小説

『女神見習いは愛を知る』清水恋生(『金の斧銀の斧』)

 太陽の光を受けて、眩しく輝く湖。

 その周りにいくつか立っている木の一つを切っている、一人の少年がいた。頭には日よけなのか茶色い帽子をかぶっていて、あまりいいとは言えない服を身にまとっている。その少年は熱心に木を切っていたが、誤って斧を湖に落としてしまっていた。

 少年は湖の中を見つめ、落胆した表情を水面に映した。その時、静かだった水面が揺れ、驚いて顔を上げた少年の前には美しい女性がいた。

 その女性は綺麗なストレートの金髪で、薄っすらと開いていく瞳は青く光っていた。一七〇センチほどはありそうなスラッとした体に、白のワンピースのようなものを着ている。その姿はまるで、女神のようであった。

あなたが落としたのは、この金の斧ですか。それとも、この銀の斧ですか

 その女性は、左手に金の斧、右手に銀の斧を持っていた。それを少年に見えるように持ちながら、質問をしている。

 少年はそれらの斧を見て、自分が落としたものではないことを確認すると、女性に返答した。

「せっかく出てきていただいたのに申し訳ないんですけど、どちらでもないです」

 少年は心底申し訳なさそうに、眉尻を下げながら言った。

 そんな少年を見て、女性は静かに微笑むと、少年の元へと近づいていった。

「正直者のあなたには、落とした斧と金と銀の斧の三つを差し上げます」

「いえ、そんな。申し訳ないので落とした斧だけでいいですよ」

「いえいえ、そんなこと言わずに」

「いやいや……」

 結局二人は、この後もこのようなやり取りを何回か繰り返し、最終的には少年が根負けして全ての斧を受け取ることとなった。

 少年は何度も女性に感謝を伝えると、今日はそこで作業を切り上げて、村の方へと帰っていった。

 それを見送った後、女性は微笑みをスッと消して、何事もなかったかのように湖の中に戻っていった。

 湖の中には、まるでおとぎ話に出てくるような、大きなお城があった。外壁は白と薄紫の色をしていて、水面から入り込む太陽の光を受けて、より一層淡い色に見えている。

 女性はそこに近づくと、近くにいた二人の男に命じて門を開けさせた。開いた門の向こう側には、大きな庭が広がっている。門をくぐると湖の水がなくなり、いくつかの青々とした草が生い茂っていた。それが綺麗に四角く刈られていることから、定期的に手入れがされていると窺い知ることが出来る。

 その庭を、女性はためらいなく進んでいった。すると、また別の門が見えてくる。そこにも男がいて、女性はまた男に門を開けさせる。女性がその門をくぐると、そこは室内になっていた。

 テンプレのようなレッドカーペットに、天井からはシャンデリアが飾られている。ガラスで出来たシャンデリアは、ライトの明かりを反射して輝いていた。先ほどまで斧を持っていた女性が入っていくとは思えないほどの、豪華な城だ。

「お父様! フレッグお父様!」

 城に入った女性は、少し苛立ったような声で叫んだ。先ほどまで美しく微笑んで、少年に斧を渡していた女性と同一人物とは思えない声だ。

 この声を聞いたからか、正面に見えている左右に伸びた階段から、一人の男性が降りて来た。

 筋肉が目立ちすぎないほどについていて、顔にはこれから戦場に行くかのような厳しい表情が浮かんでいる。白髪の髪を肩のあたりまで伸ばしていて、それを左右に揺らしながら、男性は階段を下りてくる。

「どうした、リラ」

 上から降りて来た男性は、そう言って「お父様」と呼んだ女性に対して声をかけた。厳しい顔つきとは別で、声は驚くほど柔らかかった。どうやら、このフレッグと呼ばれた男性が女性――リラの父親らしかった。

「どうしたじゃないわよ。この斧を与える仕事、いつまで続ければいいの」

「リラが人間の気持ちを理解するまでだよ」

「その思考自体が、そもそも理解できないわ。女神である私が何故、人間の気持ちを理解しなければならないの」

 先ほど少年に優しくしていた人物と同じと思えないような、冷めた言葉がリラの口から出ていた。それに対して、フレッグは悲しむような顔をしたあとで、覚悟を決めたようにきりっとした目になった。

「それも分からないようじゃ、お前はまだ真の女神にはなれないな」

「何よその言い方。少しくらい、何か教えてくれたっていいじゃない」

「それは駄目だ。女神になるためには、大切なことに自分で気づくことが条件になっている。それに気付けない限り、リラが女神になることは一生ない」

「あ、そう。もう分かったわ」

 そう言うと、リラは機嫌を悪くしたのを隠そうともせずに、フレッグの横を通って階段を上っていった。

 右に曲がって二階に上がると、長い廊下にいくつかのドアがついていた。リラは慣れたように歩いて行って、手前から五番目の左側のドアを開けて部屋に入る。そこが、リラの自室だった。リラはズカズカと部屋の奥まで行くと、天蓋付きベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。

「私だって、必死にやって分からないから聞いているのに……」

 リラは、フレッグの前では見せなかったような弱弱しい顔で、か細い声を出して言った。リラはリラで、無鉄砲に怒っていたわけではなかった。

 三年前に母親が病気で他界し、リラはそれまでもしていた女神になるための修行に、より一層力を入れるようになった。修行を完璧にこなしたリラだったが、最後の修行――人間の気持ちを理解する、というのがどうしてもできずにいた。最初は理解しようと努めていたリラだったが、全く理解できないことから最近は、そもそも本当に人間の気持ちを理解する必要なんてあるのかと、疑問に思い始めていた。そのため、今日少年と関わっても特に気持ちが分からなかったリラは、フレッグに訴えたのだった。

「何よ、あの男の子。せっかく価値のある斧を私が持っていたっていうのに、何であんなに正直なわけ?」

 リラの怒りの矛先は、いつからかフレッグからあの少年へと変わっていた。それも、正直だった少年に対しては、随分と理不尽な言い草だ。

 その時、リラの部屋に甲高い音が鳴り響いた。それは火災が起きた時に鳴るサイレンに似ていて、ジリリリとリラを急き立てるようにうるさくなっている。

「さっき行ってきたばかりじゃない。そんなに何回も湖に近づかないでよ!」

 リラが怒っているのは、このサイレンが湖に人が近づいた時に鳴るものだからである。つまり、いつ湖に斧が落とされるか分からないため、リラは今からまたあの湖に行かなければならないということになる。

「ほんとに、何で私がこんなこと……」


 リラはブツブツと文句を言いながらも、スッと立ち上がって城を出て行った。

 湖に着くと、ちょうどリラの目の前に斧が落ちて来た。

 それを見てリラはうんざりしながらも、城から持ってきた金と銀の斧を手に持ち、水面から女神の如く美しい微笑みをはりつけた顔を出した。そして、お決まりの質問をする。

あなたが落としたのは、この金の斧ですか。それとも、この銀の斧ですか

 リラの目の前には、いかにも貧乏そうな恰好をした男が立っていた。

「そうです! その金の斧と銀の斧を落としました!」

 それを聞いた瞬間、リラはその二つの斧を男に渡したくなった。今までで一番、自分の欲望に正直だと思ったからだ。何に正直かが違うだけで、正直という点では以前会った少年とこの男は同じだろう。

 リラは自分の中で、人間は皆何かに正直に生きているという答えを出した。皆自分の信念に、忠実に生きているのだ。しかし、これを以前フレッグに言った時に否定されてしまった。リラはその時から、本格的にこの修行が嫌になったことを思い出す。

「あなたは嘘つきですね。そんなあなたに、斧を渡すことは出来ません」

 リラは内心、渡してもいいんじゃないかと思いながら、そう言って湖に帰った。

 リラは少年の時と同じ道を通って、自分の城へと帰っていった。

「お父様! ねぇ、いるんでしょ」

 リラは先ほどよりも苛立った様子でフレッグを呼ぶと、フレッグもまた先ほどと同じ場所から下りてくる。

「どうしたんだい」

「やっぱり人間の気持ちを理解するのは、私もう達成していると思うの」

「どうしてそう思う?」

「だって、人間は何かしらの欲望に忠実に生きているの。そこに良いも悪いも存在しないと思うのよ。これじゃ、違うと言うの?」

「……そうだな、少なくとも、正解とは言えないな」

「何でよ!」

「人間の気持ちは、そんな簡単に言い表せるものじゃないからだよ」

 そこでリラは、何かの糸が切れたように叫んだ。そこにはもう、女神の時の美しさなどはほとんど残っていなかった。

「じゃあ私にはもう無理! あれ以上の人間の気持ちなんて、考えれないし理解も出来ないわ」

 そう言うと、先ほどと同じように自室に向かおうとした。しかし、今回はそれをフレッグに止められてしまう。

「……何よ」

 フレッグを睨みながら言うリラは、拗ねた子どものようだった。それに対してフレッグは、至って冷静に穏やかにリラに語りかける。

「焦らなくてもいい、ゆっくりでいいから、諦めることだけはしないでくれ」

「偉そうに言わないでよ」

 リラが強めにフレッグの腕を振りほどくと同時に、またけたたましくサイレンが鳴り響いた。

「何なのよ今日は! 一体、何でそんなに湖に来るのよ」

 そう文句を言いながらも、リラは素直に湖へと向かった。どれだけフレッグの前で虚勢を張ろうとも、修行を放棄することだけは出来なかった。母親を亡くした時の自分の覚悟を無下にするような、そんな選択だけはしたくなかった。

 リラが湖に着くと、湖のそばに座っている人を見つけた。腰の曲がったおばあさんで、その手は胸の前で合わされている。少しだけ水面に近づいてみると、何か喋っているのが聞こえてきた。

「どうか噂の金の斧と銀の斧で、孫をお助けください。その斧さえあれば、それを売ったお金で孫の病気が治るはずなんです。どうか、どうかお助けください」

 おばあさんはそう言った後で、斧を湖に投げ入れた。それでも、リラがすべきことは変わらない。穏やかな笑みを浮かべながら姿を現すと、

「あなたが落としたのは、この金の斧ですか。それとも、この銀の斧ですか」

 と言い飽きた台詞を口にした。するとおばあさんは、

「そうです、その金の斧を落としました」

 としわがれた声で必死に言った。リラは残念だけど斧は渡せないなと思った時、その思考が揺らいだ。初めてのことに戸惑いながらも、リラの口は当然のように動いていた。

「あなたは嘘を吐きましたね」

 リラがそう言うと、おばあさんは狼狽した様子を見せた。

「でも、それは他の人を救うための嘘。透き通った嘘です。これからも悪い嘘を吐かないと、約束が出来ますか?」

「も、もちろんです」

 その答えを聞くと、リラは一層輝かしく柔和に微笑んだ。

「では、三本の斧全てを差し上げます。しかし、あなたが約束を破れば、直ちに幸せがなくなることをお忘れにならないでくださいね」

 そう言って、リラは湖の中へと帰っていった。

 初めて会うタイプ人だった。あのおばあさんのおかげで、リラは自分の中で答えを見つけることが出来た。

 これが人間の気持ち、真の優しさ……。リラは既に、これが答えだと確信しながら城へ向かった。

 その瞳には、未来を望む光が宿っていた。