その夢は、なんとも心地の悪いものであった。
仄暗い水のなか、鼻から口から泡ぶくがボコボコと溢れ出す。それらが顔にまとわりついて、爆ぜながら耳の方へと流れていくに、たぶん下を向いて落ちていっているのであろう。そのことに気がついて、上に向かって泳ぎ出そうと顔をあげると、後頭部と背中を何かが鷲掴みにして、さらに下へと押し込んでいくのだ。顔に髪の毛がまとわりつくのもお構いなしに、必死になって重しになっているその正体を確かめようとする。しかし、そこには全てを許し相好を崩しかけた、救いようのない阿呆を憐れむかのような見覚えのある厳格な顔だけがゆらりと浮かんでいるだけだった。それを一瞥すると、俺は諦めたように目を瞑った。そして開いた。朝だ。コンクリートよりも冷たい二月のフローリングは、寝るのには決してうってつけとは言えない反重力で体のそこかしこを痛めつけた。
いつから寝ていたんだろう。肘をついて上半身を軽く起こすと、頭がガンガンした。強い酒でも飲んでいただろうか。ぎりぎり手を伸ばしても届かない場所に、乱暴に放り出された上着と形の崩れたタバコの箱が落ちていた。誰かの話し声が聞こえてくる。テレビもつけっぱなしにしていたようだ。本当に嫌になる。
カーテンを開けると、夢と同じようにどんよりとした雲が空を覆っていた。日の光がないわけではないが、気持ちがいい朝ではなかった。開け放した窓からは背筋が伸びるような冷たい風が吹きこむ。乾燥していて、火事でも起きそうな風だった。
毎日のように見せられる仄暗い夢に、精神的に参るというよりかは苛立ちが勝っていた。何回同じものを見せたら気が済むんだ。強めにタバコをひと吸いして、そのままベランダの外に投げ捨てた。ひょっとして火事になるかなと心臓が急に冷たくなったけど、そのまま窓を大袈裟に強く閉めて家の中に入った。
「夢が売れる。ついにそんな時代がやってきたようです」
久々に新しいニュースだ。毎日のように流れていた殺人事件のニュースとは打って変わって、少しは気を晴らしてくれるような情報じゃないか。石油ストーブのスイッチを入れる。放っておいた上着を肩からかけて、いつ注いだかもわからない麦茶を口に含んだ。
「夢。幼少のときに思い描いていたプロスポーツ選手の夢や、異国の王女様になる夢。叶わなかったけど、かわいらしくて大切な思い出の夢は自分のためだけにとっておきたいと思うかもしれませんが、寝ているときに見た夢はどうでしょうか? 一日平均3〜5個も見ると言われている夢ですが、リアルな夢であればあるほど起きた後の疲れがひどいものですよね。疲れを取るために寝ているはずなのに、夢を見ることによってまた疲れを感じてしまうのは本末転倒だ、と思う人もいるかもしれません。そんな夢をもしお金に変えられるとしたら。そんな、まさに夢のようなプロジェクトが、東京都で実証実験として開始されたようです」
大勢の人が貸し会議室のような、天井の高いイベント会場のようなところに集まっていた。簡易的な椅子とは対照的に、やけにメカメカしいドーム型の機械を頭に設置された人たちは、特に痛みも心地よさも感じていない中庸な顔で目を瞑って座っていた。
「数分ほど座っているだけで、もう終わったようです」
青いスーツを着た、暑苦しそうな眉毛をした20代後半とおぼしきアナウンサーがカメラに向かって囁きかけた。
「収集された夢の内容に応じて自動的に金額が算出され、その場で現金が渡されるそうです」
中にはこんな人も、とナレーションが続けた。夢をすべて売っぱらって、48万円を手にした若い女性が嬉々としてインタビューを受けていた。どこかのスタートアップが小説を自動生成して販売していくためのレーベルを立ち上げたとかで、教師データとして夢を大量に買い漁ろうとしている、とニュースは続けた。機械に収集された夢は本人の頭からはすっかり消え去ってしまうのだが、脳に蓄積されたいわば"夢デブリ"がなくなることで頭がスッキリするのだそう。
打ってつけじゃないか、と俺は小さく呟いた。誰かが自分のことを見ているかのようで少し寒気すらしたくらいだ。心地の悪いデブリをさっさと吸い取ってもらいたい。そのためなら金なんてくれてやってもいいけど、お金を払いたいって言うんだったらありがたくもらってやるか。そう思うが早いか、俺は玄関で靴を履いていた。踵が潰れているから、夢を売ったら新しく買って帰ろう。
夢買いは、驚いたことに家のすぐ近くの集会場でもやっていた。大して名前も聞いたことがないスタートアップが、どうやったらこんな規模で実証実験を展開できるんだろう。人で溢れかえった集会場で、電子コードを読み取って順番待ちをすることにした。俺の番は40分後のようだった。
機械が頭に設置されると、少しだけ熱を感じた。まわりの人たちがそうしているように、俺もなんとなく目を瞑ってみた。仄暗い水のなかだった。吸い取られる時には、その夢が映像で流れるのかもしれない。上下左右もわからないけど、おそらく下の方向に一生懸命に泳いでいってみる。数分どころじゃない時間が経ったと思う。そういえば息継ぎをしなくても泳げるもんなんだな、と思い始めた瞬間に急に息苦しくなってきた。酸素が足りない。側頭が締め付けられるように痛くなる。これはまずい、と泳ぐスピードを更に早めると、だんだんと辺りが白んで明るくなっていった。
「はい、おしまいです」
ポロシャツ姿の、笑顔が張り付いた角刈りの男が急に面前に現れた。集会場に戻ってきた。ガンガンに焚かれたストーブによって、二月とは思えない暑さだ。ポケットからスマートフォンを取り出すと、機械を頭にあててからまだ数分しか時間が経っていなかった。
「いまから金額算定をしますので少々お待ちください」
「何を基準に値付けしてんの?」
ええと、と言いながら角刈りがスマートフォンを取り出した。配られたマニュアルから解答例を探しているのだろう。
「運営側が大枠構想しているいくつかの物語があります。その物語の行末を何億パターンかに分類して、それぞれ必要な物語の要素を規定しています。その必要要素に重みづけをしたデータベースを用意しているのです。あなたの頭から抽出された夢はシーンと、登場人物、物、情景、長さなど、即座に要素ごとに分解されます。データーベースと照合して、高い重みづけ、要は運営側が物語の構成に必要だと思われている夢の要素が見つかれば、それは高い金額で買われることになるのです。あ、あなたの夢の金額もそろそろ算出されそうですよ。高く買い取ってもらえるといいですね」
感心はしていたものの、なるほど、と適当に相槌を打ったきりだった。正確には、再び急激に頭が熱くなって、そのまま気を失ってしまったのだ。
目が覚めると仄暗く、静かな空間にいた。硬くて冷たいコンクリートと思われる質感のものが、左頬から上半身にかけて重力と反対側に俺を押し返していた。自分が床に寝っ転がっていると理解するのにそう時間はかからなかった。家はおろか、ここは集会場でもなさそうだ。俺は何をしているんだろう?
「目が覚めたな」
聞き覚えもない声が、どこからともなく聞こえてきた。恐る恐る、ここはどこだ、と声を張り上げてみた。
「知る必要はないさ。案外早く見つかってよかったよ。やっぱり人参をぶら下げたらのこのこやってきたな、馬鹿なやつ」
どくんどくんと、心臓のポンプが大きな音を立てているのが内側から嫌というほどに聞こえている。何のことを言っているのかわからないが、明らかに俺に対しては悪意を持っているようだ。
「夢は、経験や思考から生まれるんだよ。強烈な体験や思考回数の多いものほど夢に現れやすくなる。私は、夢をデータベース化しながら、いろんな事件の犯人探しをしているんだよ。法の定めでは軽すぎる刑となってしまう事件を、私人警察として調査し、本当の意味で"解決"をしているのさ。ちょうどお前みたいなやつを見つけるためにな」
目が慣れてきた。部屋の中には何人かがいるようだが、体が動かなくて足しか見えなかった。起きあがろうにも、肘がつけないのだ。
「よく知っているだろう? 水死体がごろごろ上がっているって事件。背中に凄まじい力で掴まれた跡がついているんだって。外傷もなく、ただそれだけ。つまり、生きたまま水の中にぶち込まれて、ものすごい力で押さえ込まれてそのまま死んじまったんだよ。酷いよね。その犯人は、たとえ見つかったとしても何年か獄中にぶち込まれるくらいなんだ。考えられるか?」
地面についているのを、左の頬から右の頬に変えてみた。その途中で、見覚えのある顔と目が合った。全てを許したような、罪を咎めるような和彫りの仏の顔。間違いなく、それは俺の腕に彫られているはずの入れ墨だった。同時に、強烈な痛みが全身に走って思わず大きな声で叫んだ。
「ある被害者の家族から依頼があったんだ。家族を苦しめたその"手"を持ってきてほしいと。自分の手で、文字通りその"手"を葬り去りたいんだとさ。そのために多額の金が払われたよ。夢買いは精度が高いけど、やろうとすると金がかかるんだよ。わかるだろう? 本当のことを言っちゃえば、本来は被害者家族が金を払う筋合いなんて一ミリもないのにな。被害にあったうえに金まで払わないといけないなんて、おかしな話だよな」
熱い。肩のあたりが、これまでにない熱さを感じていた。肘がつけないんじゃなくて、腕自体がなくなってしまっているんだ。そして段々と体の震えが止まらなくなってきた。寒い。血の気がどんどんと引いていっているのがわかった。
「それにしても、お前の夢、ひどいな。被害者の視点で夢を見るなんて、どんな神経してたらそうなれるんだろう? そろそろ行くよ。お前に時間を使っている暇はないんだ。また、慈悲深い仏に夢で会えたらいいな。全く救いようのないやつさ。さようなら。さようなら」
夢買いのスタートアップの実証実験は、その後東京だけでなく日本全国に広がっていった。それだけではなく、いとも簡単にグローバルにまで進出をすることとなった。これまでに例のないことに、連日メディアは賑わっていた。しかし、その会社の代表はおろか、かなりの人数が働いているはずの社員一人たりともメディアに露出することはなかった。
その後、夢買いのスタートアップは一冊の小説を上梓することになる。タイトルは『夢で会えたら』というもの。掲げていた通り、夢を買い漁って得られたデータベースを元に作り上げられたものであった。小説はシリーズものだ。メディアには一切出てこない同社の代表は、「終わることは一生ないだろう」というメッセージだけを小説の帯に添えていた。
小説は一時期話題になり、それなりには売れたが、やがて忘れ去られてごく少数の人にだけ繰り返し読まれるものになった。(了)