小説

『最後の齋藤』山本(『かぐや姫』)

 

 駅前の坂を上り、Y字路を右へ行く。三人が初詣から戻ってくる。

 桜の木の角を曲がる。真っ直ぐ伸びる路地の途中に人だかりが見えた。家の前はすっかり報道陣で埋め尽くされているようだ。カメラがいっせいに樹里江を向く。

「何をお祈りされたんですか?」

 樹里江はすばやく二人の背中に隠れた。

「年内に結婚の意思はあるんですか?」

「最後の齋藤として今の気持ちをお聞かせください」

 差し出されるマイクにお辞儀を返す。満員電車を降りる乗客のように、三人はしめ縄の掛かる玄関へ進んだ。ドアを閉めてなお、質問は聞こえてくる。

「外来人とお付き合いされているという噂は本当ですか?」

「『齋藤』は守られるんですよね?」

 式台に腰掛け、樹里江はコートの袖に顔をうずめた。

 おろしたての白いコートには誰のものか分からない黒い糸がそこかしこに巻きついている。

「大変なことになっちゃったわね」

 母のいずみが樹里江の背中をポンと叩く。父の浩二はさっと靴を脱ぎ、長い廊下を無言で居間へ向かっていった。


 政府から送られてきた五人のプロフィールがテーブルに並んでいる。

 統一された紺色の台紙。

 伊藤、楠木、錦織、烏丸、水無瀬。

 樹里江と向かい合わせに座り、浩二はお茶をすすった。

 全員、婿養子になることを承諾している。AIによる樹里江との相性も90%超えだ。

 それになりより、五人とも生粋の日本人。「外来人」ではない。

「こんなことにならなくても、そろそろ樹里江には結婚してもらいたいと思っていた。遅いくらいだ」

 五人の男性は30代前半。樹里江より年下になる。

 樹里江は黙ったまま、もう何度と目を通したプロフィールを見つめた。

 周囲が慌ただしくなったのは昨夏だった。

 お盆休み中の水難事故と玉突き事故で、それまで日本に五人残っていた未婚の「齋藤」が突如、樹里江ただ一人になってしまったのだ。

 絶滅危惧苗字Ⅰ類に属していた「齋藤」はすぐさま「最も絶滅に近い苗字」に認定された。樹里江の年齢を考慮し、政府が五人のプロフィールを送ってきたのが十二月。「四十路独身女性へ最高のクリスマスプレゼント」とネットに記事が上がった。そして炎上した。おかげで国民の多くが知ることになった。

 個人情報は流出。五人のプロフィールもネット上に拡散し、結婚したいランキングのウェブ投票サイトは盛況のうちに削除された。樹里江が「この人」と選べば、相手は確定する。世の中には樹里江を妬む女性も多い。

「お父さんはな――」

 浩二はもう一度お茶をすすった。台紙をまとめ、テーブルの隅に置く。

 床暖房の効いた居間。年末の大掃除を終え、いつもより凛とした静けさが張りつめている。例年なら束になって届いた年賀状を各々に分けている頃だ。

「男子を授かれなかったのは私の責任だ。だから…… 私は呂美岡くんでも仕方がないと思ってる」

 樹里江はちらっと父親の顔を見た。

「それで『齋藤』が守られるならな。それを約束にお父さんは『齋藤』に入ったんだ。それだけは叶えてほしい」

 目は閉じられていた。声は少し震えていた。


 昨年の十二月、海外支社への転勤を言い渡された。来年度からだが、出来るだけ早く現地に行って欲しい。辞令を渡しながら、「そのほうが君も楽だろう」と部長は笑った。

 秀斗は外来人だ。

 少子化と労働力不足解消の政策として、政府が外国人の帰化を支援した際、祖父が日本国籍を取得。その際、苗字を「呂美岡」にした。

 当時中学生だった秀斗の父は、もっと日本人らしい苗字を望んだという。しかし祖父は自分のルーツを残したかったのだろう。それにその頃はまだ、日本固有の苗字を持つ日本人が国民の大半を占めていた。

 日本固有の苗字が消滅する。生粋の日本人以外に固有の苗字が乗っ取られる。誰もそんなこと想像しなかった。

 危機を感じ、政府が苗字の保護に取り掛かったのは「山本」が全国から消えたときだった。

 部屋のあちこちに段ボールが置かれている。開いた蓋からは無造作に突っ込まれた夏服の裾がはみ出ている。本棚も虫食いだ。

 ソファに掛け、樹里江は辞令に目を通した。

 秀斗はベッドで仰向けになっている。

 豆にこだわる秀斗の部屋は、いつもコーヒーの独特な香りがした。むせるような匂い。冬場は特にだった。閉め切った部屋を循環する暖房にのり、部屋の隅にたまった埃のように、染み込んだ匂いが巡ってくる。

 その匂いに樹里江はもうすっかり慣れていた。

「ついてきて欲しいと思ってる」

 天井を見つめたまま秀斗は言った。

「順番はちょっとあれだけど、それはこれからちゃんとする」

「仕事は辞めろって言うの?」

「続けたい?」

 樹里江は首を横に振った。秀斗が肘をつき顔を向ける。もう一度、樹里江は首を横に振った。

「お父さんなら、もう反対しないと思う」

「ただ――」

 秀斗は身体を起こし、カーテンの隙間から外を確認する。街灯がつき始めた通りに、ぽつぽつとカメラを構えた人たちが見える。

「ただ、さ」

 前屈みになりながら、秀斗はベッドに座った。

「僕は『齋藤』を名乗るつもりはないよ。少なくとも『苗字を守る』という理由で『齋藤』になるつもりはない。『呂美岡』にも同じくらい――」

 立ち上がると、樹里江はキッチンへ向かった。暗闇にティッシュがぼんやり浮かんでいる。一枚取り、秀斗に背を向け目を拭いた。

 いつもの場所にゴミ箱はもうなかった。代わりに45Lと書かれたポリ袋が、ビーズクッションのように横たわっている。

「ごめんなさい」

「僕は夫婦別姓だって――」

 樹里江がもう二枚、ティッシュを取る音がした。秀斗はそれ以上、何も言わなかった。次第に暗さを増す部屋で再びベッドに仰向けになった。明かりをつけると人影がカーテンに映る。一人のときも、秀斗は極力暗い部屋で過ごした。

 頃合いを見てタクシーを呼んだ。

 秀斗がマンションの入口から、ひとりコンビニへ向かっていく。カメラが秀斗を囲む。その隙に、樹里江は裏口からタクシーに乗り、家へ戻った。


 家の前には相変わらず報道陣が待機している。

 樹里江は桜の木の角でタクシーを降りた。四軒手前の邸宅の脇を進む。

 邸宅の裏にはグレーチング蓋のついた側溝が走っている。両脇にはネコが好むような高い塀。そこを通り抜け、裏庭の垣根の隙間から家に戻った。

 念のため周囲を確認し、真っ暗な勝手口をそっと開ける。刹那、樹里江は顔に布が当てられるのを感じた。口が押さえられる。呼吸と同時に意識が遠のいていく。

 目を覚ますと、吹き抜けの天井にシーリングファンが下がっているのが見えた。その傍には小さな丸いガラス窓。真っ青な空。光が差し込み、ファンに掛かった蜘蛛のハンモックを照らしている。

 樹里江はソファにいた。毛布が掛けられ、少し離れた位置からヒーターが風を送ってくる。ソファの横にはナイトテーブルがあった。ペットボトルの水。ラップに包まれたおにぎりが載っている。

 透明なケースに入った日本人形。淡い紺色のカバーに覆われたアップライトピアノ。

 樹里江は齋藤家の一番奥の部屋にいた。


 非営利団体「日本固有の苗字を守る会」の主な活動は、絶滅危惧苗字Ⅰ類に分類された苗字の持ち主を調べ、その系図をたどることだ。

 例えば同じ「岩下」でも、江戸時代の庶民が明治になってつけた「岩下」と、江戸時代以前から名乗り、ともすれば平安時代の橘氏に由来する「岩下」も存在する。

 母方、父方、それぞれをたどることで、その苗字がどれだけ純粋な日本人によって受け継がれてきたのかを調べることもできる。

 特に政府が外国人の帰化や国際結婚を援助する政策を打ち出して以降、苗字の交雑は加速した。日本に古くから存在していた苗字の生態系は急速に崩壊しつつあった。

 このままでは日本中が外国由来の苗字で埋めつくされてしまう。仮に日本固有の苗字だったとしても、生粋の日本人が保有していない可能性が大きい。

 現に今、日本で七番目に多い苗字は「澄栖(すみす)」だった。アジア由来の苗字も増えている。

 山田花子はできるだけそっと、ドアをノックした。

 もう一度ノックしようとしたとき、微かに「はい」と返事があった。

「入ってもいいかしら?」

 自分が誰かを告げた後、花子は聞く。

「はい」

 少しの間の後、もう一度小さな返事があった。犯人と交渉するような、そんな覚悟で花子はドアを開けた。


 樹里江は毛布を膝に掛け、ソファに座っていた。

 花子は近くにあった椅子を引き、向かい合うように座る。「あなたを説得して欲しい」政府の使いの人からそう頼まれ、「守る会」の代表として来たのだと、花子は正直に伝えた。

 樹里江はようやく笑顔を作った。

「私は羨ましいんですよ。立派なお家、立派なご両親、立派な苗字」

 花子は部屋を見渡しながら言った。

「立派なピアノ。私は『山田』でしょう。調べたんですよ。山田にも立派な山田がいますから」

 そして首を振った。

「私がどれだけ頑張っても、私の『山田』には限界がある。下手に誰かと結婚すれば、生態系を壊すことにもなりかねない。『齋藤』の由来をご存知ですか?」

 樹里江は小さく頷いた。

「『齋』の字がどうやってできたかも?」

 樹里江はやはり小さく頷いた。

「そう…… だったらいいの。漢字の成り立ちを想うとき、私はその当時の人たちのことを考えるんです。壁画のような、きっと、そんなメッセージが込められてるんだと思います」

「山田さんは『山田』が消えたら嫌ですか?」

 樹里江が聞いた。

 花子がふっと笑う。

「『齋藤』と『山田』じゃ比べ物に――」

「わたしは『山田』も好きです。綺麗な苗字」

「……そうね。ありがとう」

 もう一度、樹里江は笑顔を作った。

 それから二人は少しの間、新作のゾンビ映画について話した。ゾンビに苗字はあるのかしら。今度一緒に観に行って確かめましょうと約束した。


 今月の二十日から順次、お見合いを開始いたします。

 まずは「烏丸」さんだ。

 時間と場所が書かれた封書が届き、いずみが新しいスーツケースを買ってきた。

 満月の夜。

 夕飯に浩二の好物のかにすきを食べ、熱燗で心地良くなった父親は暖炉の傍のロッキングチェアでうとうとしている。

 食べ終わった家族の食器を樹里江は洗った。歯を磨いた。

 お湯が沸くのを待ち、お茶を淹れた。

 部屋へ戻ると、いずみがケースに衣類を詰め終わるところだった。蓋を上から押さえ、バチン、バチンと鍵をする。「よっこいしょ」と立ち上がり、腰に手を当て「あぁ」と背中を伸ばす。

「ロックの数字はお父さんの誕生日だから。忘れないであげてね」

「なにしてんの?」

 樹里江の手からカップを取り、代わりにいずみはスーツケースを差し出す。それから封筒をひとつ渡した。

「呂美岡くんから。『待ってる』って」

 いずみはもうひとつ、封筒を渡した。

「お母さんから。困ったら使いなさい」

「でもわたしは――」

「こんなところに残ってどうするの」

 いずみはお茶をずずっと飲んで続けた。

「うまくいかなかったら、戻ってくればいいだけのことじゃない?」

「『齋藤』は?」

「お母さんもさ……」

 いずみが声を落とす。

「五年くらいつき合ってた人がいたのよ。もうその人の苗字になるんだろう。『齋藤』の呪縛から逃れるんだって思ってたんだけどね。駆け落ちされちゃってさ。その頃はまだ『齋藤』は絶滅危惧Ⅱ類だったから、親はそんなに気にしなかったんだけどね。あの『井上』の野郎……」

 舌打ちすると、いずみはニヤッと樹里江を見た。

「自暴自棄になっちゃって。それで政府のお見合いで、お父さんを選んだの。樹里江は自分で決めなさい。『齋藤』である前に、『樹里江』なんだから。お父さんには内緒だよ」

 いずみは樹里江の背中をポンと叩いた。


 この前閉じ込められた、一番奥の部屋にいた。

 天井のガラス窓から満月の光が差し込み、ケースの中の日本人形を包んでいる。

「齋藤家の女性が代々語り継ぐ秘密の抜け道!」

 小声で叫ぶと、いずみはケースをはずす。人形が持った扇と自分のブローチを入れ替える。ブローチの裏面は鏡になり、月光を反射すると、部屋中に置かれていた反射物を経由し、光の筋はピアノの上に降りた。

 鍵盤の蓋を開けると、その中のひとつの白鍵を差している。

「さあ!」

 いずみが樹里江に言う。

「押すとどうなるの?」

「押す人のみぞ知る」

 樹里江は人差し指をその白鍵に置いた。いずみは満面の笑みを浮かべている。地下道へ続く階段でも現れるのだろうか。このまま月まで飛んでいってしまうのかもしれない。