小説

『天神山にて』柿ノ木コジロー(『通りゃんせ』(わらべうた:作者不詳))

 

 

「えっ、日帰りで山? まあいいケド、予定ないし」

 紗江の第一声だった。遥はこっそりと大きく息を吐く。

「それにしても、近場だねー」

 いつものように紗江が鼻を鳴らした。


 会社の同僚である紗江を、近所の天神山登山に誘ったのだ。天神山は標高1300m程で、途中までは車で行けるらしい。以前はほとんど登る人もいなかったのだが、山頂からの景色はほどほどに良いらしく、『映え』探しと山ブームとのおかげで、近頃では登山客も少しはいるようだ。


 どうしても、上りたかった。

 でもひとりでは少しこわい。

 そんな時に思い出したのが、紗江だった。

 口が悪くて性格は少しキツい。バーゲンとか特売に弱く、ちょっとばかり意地汚い。それでも、同期の中で、少しは話せる相手だったし、何より、山登りの経験も少しはあるという話だった。彼女を誘うしかない。


 地元では昔からこんな噂話もあった―― 天神山には、何も置いてくるな、そして、何も持って帰るな、小石ひとつでも ――と。

「何か置いてきたら、どうなるんだろ?」

 車の助手席にいた同僚の紗江が、鼻を鳴らして言った。

「どうせ帰って来れない、とかそんな……」

 言ってから、紗江は口をつぐんで、おそるおそる遥の横顔をのぞいた。「ごめん、つい」

「ううん、ホントそうらしいからね。それにキリオのことはもう、過去だし」


 遥の彼氏・桐夫は、天神山から北に伸びる連山のひとつ、大鹿岳にひとりで上ったきり帰って来なかったのだった。

 大鹿岳は2100mあるが、日帰り登山でも人気の高い山だった。桐夫の車は大鹿岳登山口の駐車場に置かれたまま、持ち主が帰ることは無かった。

 五年以上も前のことだ。それから何度か身内や知り合いのボランティアがルートを中心に捜索していたが、手掛かりひとつ、見つからなかったのだ。

「ハルちゃんにはちょっと、キビシイかも。もっと山に慣れたら一緒に登ろう」

 それが最後の言葉になってしまった。


 いつもは性格的にもキツイ感じの紗江が珍しくしゅんとしたままだったので、遥は敢えて声を明るくして言った。

「でも、天神山から無事に帰ってきてるみたいだよ、みんな。私、マップでクチコミかなり見たけど。噂のこともちょっとだけ出てたけど、あんまり気にしなくていいんじゃない?」

「そっかー」紗江はいつものテンションに戻ったようだ。

「ま、低くても気をつけて、ってコトだろうケドね」

 正確には、ちょっと違う……遥はコメントと画像のいくつかを思い出していた。山頂の画像はいくつかあったが、その投稿者はその場でアップしてから、帰宅したかどうかは不明だ。その後、他の場所の投稿を上げている人が極端に少ないのも気になっていた。

 それに、一番気になること。それは紗江にも黙っていた。

 今回の山登りで、どうしてもあれを見なければ……遥は口を閉じ、ハンドルを握る手にかすかに力を込めた。


 狭い林道を細心の注意で車を走らせ、標高500mあたり、クチコミ通りの狭い『車寄せ』にどうにか無事に車を停めた時にはすでに午前10時近くなっていた。

「てか、休みなのに車一台もなかったねー」

 紗江はすっかり、調子を戻したようだ。

「あんま人気ないんだねー、まあ、初心者にはちょうどいいくらい?」

 車止めから未舗装の林道を少しいった先、山道にはいる所に『天神山山頂』と小さな矢印看板があった。

 ふたりしてその場にいっとき立ち止まり、ごくりと唾をのんでから、崖沿いの細道に一歩を踏み出す。


 がけ地を抜けて雑木林に入ってから、ようやくふたりの肩から力が抜けてきた。

「空気が違うねー」

 紗江が、大きく息を吸って吐く、を繰り返す。

「案外低い山なのに、高い山みたいな空気……やっぱ人気ないから?」

 ははっ、と笑って紗江は辺りを見渡す。

「紅葉、きれいだねー。あっ、栗が落ちてる! あそこも!」

 遥が鋭い声を飛ばす。「拾っちゃだめだからね」

「えー? 大好物なんだけどなー」

 紗江が頬をふくらませる。

「遥、けっこう迷信信じるクチだよねー」

 遥が口調そのままの目でにらむと、紗江は軽く笑って

「りょーかいりょーかい」

 また、すたすたと歩き出した。


 それからも、山頂までの山道では特に困ったこともなく、雑木林を抜けた先から沢の近い岩場、針葉樹林、がれ地とふたりは軽く息を切らしながらも順調に上っていった。


 シジュウカラやヤマガラのさえずりも遠くなり、ついに草もない山頂にたどり着いた時には、紗江も、遥すら感嘆の声を上げた。

「すごい」

 尾根道からはるか下方に、180度以上のパノラマが見渡すことができた。

 南側には白くかたまる市街地、その向こうに青い宝石のように輝く海、山から伸びる裾野のあちこちは赤や黄色の雑木林と深い緑色に沈む針葉樹林のかたまりがみえ、合間の広々とした草地には、この時期なのに紫色の花畑が広がっている。

「すごい、良い景色!!」

 紗江も小躍りで喜んでいる。

「こんなに低い山なのにねー」やはり、一言余分だった。

 夢中でスマホのカメラでシャッターを切る紗江の背後で、遥はそっと、山頂の標識に目をやった。


 遥が何気なく検索していた天神山の画像のひとつ、岩がごろごろとした山頂に立つ『天神山』の標識に、掛けられていた沢山のもの、お守り、小さなぬいぐるみ、ストラップ、そして。

 小さな金属製のロケット。

 7年前の誕生日に紗江が桐夫にプレゼントしたものに、そっくりだった。

―― 大鹿岳ではなくて、どうして天神山の山頂にこれが?

 登山計画書には天神山へのルートはなかったはずだ。歩けばかなりの時間を要するだろう。携帯の電波も天神山とは反対、大鹿岳の北側で登山日の夕方には途絶えていたし、彼が車を停めた場所ともずいぶん離れてしまっている。


 標識は、画像とほぼ、同じ状態だった。古びた杭に掘られた『天神山 1302m』の文字と、それを覆い隠すほどの物の数々。

 ストラップ、小さなぬいぐるみ、ビニル紐、カラビナ……それはさながら、何かの貢ぎ物のごとく杭を飾っていた。

―― 彼らは、無事だったのだろうか、置いて帰った人たちは。

 遥は色んな思いに囚われながらも、杭に残された物たちに指を這わせていった。

 画像には、確かにあった。でもあれから、少し物が増えてる?

 見当たらない?

 急にはっ、と遥は手を止めた。

 赤い登山ロープのもつれた下に、それはあった。震える手で遥はそれに触れる。


 桐夫にあげたロケットだった。


 気づかないうちに、北側、天神山に続く峰々に目をやっていた。あの中のどれかひとつが、彼の目指した場所だ。

 峰々の向こうから、うす黒い雲が湧き出していた。


 山頂でのおむすびは、ほとんど砂を噛んでいるようだった。紗江はすっかり景色が気に入ったらしく、こちらの様子にはあまり構わずに食事中もずっとしゃべり続けていた。


 帰り道も順調だった。まだ日も高い。針葉樹林も、沢の近い岩場も怖いことはなかった。

 ただ、遥はほとんど身が入っていなかった。足どりこそしっかりしていたが、心がついていかない、紗江の声に反射的に返事をしているだけだ。

 雑木林に入ってから、また、小鳥の声が近くなった。

 ほうっと大きく息を吐いて、紗江が梢を見上げる。

「案外、楽だったね」

「うんそうだね」遥の答えに色がないのも、紗江は気づかないようだった。急に、いたずらを思い付いたように

「ここまで来たら、もう後は大丈夫だね」

 そう言って、かがみこんだ。

「……何してんの」

 やっと気づいて、遥が訊ねると、紗江は、ううん、なんでもない、と笑ってから

「ちょっとおハナバタケねー」

 そう言いながら、薮の中に分け入った。

「ねえ」

 急に日がかげる。「ティッシュ敷いて、ちゃんと全部……持ち帰ってよ」

「山登りのジョーシキよー。りょーかいりょーかい」

 彼女を待つ時間が、遥には永遠にも思われた。


 ごめんごめん遅くなって、と出て来た紗江のリュックは、少しばかり膨らんでいる。

「天気悪くなってきたね、早く降りなきゃね」

「ねえリュック」

「あっ、これ」紗江の口調はさり気ないが、確かに何かを含んでいた。

「トイレの後始末よー、さ、行こう」


 雑木林を出て、最後の難関、崖沿いの細道にたどり着いた時には、時間はまだ午後の2時を回ったばかりだというのに雲が厚く垂れこめたせいで、あたりはすっかり暗くなっていた。

「足元、気をつけてね」

「ヘーキヘーキ、遥こそ、気をつけなよ」

 前を行く紗江が振り返った、そのとたん、低い地響きが身体を震わせた。

 左側の崖上、木々が震え、あっという間に黒い土砂が巨大な塊となって紗江を飲み込む。

「サエ!!」

 大きな枝に頭を払われて、遥は意識が飛んだ。


 気づいた時には、遥は崖っぷちにかろうじて、ひっかかる状態になっていた。

 かぶさる枝を払い、ようやく身を起こす。

 帰り道は、土砂で大きく削られていた。

「サエ、どこ?」

 先ほどまで紗江がいた場所が、大きく削られている。

 下を覗き込むが、暗がりが広がるのみだった。

「サエ、サエ!!」

 遥は急に寒気を覚え、へたへたと座り込んだ。

 車を置いた場所までは、順調に行けばあと20分ほどだ。しかし、道は無くなっている。

 少し崖を上って、崩落した箇所を避けることができるのだろうか。ぼんやりと見上げてみるが、見当がつかない。

「どうしよう」

 低山での遭難は、案外ありふれている。たいがいは油断が原因だが、それ以上に何か、不吉なものを感じて遥は縮こまるようにその場に座った。

 足元にスマートホンが転がっているのに、その時ようやく気付いた。

 何度も滑り落としそうになりながら、ようやくスマートホンを拾い上げ、画面を出してみる。

 電波が辛うじて届いているようだ。時折、ひとつだけアンテナが立つ。

 タイミングを見計らって、遥は緊急電話をタップした。

 何度目かに、ようやくつながった。

「もしもし……はい、救急です。位置は、はい、良かった、そうです天神山の……はい、友人と降りてくる途中、崖崩れで、友人が見えなくなって私も。はい、名前は……」


 やっと切ってから、また、意識が遠のいていった。



「ヤマウチさん、ヤマウチハルカさーん」

 何度目かの呼びかけに、ようやく気がついて遥は飛び起きた。

 あたりは、かなり暗くなっていた。

「ここです」

―― 良かったねー、すぐ助けがきたね、まあ、標高低いからね。

 紗江の笑うような声が聞こえた気がした。

「こっちです、こっち」

 遥は紗江の声に負けじと、更に声を張り上げた。

 がけ崩れの向こう、続いている道の方にぼんやりといくつかの明かりが見え、それがだんだん大きくなってきた。


 良かった、すぐにこちらに渡れるようにしますね、と消防隊らしき人たちが次々と作業を始めていた。

 細いロープを張り、それをだんだんと太いものに替え、遥のすぐ近くまで隊員がひとり、ロープ伝いに近づいた。

「ケガは?」

「ないと、思います」

「立てる? 歩けるかな」

「大丈夫です」

 しかし、

「ごめんね」

 彼が言った。

「そちらに渡って、君をかついで連れ戻すことはできないんだ」

 理由はなんとなく、遥にも判った。

「だから、手を伸ばすからなんとか自分でこちらに」

「はい、わかりました」

「さあ、こちらへ」

 隊員がロープに体をあずけ、思いきり、手を伸ばす。

 遥は口をわななかせ、自分も手を伸ばす。

 ひと足が怖い。

「気をつけて」

 ざら、と足元が崩れ、既に何も見えないがけ下の暗がりに吸い込まれる。

「サエは、友だちは、あの」

「とにかく君を先に、お友だちの捜索も明日必ず」

「わかりました」

「あの、その前にちょっと」

 背後にいたひとりが、静かに遥に問いかけた。

「こんな時に、ごめんね。でも確かめないと」

「な」声が震える。

「なんでしょうか」

「あの……何も、なにも持ち帰ってないよね」

「……はい」

 ならいいんだ、さあ腕を伸ばして、そう告げる声を聞きながら、遥はふるえる左手に握ったロケットを、そっと足元に落として、一歩を踏み出した。