友達同士の「誰好き?」ってやりとりが苦手。
あれで自分の好きな子を言うことができない。
なぜって、その子の名前自体が、私には神聖なものに感じるから。ハリポタでラスボスのこと、「名前を言っちゃいけない、あの人」と表現していたが、ああいう感じだ。ハリポタの場合は「不吉だから言っちゃいけない」なんだけど、私の場合は、「神聖だからむやみに名前を出してはいけない」、そう感じてしまう。
だから友達に「誰好き?」って言われると、
「桃太郎」
と答えることにしている。
「出た、千穂路の逃げ」
今日も下校中、友達からそう言われるけど、私は堂々と答える。
「いや、だって桃太郎、スゴすぎん? でっかい桃から生まれたんだよ? それだけでスゴいのに、鬼退治までやっちゃうじゃん」
あながち嘘ではなく、私は桃太郎が大好きだった。
小さいときに桃太郎の絵本を読んでもらった時の衝撃を、私は今でも忘れない。
物語が持つパワーは強力で、幼い体を駆け巡る血液すべてが、私の頭に集まってきた。そして生後六か月で公園のシーソーから誤って落ちた時以来の衝撃で、物語が私の頭を打ちつけた。
小さい頃の私には、はっきりと桃太郎の勇姿が見えていた。それだけではない。おじいとおばあが桃を切るときの感触、黍団子の癖の強い味わい、犬猿雉と鬼との格ゲーのような派手な音、桃太郎の桃の香りの体臭まで感じていた。私は桃太郎を五感の全てで感じ取っていた。
そんなことを友達に話すと、
「何度も聞いたわ、その話」
と返され、その後、何気なく彼女が聞いた。
「でさ、そのとき誰が絵本読んでくれたの?」
彼女に言われるまで、そんなこと考えたことがなかった。そういえば誰かに何度も、
読んで、読んで。
とせがんだ記憶がある。
「誰だったか覚えてない」
「おい、いきなりホラーだな」
友達が笑う。
確かに変だな、誰だろう?お父さんかな、お母さんかな?じいじだっけかな?なんだか読み方がとてもうまかった。優しい感じがした。
うーん、と雑巾絞るみたいに海馬を追い込んでいると、
沢渡君。
上手に制服を着崩せて、白いナイキのスニーカーがよく似合う沢渡君。サッカー部レギュラーのなかでも、ひときわ大きな声で笑う沢渡君。高校生の彼女がいるという噂で、私らカースト下位の女子からは程遠いところにいる沢渡君。
私の「名前を言っちゃいけない、あの人」、沢渡君。
の顔が浮かんできて、私は驚く。
沢渡君と私は確かに保育園一緒だったけど、同学年の沢渡君が私を膝の上に乗せて、読み聞かせできるわけない。でもなんで沢渡君の顔が浮かんだのだろう。
今、私は家でちょっとした内戦状態だ。お母さんは私が塾をさぼったことで苛立ち、私は糖質制限してるって言ってるのにむやみやたらにイモ類を食卓に並べるお母さんに、苛立っていた。
でも私の海馬はポンコツで、これ以上の情報を私に与えてくれない。
家に帰ってきた私は、仕方なくお母さんに聞くことにする。
「私さ、桃太郎の絵本、好きだったじゃない?あれ、誰が私に読んでくれたの?」
ベランダで洗濯物を取り込んでいたお母さんが、私のほうを見る。午後の西日の逆光でよく見えないけれど、お母さんの目は暗く濁っているように見える。でも洗濯物を両手に抱えて「よっこら」とリビングに入ってくるときには、その深刻さは手品のように消えている。
「ちょうどでびっくりだな。明日、塾休もうか」
「え、なんで?」
お母さんの「ちょうど」の意味もわからなかったし、塾休むことの意味もわからない。
「ん、ちょっとついてきてほしいところあるから」
そう言って、お母さんは口笛で、もーもたろさん、ももたろさーん、と奏でる。
翌日、学校から帰った私は、
「着替えないで」
と言われ、制服のままお母さんに連れていかれる。
お母さんは駅前の駿河屋の袋を持っていた。名物のアンコの団子か何かだろう。ということは、これから誰かに挨拶に行くのだろうか。いつまで経っても真相を話してくれない母親に、私はやはり苛立つ。
道すがら、お母さんはやはり桃太郎の童謡を口笛している。
桃太郎の歌って、何番まで続くんだろう。
そんなことを考えていたら、いつのまにか寺の墓地についている。
あれ、なんでだろう、じいじもばあばもまだピンピンしているのに。
お母さんについていくと、向こうで女の人が手を振っている。その側で、学校の制服着た背の高い男の子が、そっぽを向いて立っている。
沢渡君だ。
そこに沢渡君がいるとは思いもしなかったから、胸を大砲でズドンと撃たれたような気分になる。
「千穂路ちゃん、久しぶりー」
私は沢渡君のママにぺこんとお辞儀する。
「千穂路ちゃん、可愛くなったねぇ! ねぇ、琥太」
「そういうのいいから」
沢渡君がママにそうやってツッコむところが、急に可愛らしい。
「来てくれてありがとうね。……今年は、千穂路ちゃんも一緒か」
沢渡君ママがお母さんにそう言う。
「うん。千穂路、これ、墓前に供えて」
「あ、はい、わかりました」
私はなぜか緊張して母親に対して敬語になる。それに気が付いて、顔が火照るのがわかる。
でも誰のお墓なんだろう。
「千穂路ちゃん、絵本のこと、覚えてるんだって?」
「え? はい、そうです」
「千穂路ちゃん、小さかったから覚えていないと思うんだけど、よくうちに家に遊びに来てたんだよ。それで、うちのお兄のほうがすごい千穂路ちゃんのこと可愛がってて。何度も『桃太郎』を読んであげてたんだよ」
「お兄……さん? お兄さんって、沢渡君のお兄さんのことですか?」
でも私は沢渡君にお兄さんがいることを知らなかった。
私はそっと沢渡君を見る。沢渡君が顎で、くいっと墓を指し示す。
「それ。それが俺の兄貴」
ぐっと私の胸が痛む。
そうか、だからか。だからあのとき、沢渡君の顔が浮かんだんだ。
「今の琥太と同い歳で死んじゃってねぇ。でも琥太、お兄とそっくりに育って。母親の私がちょっと引くくらい」
沢渡君ママが笑うけど、その声にはやはり悲しみが宿っている。
「でもお兄のほうが学校の成績、全然よかったけどな」
沢渡君ママが誤魔化すように沢渡君の頭を小突き、うるせぇ、と沢渡君が言う。
私たちは川沿いの道を歩いている。
夕方間近の太陽の光が、川の水面で照り返してくる。そんななか、小学生の野球チームが河川敷のグラウンドで守備練習をしている。監督がノックをして、男の子たちが転がりながら捕球する。まだまだー、声変わり前の可愛い声で叫んでいる。
沢渡君もあのチームに入ってたな、でもいつの間にか野球を辞めてサッカー始めてたな。
そんなことを考える。
墓前で私はしっかり、沢渡君のお兄さんに感謝を述べた。そしてお墓参りが終わった後、
「私らカフェに寄るから、千穂路ちゃんのこと送ってあげな」
と沢渡君ママが言い、私と沢渡君は私の家まで一緒に歩くことになった。
久しぶりに沢渡君の横に並んで、背が大きくなったことに驚く。すこしだけライムの香りがする。あの沢渡君が制汗剤つけるようになったんだな、と当たり前のことに感心していると、私は汗臭くないかな?なんて不安になってしまう。
それにこんなところ、誰かに見られたらヤダな。
特に目立つ女子グループ。いじわるされる。
「なんか話すの久しぶりだな。小学校まで、結構話してたけど」
「……そうだね」
それは君が輝いて近寄りがたいから、私らにとっては遠くから拝むしかないの、とは言えない。
「お前、高校は国立行くんだろ? 頭いいもんな」
「どうだろう、受かるかわからんけど。でも沢渡君もサッカー凄いじゃん」
「いや、駄目だよ。上手い奴、たくさんいるし。俺、小学校の時は野球やってたじゃん? でも練習だんだん嫌になった。ちょうどそのときサッカーも盛り上がっててさ、サッカーやりはじめて、中学もサッカー部で。俺、ちょっと器用なところあるんだよな。だから一通り体が動けちゃう感じでさ。でも器用なだけで、いつもなんか一つ、足りないんだよな。上の奴らには追い付けないし、下の奴らからはもうすぐ抜かれる。でも母ちゃんも言ってたけど、俺、馬鹿だからさ、お前みたいにいいとこ行けないし、どうしようかな」
沢渡君は言葉とは裏腹に笑う。その笑いは少し乾いていて、日当たりの良いこの道では、笑い声はどこかに蒸発してしまう。
「……私、ぜんぜん覚えてなかったんだ、沢渡君のお兄ちゃんのこと」
私は思い切ってそのことを告げる。
「すごく可愛がってくれてたのに、私が覚えているのは『桃太郎』のことだけで、誰が読んでくれたのか、最近まで全然考えたこともなかった……ちょっとひどいよね」
ごめんね、と私は小さくつぶやく。
「……誰も知らないんだ、俺に兄貴がいたこと。お前が初めて」
内容ではなくその言い方に、私はどきりとしてしまう。
「先月、すごい大雨降っただろ?」
「うん、怖かった。川が氾濫するんじゃないか、って」
「十二年前にさ、もっと凄い雨が降ったんだぜ」
私と沢渡君がまだ三歳の頃だ。
「そういう日って、絶対川に近づいちゃダメじゃん? なのにうちの兄貴、夜中にわざわざこの河川敷に来たらしい」
私は思わず立ち止まってしまう。
「……どうして?」
「さあな。親とケンカしたわけでもないし、学校でも変わった様子もなかったって。でも兄貴はここに来た……そしてあっという間に攫われた。一週間後、下流のほうで死体が浮かび上がった」
いつの間にか沢渡君も歩くのを止めている。
私は何も言えなくなる。
少年野球チームのノックの音と威勢のいい掛け声が、私たちの間を突き抜けていく。
「兄貴がなんで川に行ったのか、どうしてそんな馬鹿な事して死んだのか、俺にはずっとわかんなかった。頭いい奴は余計なことで考えすぎるのかな、って、そう思ってた。でも兄貴と同じ歳になって、こんな俺でも、そのときの兄貴の気持ちがちょっとわかりつつある……兄貴はどうすればいいか、わからんかったのかもしれない。今の俺がそうみたいに――」
沢渡君の言葉は川面のように揺れていて、私は彼が泣いているのだと思って、沢渡君を見る。
違う。
泣いているのは、私だ。
そのとき、開かなかったジャムの蓋が急に回りだしたように、私のなかで突然記憶がよみがえる。
沢渡君のお兄ちゃんが、私を見ている。優しそうな目。でも目の奥が不安そうに揺らいでいる。沢渡君のお兄ちゃんは、私を膝の上に乗せて『桃太郎』を読むことで、自分の中の危ういバランスをなんとか維持している。幼い私は幼い本能で、それを感じ取っている。
読んで。もっと読んで。
きっと完全無欠の桃太郎がなんとかしてくれる。私はそう信じていて、お兄ちゃんにもそのことを信じてほしい、と願っている。
でも桃太郎って、そんなに強いんだろうか?
本当はうまくいくかどうか、ずっと不安なまま歩いていたんじゃないだろうか?
「……むかしむかし、おじいさんとおばあさんが暮らしていました」
私は泣きながらつぶやく。
「は? どうした?」
沢渡君が戸惑うけど、今度はもっと大きな声で言う。
「おばあさんが川で洗濯してると、大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと!」
急に大声出した私は、ここでむせてしまう。
そんな私を見て、沢渡君が高らかに笑う。
「お前、面白い奴な」
「そうだよ、私は面白い奴! 沢渡君も一緒にやろう!」
沢渡君がにかっと笑う。そして川に向かって叫ぶ。
「おばあさんが家に持ち帰って桃を切るとぉ! 中から元気な男の子の赤ちゃんが出てきましたぁ!」
今度は私の番だ。
「おじいさんとおばあさんは、その子に桃太郎という名前をつけましたぁ!」
そうやって大声で語る度に、私たちの身体の底から不思議な力が込み上げてくる。
そうだ、わかった。
私たちは全員、桃太郎なんだ。
実は不安で臆病な桃太郎なんだ。
でも大丈夫。
この身体には息するための肺がある。血を送るための心臓がある。同じように、この身体には勇気という臓器が備わっている。そういうことにしておかない?
「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰に付けた黍団子ぉ!」
道を歩く人がちょっと笑いながら、私たちを見ている。
いいよ構わない。
だって人の目を気にしている暇なんて、私たちには無いんだから。
私たちは一生懸命に声を出した。沢渡君のお兄ちゃんに、この声が届くように。私たちの奥底に、この声が届くように。