小説

『ザラハイ』佐藤邦彦(『銀河鉄道の夜』)

 

 

 階段を上へ上へと寡黙に進む者。

 階段を下へ下へと寡黙に進む者。

 永遠に束の間の遭逢を繰り返す。

 上ること。

 下ること。

 違いのない世界。

 壁に掛けられた不思議な絵をしばらく眺めていたが、店主が私に気付く気配はない。

 仕方がない。

 私は席を立ち扉へと向かう。

 ちゃりんからんと音立てて開いた扉を驚いた顔で見つめている店主を無視して表へと出る。

 実家だった場所は建物が取り壊され、私は味わうことが叶わなかったが、水出し珈琲が売りの瀟洒な喫茶店となっていた。

 秋の日は釣瓶落とし。

 六年振りの近所を散策している間に日は沈み、駅に着いた頃にはすっかり夜となっていた。ちょうど良い頃合いだろう。

 駅舎もない無人の駅が澄みきった暗夜に浮かんでいる。

 どれくらい駅に佇んでいたのだろう。

 ごととんごととん。幽かな音と振動を感じたかと思うと、線路の向こうから小さい光の球があらわれ、たちまち眩い光と一緒に列車がホームへと滑り込んできた。

 私は列車に乗り込む。

 一両編成の列車内にいる乗客は一組三名だけだ。

 父と母に弟のアキラだ。

 車両の半ほどまで歩を進め、進行方向とは逆向きになる通路側の席に、私は無言で腰を下ろした。

 アキラの隣、両親の向かい側だ。

 「ひとりなのか」

 「ハルカさんは」

 「六年振りだね」

 父、母、アキラの順に口を開く。

 「うん、ひとり。ハルカは七回忌で実家に行っている。それで六年振りに帰省したってわけ。三回忌は帰ってこれなかったしね」

 三人にまとめてこたえる。

 「帰省なの、ね。実家はもうないのに」

 母が呟く。

 「うん。建替えられて、水出し珈琲が売りの喫茶店になっていたよ」

 「初めて知ったわ。こっちにいると全然あの辺のことはわからないから」

 と母。

 「ふーん。喫茶店にね。なんか寂しいね」

 とアキラ。

 「喫茶店にはハルカさんと一緒に行ったのか」

 と父。

 「いや、一人。さっきもいったようにハルカは永源の実家にいっているから。なかなか雰囲気の良い喫茶店だったよ」

 私が努めて明るく話す。

 しばしの沈黙。私は珈琲を飲めなかったことは口にださなかった。気を遣ったのだろう。三人から味についての質問はなかった。

 「そうか。ハルカさんは永源の家に行っているのか。その、なんだ。そうすると、お前たちはまだ夫婦なわけだな」

 「そうだね。離婚届は出していないからそうなるのかな」

 そう返事をしたが、本当に私たちはまだ夫婦といえるのだろうか。

 「こっちの世界にいると、そっちのことが分からないから」

  母がさっきと同じようなことを口にする。

 「あっ、動きだしたね」

 とアキラ。

 列車がゆっくり、がたごとと、動きだす。と、父が煙草を取り出して火を点ける。

 「ちょっと。車内は禁煙でしょ。お父さん。いくら私たちしかいないからって」

 母が咎めるのに、

 「おいおい。この列車は禁煙ではない。そもそも誰も乗ってこないだろうが。それはお前だって分かっているだろうに。それにだ」父はいったん言葉を区切ってから、「この煙草だって本物なものか。ほら、ここに灰皿もあるじゃないか。」窓の下の灰皿を指差し、紫煙を吐き出しながら父がいう。この煙も本物ではないのだろう。

 「本物ではない煙草の味はどう」

 私が父に尋ねる。

 「美味い。ことによっては本物以上に美味いんじゃないか」

 父がニヤリと笑う。

 「そうするとさ、本物と本物じゃないものの違いってなんなのだろう。だってさ、味だって結局は脳がどう感じるかだろ。甘いケーキを脳のエラーで苦く感じたら、その人にとって、それは苦いケーキだよね。味だけじゃないよね。現実だってさ、その人の脳がどう感じるかだよね。現実と脳の認識に齟齬があったら、どっちが現実なのかな」

 アキラがいうのに、

 「どっちも現実だろ」

 父がにべもなくこたえる。父は理屈っぽい話が嫌いだ。

 「そういえば、あの事故の前くらいから禁煙していましたものね。現実世界のお父さんは」

 父以上に理屈っぽい話に拒絶反応を示す母がいう。

 「事故のはなしはしてくれるな…」

 父が弱々しく呟く。

 「ごめんなさい。つい」

 母が父に謝りながら私へと目を向ける。父とアキラも遠慮がちに私へと目を向けている。

 私は視線を車窓へと向ける。

 車窓には我々四人の姿は無く、対向車線をはみ出した黒い車と、それを避けようとし、急ハンドルのためスピンしている白い車が映し出されている。白い車に乗っているのは運転手の父と、母にアキラだ。

 「そういえばさ」

 その場を取り繕うように灰皿を指差し、アキラが話題を提供する。

 「俺と兄さんはさ、子供のころ灰皿を英語でザラハイというものだとずっと思い込んでいたんだよね」

 私もアキラに調子をあわせる。

 「そうそう。父さんがさ、煙草を咥えながら『灰皿はどこだ。ハイザラは。英語でいうとザラハイはどこだ』ってしょっちゅういうからさ、俺もアキラもすっかりザラハイが英語だと思っていてさ」

 車窓には火の点いていない煙草を咥え、泥鰌掬いのように腰を屈めてお道化ている若い父が映し出される。

 「おいおい。子供のころって、いつぐらいまでそう思っていたんだ」

 と若くはない今の父。

 「そうだね。俺は中二くらいまでかな。兄さんは」

 「高一くらいかな」

 「おいおい。高一って、ノブヒコ。そりゃ子供とはいえないのじゃないか。英語の授業もあっただろうに」

 「まっ、そうなんだけどさ。まさか灰皿を引っ繰り返しただけだとは思っていなくってさ」

 「私も48歳まで英語だと思っていましたよ」

 母の告白に六年振りに家族が笑い合う。

 「まったく。お前たちは」

 嘆息する父に、

 「でもさ、父さんも思い込みでひと騒ぎしたことがあるよね」

 「俺が、思い込みで」

 「うん」

 アキラが披露したのは我家では定番だった話題だ。

 私と結婚し、初めてその話を聞いた時にはハルカもおかしそうに笑っていたものだ。

 その日、思いがけず仕事が早く片付いた父が帰宅すると、家にいるはずの母がいない。どこに行ったのだろうと、父が母の携帯に電話を掛け、今日はせっかく早く帰ってきたのに、どこに出かけているのかと問うと、「ちょっと頭があれだから、今、荒川病院なので切りますね」母が通話を切る。

 すわ一大事。隠れ愛妻家の父がおっとり刀で荒川病院に駆けつけるも、待合室に母の姿はない。

 よもや緊急入院かと、「妻は何号室ですか」と窓口に詰寄る父。受付の女性は父の剣幕に押されつつ記録を調べ、そのような人は今日来ていないと父に告げる。納得しない父が「そんなはずはない。もっとちゃんと調べてくれ」と更に詰寄る。と、

♪I wanna be loved by you, just you, And nobody else but you, I wanna be loved by you, alone Boo boo bee doo♪

 モンローの悩ましい歌声が流れる。病院の待合室に相応しくないことこの上ない。父が携

 帯電話に設定していた着信音だ。携帯電話の画面をみると母からの着信。驚いた父が電話に出る。「もしもし。今帰ったけど、あなたどこに行っているの」と母。お前病院じゃないのかと質問に質問で応える父。その質問に母が応える。「頭があれだったから荒川美容院に行ってたの。病院じゃないわよ」

 いわゆる『頭があれ事件』だ。

 車窓には美容室から帰ったばかりの、今よりは皺が少なく、深くもない母が映っている。

 「近所に荒川病院と荒川美容院があるっていうのは反則じゃないのか」

 この父の言い訳までが『頭があれ事件』を語る際の一連の流れだ。

 とりとめのない会話は続く。

 車窓には次々と思い出が映し出される。台所に立つ母。晩酌中の父。家庭用ゲームに熱中しているアキラ。ソファーに寝転ぶ私。笑顔のハルカ。etc.あの日まで日常だった、なんの変哲もない風景。

 あんなこともあったね。こんなこともあったね。六年振りの一家団欒。話題は尽きない。

 「ずいぶん時間が経った気がするけど、この列車、あとどれくらいで目的地に着くのかな」

 ふとアキラが呟く。

 「ばか。余計なことをいうな。意識したら着いてしまう」

 父がアキラを咎める。

 「ごめん。また俺やっちゃったよ。自分だけが観ている夢でもそうなんだ。楽しい夢をみていて、ああ、これは夢なんだな。まだまだ終わってくれるなよ。そう思うと、その夢が終わってしまうんだ」

 「大丈夫。これはあなた一人が観ている夢じゃないのだから。まだ時間はあるはずよ」

と母。

 車窓には、しょげている幼いアキラと、しゃがみ込んで目線を合わせながらアキラを慰めている若い母が映し出されている。

 「うん。そうだね。もう少し時間はあると思うよ。現実では僅かでも、ここではその何倍にも感じられるのだからね」

 と私。そう、現実の時間ではあと数十秒程度。時間を薄くうすく、破れそうなくらいに引き伸ばして使えるここでも、それ程の時間は残されていないだろう。

 泣いている幼いアキラと、シャツの袖でアキラの目元を拭っている幼い私が車窓に映し出される。

「家族全員揃えばよかったのにね」

 母が呟く。

 と、列車が減速しだし、ついには完全に停止した。まだ、目的地ではないはずなのに。

 列車の扉が開き、人影がひとつ。

 どきりとした。

 ハルカだ。

 「お義父さん。お義母さん。アキラ君。お久し振りです」

 ゆっくりと歩いてきたハルカが立ったまま三人に挨拶をする。

 「ほんと久し振り。実家に行っていたんじゃないの」

 「向こうはバスだったのですが、みんな降りたので、こちらに乗ることにしたんです」

 ハルカが母にこたえる。

 「義姉さん。座れば」

 アキラが席を立ち、私が窓際に移動する。

 「ありがとう」

 「義姉さん変わらないね。俺の方が年上みたいだ」

 二人は言葉を交わし、アキラは通路向かいの席へ、ハルカは私の隣へ腰を下ろす。

 「結婚してすぐ家を出ていく形になってしまって、ごめんなさい」

 強張った表情でハルカが父と母に謝罪の言葉を口にする。

 「いや、ハルカさんの責任ではない。むしろ責任は自分にある。申し訳なかった」

 父が頭を下げる。

 「そんな。お義父さんはなにも。ノブ君まで連れて行ってしまって、本当に反省しています」

 「何も反省するようなことじゃ。誰が悪いってわけじゃないでしょ。悪いとすれば運が悪かっただけ。ね、お父さん」

 「ああ。そうだな。でも、やはり」

 「そんなはなしはいいじゃない。久々に家族全員揃ったんだから。それよりさ、兄さんと義姉さんもこれからはちょくちょくこっちに来られるんでしょ」

 通路向こうからアキラが割ってはいる。

 「いや、次はまた六年後だ」

 「六年後。13回忌ってこと?」

 アキラへの返事をハルカに任せ、私は車窓へと目を向ける。

 対向車線をはみ出した黒い車。それを避けようとし、急ハンドルのためスピンした白い車が反対車線の路肩に突っ込む。黒い車はそのまま対向車線を走り続け、白い車の後ろを走っていた赤い車と衝突する。持病でもあったのだろう。黒い車の運転手はハンドルに頭を載せている。意識はないようだ。車二台に分乗し、家族でショッピングモールへ向かっている途中での事故だった。

 赤い車を運転していたハルカは未だに自分を責め、父は父で、自分が黒い車を避けたせいだと気に病んでいる。助手席にいた私は私で、自分が運転していれば、事故を回避することはできなくとも、ハルカが三人に負い目を感じなくともすんだろうにと、やはり後悔している。

 「六年後か。それじゃ、お前たちがくるより先に俺がそっちにいくかもな」

 父の言葉に私は視線を車窓から父に向ける。父は笑っていた。冗談のようだ。

 この言葉をきっかけに、私の妻(法的には私たちにはなんの権利もないのだから、夫婦ではないのかもしれないが)を加えた完全な一家団欒が再開されたが、それほど永くは続かなかった。いつの間にか走り出していた列車が、ふたたび速度を落とし、停車したのだ。

 三人はここで降りなくてはいけない。

 「着いてしまったようだな」

 「うん。また六年後に来るよ。それまでみんな元気でね」

 「あなたたちも元気でね。というのも変ね。いい直すわね。心が元気でいてね」

 「ありがとうございます。逢えて良かったです」

 「ねえ。みんな見てよ」

 アキラが車窓を指差す。

 車窓に映っていたのは今現在の私たち四人だった。