小説

『たからもの』深山喩生(『姨捨山』)

 

 

 よく晴れた春の夜、老婆を背負って山を登る男がいた。六十を過ぎた老人は山へ捨てよという掟のためである。背負った母は葉の消えた冬の枝のように軽い。寒そうに丸まった足の指、痩せて皺の寄った手が目に入る度、土に膝をついて泣き出しそうだった。

「平太や、平太」

 自分の名を呼ばれ、思わず立ち止まった。若い女の声である。辺りには誰もいない。

「平太」

 今度はすぐ後ろから声がする。ぞっとして首だけ後ろを向くと、背中から長い髪がさらりと二房、落ちた。平太はウワッと叫び、思わず母を地面に落としてしまった。

 そこに座り込んでいたのは、見知らぬ女であった。年の頃は十七、八くらいだろうか。白い月光に濡れたように照る黒髪、土で汚れた頬はふっくらと白い。田舎の村ではまずお目にかかれない、見事な肌をしていた。よい香りのする絹で拭き上げられた美貌が、繕いだらけの着物で、石だらけの地面に転がされている。平太は思わず見とれた。

「お、お前。誰だ。おっ母をどこへやったッ」

 強く脈打つ胸は、昼寝から突然起こされた時によく似ている。母は、ツルは紛れもない老婆だったはずだ。

「わしの手、………こりゃまるで若いおなごの手じゃ。平太、わしはどうなっとる」

 女は平太に縋りついた。端正な目元は瞬くだけで空気ごと揺れるようである。

「俺はおっ母を背負っとったはずだ」

 肩の広い男に上から覗きこまれ、女は青白い首筋を縮めている。平太は女の黒い髪を掴んでまとめ上げた。

「へ、平太。わしはお前のおっ母じゃ。やめとくれッ」

 女の耳の後ろにはホクロがあった。畑仕事や飯の支度のたび背負われていた平太に馴染み深い、母だけのホクロである。

 平太は髪を離して地面に座り込み、顔を覆って考えた。この女は確かに母のようである。そう信じることにしたのは「これでおっ母を捨てなくてよくなった」と思ったからだ。母は村の最後の老人であり、昔の姿を知る者は皆、各々の家が捨ててきた。掟を破ったとて、誰にも分からない………。

平太は若返った母を連れ、来た道を戻った。



 家に帰ると、泣き腫らした顔のイチが出迎えてくれた。

「帰り道で会ったんだ。故郷の村が焼けて家族が散り散りになっちまって、帰るところがないんだと」

 母は「夜分遅くにすみません」と言って頭を下げた。

「ツルです。遠くから歩いて来たもんですから、足も痛くて腹も減って………一晩だけで構わんので、どうか」

「そうかそうか、大変だったなァ。遠慮せず泊まっていけばええ」

「急ですまん。本当に大丈夫か」

「馬鹿、こんな夜中にお客を追い返す奴がどこにおる」

 イチは二人の話をすぐに信じ、すぐに飯や寝床の支度を始めた。三人で最後に使った湯呑は片付いておらず、そのままだった。


 イチは突然現れたツルを娘のように可愛がった。二人は次第に打ち解け、畑仕事にも出るようになった。

「ツルさんは働きもんだなァ。あんたが来てからすごく助かっとるよ」

「お世話になっとりますから、これ位やらせてください」

 ツルは若返る前、足を悪くしてから家の中にばかりいた。イチちゃんにばかり世話をかけてすまない、と口癖のように言っていたのが遠い昔のようである。

 ツルの噂はすぐに村中に広まり、その美貌を一目見ようと集まる男たちが絶えなかった。堅物ぶっていた国からの遣いでさえ、話す口実欲しさにツルに御触書を渡す始末であった。平太は鼻の下を伸ばしてツルを盗み見る男に気付くとすぐさま飛んでいき、話しかけるなり追い払うなりしなければならなかった。



 イチは快活だが小さな頃からよく寝る女で、今夜もまたふらふらと布団を敷いて眠ってしまった。

 囲炉裏の小さな火に向き直って、ツルは平太の上着を繕っていた。彼女の背中越しにチラチラと光る針は川の水面のようで、気付くと草鞋を編む手が止まっている。

「体は大丈夫か。休みたかったらすぐに俺に言えよ」

「ううん、風邪引いたって次の日にはもう治る。若い頃みたいに元気じゃよ」

「そりゃすごいな、俺もあやかりてェや」

「赤ん坊まで若返ったら、またおっ母が育ててやるさ。はは」

 母を捨てる苦悩に蝕まれていた数か月前までは考えられなかった、穏やかな夜だった。

「わしは幸せもんじゃ。平太はわしのすべてだでなァ」

 橙色の光が、左目の睫毛の端と丸い頬を照らしていた。所作や口調は紛れもない母のものであるのに、恐ろしく美しい女しかここにはいないのだった。



 祭りの準備にかこつけた酒盛りの日である。平太は幼馴染の三郎と勘助とともに集会所の隅の方で気持ちよく酔っていたが、「ツルはお前の愛人なのか」と訊かれ、一気に酔いが醒めた。

「馬鹿言うな、俺にはイチがおる」

「皆言っとるぞ、ツルを遠ざけるときの必死な顔はまるで若い情夫だとなァ」

「赤ん坊の一人でもできてりゃ違ったろうがな………」

 平太は酒をドンと床に置いた。

「口には気を付けろ」

 平太の顔は赤みを通り越して青白い。二人は慌てて謝った。

「そ、そうだよなァ、ごめんな。そんな怒らねェでくれよ」

「だが、イチが暗ァい顔して歩いてるのは本当さ。平太、最近イチの話をしっかり話を聞いてやっとるか」



 平太は途中で酒盛りを切り上げ、足早に帰路に着いた。

 家は真っ暗だった。そっと玄関を開けると、板の間にイチが腰掛けていた。

「イチ、寒いだろう。中に入ったらどうだ」

 何も答えない。どう声を掛ければいいものかわからず、ただ隣に並んで座った。

「平太は、うちのこと好きか」

 突然口を開いたイチに平太は「な、何で急に」と口ごもった。

「何とも思っとらんおなごを嫁になんぞ貰わんさ」

「うちより前にツルさんと出会っとったら、平太はツルさんを選ぶんだろうか」

 イチの、飯の支度や畑仕事で逞しく筋張った腕が震えている。

「村の衆に聞いた。平太とツルさんは、ついこの前出会ったとは思えんほどお互い目をかけとる。きっとツルさんが村に来る前から二人は惚れ合っていて、ツルさんの生活が立ち行かなくなったから連れてきたんだと」

 違う、ツルは平太の母だ。気遣うのは元々老人だった頃の扱いが抜けないからだ。

 そう言いたいのに、平太の喉は巨大な丸石を詰められたように塞がっていた。

「イチより、よっぽど………夫婦らしいと」

 俯いた顔から涙がぽたぽたと落ちた。

「うちとツルさん、どっちが大事なんだ。うちは、もう無理だ。もう限界だ………」

 平太は何とか、錆びついたように動かしにくい腕でイチを抱きしめた。

「お前が、………お前が一番大事だ。すまん、すまんな」

 イチの、晴れ空に気持ちよく響く声や、時に男より度胸を見せるところが好きだった。子宝に恵まれなくても、イチと同じ家で寝起きをして、飯を食えたら満足だったのだ。

 でも、その光景にはいつだって母が微笑んでいた。

「ツルさんには俺が、………言っておくから」

 イチを不安がらせたくないのに、心の中の子供が泣き喚いて嫌がる。遠い日の平太だった。早くに死んだ父の分も働き、自分の飯を抜いてでもたらふく飯を食わせ、着物を泥だらけにして遊んだ日も『よく帰ってきた』と抱きしめてくれた母。平太は顔を上げて涙をこらえた。

「赤ん坊なんて関係ない、これからもずっと一緒に暮らそう」

 自分にも言い聞かせるような言葉だった。

 イチの肩を抱えて立ち上がらせ、寝室に布団を敷いて寝かせた。平太はイチの手を離すのが惜しくて、結局その晩は畳に転がって眠った。



 翌朝、平太はツルと向かい合って久しぶりに二人で朝飯を食った。平太は空の湯呑を何度も持ったり置いたりを繰り返していた。しかしとうとう話を切り出し「うちを出て行ってほしい」と言った。

 ツルは片付けの手を止め、薄い座布団に座り直し、「理由を聞かせとくれ」と呟いた。

 薄い朝日がツルの後ろから差し込んでいる。墨を流したような黒い髪は光に透け、若い頬には産毛が光っていた。

「村の連中に、おっ母は俺の愛人だと噂されとる。おっ母は悪くない、ただ………イチが気にするようでな」

 ツルは若い時のように働いて家の役に立とうと懸命であり、イチは旦那が突然連れてきた若い女をよく世話した。奇妙な生活を続ける平太たちに疑惑をかける村人たちの考えも無理はない。

「俺のせいだ。俺がおっ母を連れて帰って来たから」

 叱られている子どものように、自分の膝ばかり見つめた。着物の裾も床も揺れて滲んでゆく。

「考えが甘かったんだ」

 自分とイチと母。老いようが若返ろうが蛇にでもなろうが、三人揃えばまたいつも通りの生活が送れると、思い込んでいた。平太は口の端を真一文字に下げて、真正面から母を見つめた。

「食い物も着物も用意する。行きたいところが決まったら、そこまで送る。おっ母ならきっと、どこでもやっていけるよ」

 笑いかけると、耳の下がツンと痛んだ。

「おっ母は働きもんだし別嬪だ。おまけに優しいし、何でもできるし」

 ツルは座布団から立ち上がって、平太を抱きしめた。

「世話になったな」

 草むらと湯気が混じった、母の匂いだった。平太は強く目を瞑る。母の着物の肩口はみるみるうちに濡れて色を変えた。

「また会いに帰ってくるからな」

 何十年ぶりかに、母の柔らかい手が頭を撫でた。皺枯れても若返っても、母の手に包まれると途端に子どもに戻ったような気持ちになった。

「平太はわしのすべてだでなァ」

 平太は、一回りも歳の違う女の腹に潜るようにして泣いていた。

 二日後の明け方、行先を誰にも告げずに母は出て行ってしまった。



 遠くから地響きのような蹄の音が聞こえてきたのは、夕闇の迫る祭り当日のことであった。櫓の周りに集まる男たちの元に、三郎が駆け込んできた。

「西から侍が」

 そう言い残し、三郎は真正面にどうと倒れた。

 背中には無数の矢が突き刺さっていた。

 飾り付けられた村の門を黒い馬が突き破り、櫓はたちまち侍たちに占拠された。あちこちに火の手が上がり、断末魔と家々が倒れる音が響いた。

 平太は息絶えた三郎を背負って、必死にイチを探した。逃げ込んだ物陰から見えた旗は、戦の多い隣国のものである。背中の三郎は氷のように冷たく重い。飯の支度を任されていた若い女は侍に捕らえられ、幼い兄弟が折り重なって死んでいた。

「いたぞッ」

 侍は背負われた三郎に向かって矢を射かける。平太はたまらず三郎を地面に落とし、暗い山に逃げ込んだ。後ろを振り返らず、足を深く削った矢にも気づかず、ただ走った。



 山道の先に見覚えのある人影が見えた。

 母であった。

「イチを見なかったか」と叫ぶ。母は答えない。

 平太は矢で傷ついた右足を引きずって母に近づいた。一歩ごとに血がぼたぼたと溢れ、痛みで汗が噴き出した。

「村が襲われたんだ。おっ母」

 母は一歩も動かず、ただ遠いところで立っているだけだった。それがたまらなく悲しくて、寂しくて、平太はいつしか泣き出していた。歩くのも嫌になり、道端に転がった。

 足が痛い。村から聞こえる悲鳴が怖い。家が焼けた煙を吸い込んで咳が出る。もう全部嫌だ。声を上げて泣き喚いた。三郎が死んだことも、イチの行方も、焼き討ちにされた村も、母がここに来てくれさえすれば、すべてが解決するのにと思った。

 平太は腹ばいになって母に手を伸ばした。妙に短い腕は体を持ち上げるのも難しく、蹴ったはずの地面の間には着物が滑り込んでいる。平太はただ手足をばたつかせることしかできなかった。必死に蠢いていた平太の元に、真っ白な足が近づいて来る。

 轟々と村を燃やす炎が、水面のように母の顔に映っていた。黒い髪は橙色に照り、俯いた睫毛にきらきらと光が滑った。

 母は平太が埋もれている着物を持ち上げ、土や小枝を払って平太をくるんだ。嗅ぎ慣れた自分の家の匂いと温かい母の腕に包まれると、悪寒が走るほどの安心感が平太を襲った。

 暴れて母の腕から逃れようとするも、簡単に押さえられる。徐々に抵抗の意思すら消え、抗議の言葉は腑抜けた音になり、煙に溶けて消えてゆく。

 何か大事なことを尋ねるはずだったけれど、とても眠かった。このまま眠ってしまえば、きっと母が恐ろしいことや悲しいことから守ってくれる。

「平太。もう大丈夫、約束通り迎えに来たぞ」

 母は赤子の目尻をそっと髪で拭いて、山の中へと歩き出した。

「平太はわしのすべてだでなァ」

 宝物を取り返した女の背を、すべてを燃やす炎が照らしていた。



(了)