小説

『無礼男』柴野裕治(『ブレーメンの音楽隊』グリム童話)

 

 

 「社会参加を回避し、6か月以上にわたって概ね家庭にとどまり続けている状態を示す現象概念」


 僕はひきこもりだ。

 それも、彼是15年以上はコンビニの往復と掛かり付けの歯医者、年に一度の散髪、あとはたまに夜の公園を散歩するくらいで、日中は殆ど家にいる筋金入りのヤツだ。


 そんな僕が意を決して印鑑をポケットに押し込み、市役所にやって来たのは

 「督促」

 と赤字で書かれた通知に震え上がったからだった。

 スーツの男女に敵愾心を抱きながら僕がロビーを徘徊していると、首から名札を下げた女性が声をかけてきた。

 「どのような手続きですか?」

 僕が目線を落とし、ポケットから皴になった書類を取り出して見せると、彼女は僕を奥の窓口に案内した。そして今度は覇気なく椅子に座る僕に、カウンター越しの別の女性が立ち上がった。

 「ご来庁ありがとうございます」

 僕は下を向いたまま、また皺くちゃの書類を差し出した。すると女性はしばらく紙を見た後、僕の顔を覗き込み驚いたように言った。

 「広畑君!?シンジじゃないの?私だよ、安曇」

 彼女は名札を見せながら、満面の笑みを浮かべた。

 こんな姿を誰にも晒す訳にはいかんという絶対的防衛本能で、これまで他人との接触を極力避けていた僕にとって、最も困った出来事だった。

 僕は彼女の勢いに圧倒され、おどおどと返した。

 「安曇さん、中学以来?」

 僕にとって安曇カナエはただの同級生ではなかった。彼女は頭が良くてクラスの人気者、周りにはいつも取り巻きがいて、つまり僕とは異世界の人だったのに、中学生活の大半、僕はずっと彼女に思いを寄せていた。いや先方は覚えていないだろうが、家の方向がたまたま同じで何度か一緒に下校できた幸運を勘違いした僕は、紛れもない恋文を投函するという暴挙にも出たことがあるのだ。今の僕は彼女の神々しさに、まともに対峙できるような存在ではなかったが、よく見れば意志の強そうな大きな瞳とショートカット、笑うとえくぼが出るところは変わっていない。

 しかしそんな僕の激しい動揺を知ってか知らずか、邂逅に声を弾ませていた彼女は一転、怪訝そうに言った。

 「ところでシンジ、あんたバンドでもやってるの?」

 そりゃそうだ僕の出で立ち、束ねた長髪に学生時代に買った黒いライダース、ロックテイストの派手なTシャツ、キリギリスの様な足を強調する極細ジーンズに白いコンバース。どう見ても音楽関係者か、往年のロック大好きおじさん、でなければ未だに反骨精神旺盛な危ない中年男性にしか見えない。

 「何やってる俺!」

 と自分に突っ込みを入れつつ、良い格好しいの僕は彼女の問いに「音楽関係者」を選択、ここまで約3秒。

 「バンド?まぁ、少しだけ」

 「パートは?」

 「ギターとボーカル、少しだけね」

 「次はいつなの?絶対行くよ!」

 パソコンを見ていた彼女はこちらに向き直り、興奮気味に言った。ギターなんてブームに肖ろうと大学の時に齧った程度で何年も弾いていない。どうやら「少し」というワードは届いていない様子。

 「つ、次?」

 「ライブに決まってるじゃない!」

 彼女は何の疑いもない眼をしていた。

 そう言えば安曇さんは、避難訓練でふざけ半分の男子を見つけ「口をハンカチで抑えなよ!」なんて、命を守る尊さを説くような真っすぐな性格だったんだ。

 「あ、えーと…」

 僕は予定なんて空っぽのスマホのカレンダーを開き、しどろもどろになっていた。

 「もう!とりあえず番号、ラインくらいやってるでしょ」

 痺れを切らした彼女は手続き待ちの列を気にしながら、電話番号の書かれた紙を差し出して目配せをすると、爽やかな笑顔でまた一礼した。

 「手続きは完了です」

 僕は追い出されるようにエントランスへ向かった。途中一度だけ振り返ると、安曇さんは先程までが嘘のように、淡々とキーボードを叩いていた。

 この日、41歳ひきこもり中年が、いい歳をしてくだらない嘘をついた。僕は家路をたどりながら、少し遅咲きの金木犀の香りの中でラインのアプリをダウンロードした。


 昼夜逆転の僕にとって深夜2時から5時くらいまでは、虚無、絶望、焦燥感がグラデーションで繰り返し襲ってきて、僕という存在自体に失望してしまうことが多い時間帯である。しかしこの数日間、その時刻に僕は毎日安曇さんのことを考えていた。

 「お世話になっております、広畑信二です」

 あの日、僕がおよそ同級生とは思えぬような事務的なメッセージを送ると、彼女からはすぐに返信があった。顔見知りってこんなにも個人情報を垂れ流すのか、などと卑屈な感想を持ちつつ、彼女が中学を卒業後、地元の高校に進み市役所に就職したこと、十年程の結婚生活を経て昨年離婚、子供はいないことなどが徐々に分かった。僕はというと、大学を卒業後、東京で働いていたが色々あって25歳の時に地元に戻った、という以降の経歴は創作で、今はSEをしながらバンド活動に勤しむ夢多き中年ギターリストという偽りの肩書を拝命した。

 そしてできる限りライブという言葉を避け、いや、あわよくば忘れてはくれまいかなどと考えながらやり取りしたが、彼女の追及は厳しく、ライブは四か月後の二月十二日に…決まった。その日がA・リンカーンの誕生日であることとも、ブラジャーの日であることとも関係なく、二十年前から古びた学習机に張り付けられた、ラモーンズのライブチケット「観覧席B—212番」を捩った出まかせだった。

 それにしても、未だに残る自分の虚栄心に呆れていた。いつからか、そんな煩わしさからは撤退したはずだったのに。

 いや、しかし今はそんな悠長な感傷に浸っている場合ではない。安曇さんが日にちしか決まっていないライブに来るのだ。そう考え、埃まみれのギターを引っ張り出したところで途方に暮れた。

 「バンドって、メンバーは!?そもそも僕には友達もいない」

 架空のライブ日程が決まったその日、焦った僕は藁にもすがる思いで、いくつかのSNSに書き込んだ。


 「アルバイト急募、一緒にライブを演って下さい!当方ギター&ボーカル」


 両親が遺してくれたお金をこんなことに使うのは心苦しかったが、バイトを雇って一緒にライブを演じる、もうこれしかないと、僕はこの時真剣に考えていた。


 そして世間が冬支度を始める頃、この書き込みにレスポンスがあった。

 「初めまして 当方ドラム 31歳 男 ガッツ」

 僕は「好きだった女性に見栄を張り、ライブをやる羽目になってしまった。すぐに会って話がしたい」と懇願した。隣町に住むガッツさんは、ベースのできる友人まで紹介してくれ、ラッキーにも数日後にはファミレスで会えることとなった。


 その日、ガッツさんとベースの武さんは僕の話にたっぷり二時間も相手をしてくれたが、ケチなプライドだけは持ち合わせる僕は自分の境遇を偽り、安曇さんに言ったようにSEを装った。そして二人のお陰でどうにか話が進み、バンドの名前をどうしようかとなった時、ガッツさんが言った。

 「俺たちバイトだし、任せますよ」

 センスのない僕は安曇さんに大ウソをつく無礼な男と、ブレーメンの音楽隊を掛け合わせ「無礼男(ブレーメン)」はどうかと精一杯の提案をしたが、二人の反応は明らかに微妙だった。

 それでもライブハウスを予約し、当日は二人の友人も観客として来てくれることになり、その時点で何とか演奏以外は形になりそうだった。


 仕事どころか、呆れるほど暇を持て余していた僕は、とにかく手の皮が擦り剝けるくらいギターを弾いて、世間がクリスマスを迎える頃にはようやくギターリストらしいタコもできたが、その間も安曇さんとは思い出話に加え、仕事や趣味、時にはバンドの事など、都合の悪い質問には後ろめたさを覚えながらも、その度に取り繕いながら連絡を取っていた。それは彼女にだけでなく、ガッツさんと武さんにも。二人のメンバーとは最初こそぎこちなかったが、誠実で優しい彼らは、僕の馬鹿げた願いも真剣に受け入れてくれた。僕は自らを偽り、何ら落ち度のない二人もずっと欺いていたのだ。


 そしてついに二月十二日、昼過ぎに目覚めた僕がギターを担いで外に出ると、風は冷たかったが、この辺りの冬には珍しく空は良く晴れていた。


 駅前の黴臭いライブハウスに到着すると、ピアスだらけの店員が邪魔くさそうに「ぶれいおとこ」と読み間違いの紙が貼られた楽屋に案内してくれた。僕らが演奏できるのはたった5曲、音合わせの時間を経て、開演までは落書きだらけの楽屋にある錆びたパイプ椅子に座った。

 武さんは余裕なのかハンバーガーを腹に詰め、ガッツさんは膝をドラムに見立ててリズムを取った。僕はただソワソワしていたが、そこに安曇さんが差し入れを持ってやってきた。彼女はすぐに二人にも打ち解け、壁の落書きを指で触れながら言った。

 「それにしても、仕事しながら三人とも凄いね。尊敬するよ」

 「まぁ、でもホントは毎日仕事辞めてえなぁ、なんて考えてるけどね」

 武さんは笑いながら返した。

 「クレームだらけで、市役所って損な仕事だけど、そうか、皆も大変だよね」

 安曇さんがそう言うと、ガッツさんが僕の方に向き直り、

 「働かなきゃ食えないし、聞けば信二さんだって結構夜勤もあるんでしょ?大したもんすよ」と大きく頷いた。

 皆の話を聞きながら、僕はもう罪悪感で潰れそうだった。この数か月間、僕は本当の事を言うチャンスが何回もあったが、そのたびに欺いた。安曇さんは昔から少しも変わらず聡明で優しい女性だったし、ガッツさんも武さんも最近は本当の仲間のように接してくれる。僕はこの人たちが大好きだ。

 気持ちは演奏前に沸点に達し、ついにひきこもり中年の嘘が白日の下に晒される時がやって来たのだ。


 「僕は…全然違うんだ」


 蚊の鳴くような声で白状した。

 膝を叩くガッツさんのスティックが止まり、大音量が響くはずのライブハウスは静まり返っていた。

 「僕は、仕事なんてしていない。親の遺した金を食い潰して、時間を浪費しているだけのクズだ。その前は親の年金で、ずっと…」

 被告人は下を向きながら続けた。

 「最近も、練習とコンビニ以外は殆ど家から出ていない。今日だって、安曇さんに嘘をついて、二人に頼んで…。これからも…きっと」

 黙って聞いていた武さんが

 「それって、いわゆるアレ?ひきこ…」と言いかけると

 「バン!」

 安曇さんが掌で壁を大きく叩いて、叫んだ。

 「だったら何なの!私、あんたのそういうところ大っ嫌い!」

 彼女の声にギターが共鳴した。

 「中学の時、あんた私に寄こした手紙に何て書いたか覚えてる?

 好きです、でも、どうせダメだろうから返事は不要ですって、

 いい加減にしろ!勝手に悲観して、諦めて、あんたがひきこもりのロバなら、私だってとっくに適齢期過ぎた雌鶏なんだよ!!」

 安曇さんは興奮して壁をもう一度大きく叩いた。

 「だけど私、役立たずで結構!誰に何て言われるかなんてどうでもいい、お払い箱の動物たちにだって、未来はあるんだ!」

 僕は唖然としながらも、安曇さんが手紙のことを覚えていたのに少し感動していた。すると今度はガッツさんが

 「俺、そういうの関係ない。バイトのつもりだったけど、このバンド楽しいよ。だから関係ない」と再びリズムを刻みながら言った。

 「学歴もなくて、仕事嫌いな俺は鼠の取れない猫かぁ」

 武さんは何故か笑っていた。

 「私だって親の反対押し切って結婚して、流産して、結局離婚して。でもそれが何?卵を産めなくなった雌鶏だって、ラストは仲間とハッピーな毎日を送るじゃない。私だって私のまま、いつか…絶対」

 怒っていたと思った安曇さんは、今度は大粒の涙を流しながら言った。

 「広畑信二!ロバはブレーメンのまとめ役だろ!まずは今日のライブ、カッコいいとこ魅せてみろ!嘘だって何だって、やっちまえばそれは真実だ!今はそれしかできねえだろ!」

 そして彼女はまた怒って、僕の背中に強烈なキックを浴びせた。


 開演時間になり、僕は背中に心地好い痛みを感じながらステージに上がった。暗闇に目が慣れてくるとお客はせいぜい三十人。それでも初めてのライブに僕は意外にも落ち着いて、挨拶代わりに下手糞なパンクロックを熱唱しながら、面倒だけど近々ハローワークにでも行ってみよう、スーツはどこだっけ、なんてことを考えていた。 

 「俺は明日を夢見る、ひきこもりロバだー!」

 曲の間奏で、叫ぶ僕の視線の先には最前列に立つ笑顔の安曇さんがあった。それは中学の頃、僕が憧れたえくぼの彼女だった。