入った。店内には、ソウルミュージックが流れ、壁やソファーにそのメロディーが染みついている。ここの店主とも一年ぶりに再会するわけだが、彼は僕の顔を見て、一瞬口元が緩んで、「あら、いらっしゃい」と言った。どうやら僕のことを覚えてくれていたらしい。彼女とここへ来ると必ず、窓際の席に座った。残念ながら、この日は、先客がいたので、僕は大人しく、カウンターに座った。店主がコーヒーを淹れるのを眺めながら、彼女とここで話したことを思い出していた。この窓から外を眺めるのが好きな彼女は、僕と一緒にここへ来ても、その大半の時間を、外を歩く人を眺めて、それから、太宰の小説を読んで時間を過ごしていた。僕と話をするのは、それに飽きた時か、本の内容で彼女にとって引っ掛かる文章が書かれていた時だけだった。「ねえ、この世は不条理だと思わない?」読んでいた文庫の本に栞を差し込んで彼女が言った。「どうしてそう思うの」「あなたはそう思わない?」僕は、どうだろうと首を軽く傾げた。彼女は、そんな僕を見て、「あなたって案外、鈍感なのね」と言った。「鈍感かどうかはわからないけど、それくらいがちょうどいい気がする」彼女は、冷めたコーヒーに手を伸ばして嬉しそうに「私もそう思う」と言った。続けて、「敏感になるということは少なからず、自分もそこに加担することになるでしょ。知らないままいる方が、いくらか幸せな事はあると思うの」と言った。

 君は、いつも曖昧だと思っていた。でも、もしかしたらそれは、僕の大きな見当違いで、曖昧の奥にしっかりとした、明確な何かがあったんだと思う。それから彼女は、不条理の根拠を独自の視点で語りだした。「あなたにとって=で結べるものは何がある?」僕は少し考えて、「君は僕にとっての親友」と言った。首から徐々に赤く染まっていくのが自分でも分かった。彼女はすぐに、「つまり、私=親友ってことよね?」と言った。そう、そう。「じゃあ、それを逆に考えてみてよ。親友と聞かれて=それは私になる?」僕には友人と呼べる人間はほとんどいない。頭に浮かんでくる人の顔が彼女しかいなかった。「そうなると思う」と答えた。彼女は、「それは嬉しいけど、私にはそれはないな。あなたは親友だけど、親友と聞かれて真っ先にあなたの顔は浮かんでこない」と言った。彼女は微笑っていたが、僕はひとり取り残されてしまった。ソウルミュージックが流れる店内で、僕一人、静寂を感じた。「でもね、私=あなたにはなると思うの」外を眺めながら彼女は付け足した。「もしかして、それが不条理の根拠?」彼女はそう、と言った。

 今ならはっきりと言えることがある。彼女とこの街はイコールで結ぶことが出来ると思う。彼女といえばこの街だし、この街といえば彼女が真っ先に出てくる。彼女は不条理と言ったが、こんな身近に条理に適った事があったのだ。

 カウンターに座る僕の元に、コーヒーが運ばれてきた。「だいぶ久しぶりだよね」店主は、僕の前に立って言った。「もう高円寺には住んでいないんです」店主は去り際に、「そうなんだ。良かったらいつでも来てね」と言った。僕は思い切って店主に聞いてみた。「あの、僕がよく一緒に来ていた女性のこと覚えてますか?」店主は、窓際の席を見つめた。彼の返事を聞く前に、その答えを理解した。「春頃だったかな。それまでは、よく一人で来てくれてたよ。変わらず、あの席で、外を眺めて、本を読んでたね。てっきり君の事を待ってるんだと思って、あの男の子を待ってるの?って聞いたことがあってね。そしたら、春を待ってるんですって。もう春だったからね。温かくなって、街中が新生活をスタートさせて。だから、もう春だよって言ったら、まだなんです。まだ春じゃないんですって。不思議な子だったよね、あの子は」僕は店主の話を聞きながら、彼女の表情を想像してみた。店主は不思議と言った。僕には、そうは思えなかった。むしろ、彼女らしさに吹き出しそうになった。彼女は後から僕を楽しませる術を知っていたんだ。良かった。彼女はずっと彼女のままだった。

「もしかして、それが不条理の根拠?」彼女は、そう、と言った。

どうしてそう思うの。僕は聞いた。彼女は変わらず外を眺めながら、

「あなたの前にいる私は、他の誰かといる私とは違うの」彼女の口元は乾燥している。

「それはなんとなくわかる?」僕は、小さく頷いた。

「それは僕にも同じことが言えるわけだよね?」

「もちろん。ここにいる私も確かに私で、他のところにいる私も間違いなく私なの」

僕は、分かるとだけ答えた。

「そう考えたら、私とあなたは=で結べる気がするのよ」

「僕の前にだけ現れる君だから?」

「そう、あなたに影響を受けた私だし、この私は、あなたが引き出してくれた私だから。他の場所では決して現れることはない。似てるようで全然違うの。他の場所の私とは。あなたは私にすごく優しい。少なからず、私はあなたにそういった印象を抱いている。そして、言葉を理解してくれる。私の拙い言葉を」

「拙くない。むしろ美しいとさえ思ってる」今すぐ取り下げたい言葉が出た。

「ありがとう。でも残念ながら私の言葉を理解してくれない人とは話が弾まないし、そもそも私と話をしようと思う人さえ少ないの。変わった人とか、不思議な人って言葉で片づける人もいる。もちろん、あなたじゃなかったら、うちの前にある植物の名前もすぐに教えてあげると思うし、ポケットから出た11円も恥ずかしくて、必死にポケットを手探りで、鍵だけを取り出すように努めると思うの」

「もしかして、ファミレスではずっと外を眺めることもなかった?」

「そんなことしたら相手に失礼でしょ。それくらいのことは私にもわかる」

「でも、僕といるときは、ほとんど外を見てる」

「それが自然だから、嫌ならずっと話をするけど」

「それは君じゃない気がする」

「わがまま。正確にはそれも私よ。でも、あなたといるときの私ではないってだけ」

「なんだか、寂しい話をしているみたいだね」

「寂しくなんてない。どちらかというと春のような話よ」

「春?」

「そう、春。草木が芽生えるような。風が大地を揺らすような。そんな話」

僕は、頷くことしか出来なかった。

「だからね、みんなが知っている私なんて、どこにもいないの」

 コーヒーを飲み干して、店を出た。冬の夕方の風は冷たくて痛い。心臓の近く。どこと言われても正確に言い当てることが出来ない場所。心臓でも肺でもない、どこか。そのどこかに突き刺さるような痛み。帰り道、古本屋に立ち寄った。店先には全品百円セールのワゴンが置かれていた。僕は、不規則に並べられた本のタイトルを順に眺める。グッド・バイ。太宰の文庫を手に取り、レジに向かった。レジには、ショートヘア―の店員さんが山積みになった本一冊一冊に、値札を張っている。「お願いします」百円を支払って店を出た。ワゴンを男女二人組が囲んで談笑している。恋人同士だろうか。灰色のニット帽を被った男が、「家に本棚がある女性ってちょっと憧れる」と言った。僕はおもわずにやけた。

 商店街を駅に向かって歩き出す。太宰の文庫本と、それから、僕しか知らない彼女の事を握りしめて。一度も振り向くことなく。


 (了)