小説

『県営球場の三遊間』斉藤千(『藪の中』)

 

   三塁手の物語

 そうです。たしかにあの日は晴れていたけど、眩しくてボールが追えなくなるほどではありませんでした。現に俺は落下点に入ろうとしましたから。

 一点リードで迎えた九回裏2アウト満塁。あの試合で、というよりそれまでの野球人生で一番集中した場面でした。まあたしかに、打球が上がった瞬間には「これで甲子園に行ける」って気持ちがフワッとしましたけど、集中を解いたわけではありません。

 際どいフライではありました。あいつの声が飛んできたからつい譲りましたけど、やっぱりあれは俺が捕るべき球だった気がします。


   二塁手の物語

 内野の守備はコミュニケーションが何より大事ですからね。その辺は練習の時から重点的にやってましたよ。それがよりにもよってあの場面で、あんなことになるなんて。

 あいつとは中学の頃から同じチームです。高校ではお互い今のポジションに就けて、レギュラーにもなれて。別に無二の親友ってほどの仲じゃなかったけど、ぼんやりと甲子園に行く夢を語り合うぐらいのことはしてました。あいつは本気だったと思います。毎日誰よりも遅くまで残って自主練してましたし。

 だから、あいつがあんなミスしたことは未だに信じられません。かといってあのエラーがわざとだとも思ってませんけど。


   投手の物語

 土壇場で打たれておいて言うのも何ですけど、浮ついてたんすよ、あいつ。どうせマネージャーにいいとこ見せようとか思ってたんでしょ。あの二人、家が隣同士の幼なじみで付き合ってるらしいっすから。漫画かよって思いますよね。どうせ「俺が甲子園に連れて行く」とか約束してたんすよ。

 そういう意味ではざまあ見ろって感じっすね。いや、もちろんオレだって勝ちたかったっすよ。監督のおかげで今年は行ける気がしてましたし。それに甲子園のマウンドに立ったピッチャーなんて、一生モテる肩書きじゃないっすか。

――わざと? あのエラーが? そんなことしてどうするんすか? 


   キャプテン(捕手)の物語

 僕らのチームが決勝まで進めたのは多田監督のおかげです。監督はたった一年でチームをまとめ上げ、僕らをあそこまで勝てるようにしてくれたんです。

 多田監督の指導は、いわゆる〈熱血型〉とは違います。選手一人一人の得意不得意を分析し、データに基づいて論理的にチームを組み立てていくものでした。高齢だった前任の監督とはガラリと変わった指導方針に最初は戸惑うことはありましたが、多田監督はそんな僕らの声にも耳を傾けてくださいました。大学を卒業したてで年齢も近かった分、僕らも気軽に話ができました。僕らを仲間と言ってくれたりもして。

 論理的、といっても、多田監督の内側には熱い想いが秘められているように感じました。うちの野球部の出身とあってか、何としても僕たちを甲子園に連れて行こうとしていることは言葉の端々から伝わってきました。それだけに、監督の期待に応えられなかったことは申し訳なく思っています。

 それから、今までずっと支えてくれた周りの人たちにも。うちの母親なんて、仕事があっても毎日早起きして弁当を作ってくれたりしてましたから。そういうこと考えると、やっぱりあいつを責める気持ちは抑えきれません。

――あの噂。もしあの話が本当なら、僕はあいつを……(跡は泣き入りて言葉なし。)

     *   *   *   *   *


   多田監督の白状

 選手たちに罪はありません。彼らは自分たちの持てる力を出し切ったといってもいいでしょう。敗因は一重に私の采配ミスです。2アウト満塁なんて状況を作る前に手を打っていればあんなことにはならなかった。

 あのエラーは不幸な偶然が重なった結果です。誰も悪くない。たしかにフライを落としたのはショートの選手ですが、彼が責められるのは間違っている。

 例の噂については私の耳にも入ってきています。彼が故意にエラーをしたという話ですよね? くだらない。(皮肉なる微笑)

 選手たちはこの三年間――いえ、今までの野球人生を通して、甲子園出場を目指して練習に励んできたんです。彼だって例外じゃない。そんな子がどうして、大事な試合を決しようという場面でわざと落球なんかするのですか。あれは不幸な事故です。

 リカバリーが遅かったという見方があるのもわかります。たしかに彼が落としたボールを見失ったせいでランナーが二人還ってしまった。もしあそこですぐに拾えていれば、同点に追いつかれただけで済んだというのですよね? 彼も焦ったのだと思います。考えてもみてください。あとアウト一つで念願だった甲子園行きが決まるという場面で、予想もしていなかった事態に直面する。これが冷静でいられますか? 私には無理です。

 残酷な言い方かもしれませんが、強豪校でもないうちのチームが県大会の決勝まで進めただけでも奇跡なんです。そこには未知のプレッシャーだってあったでしょう。そういうものに押しつぶされてしまったのは彼の責任じゃない。強いて言うなら、彼を、いえ、チーム全員をそういう所まで連れて行けなかった今までの指導者たちの責任です。

 もう一つの噂? 彼がマネージャーと? 誰かがそう話したのですか?

 まさか。(陰鬱なる興奮)

 初めて聞きました、そんな話。そうですか、あの二人は幼なじみ。それが同じ野球部で選手とマネージャーだなんて。まるで漫画のような話ですね。いや、羨ましいな。(快活なる微笑)

 選手のそういった話に口を挟むつもりはありませんよ。あのエラーがその結果だとも思いません。グラウンドの中で起きたことと私生活は切り離して考えるべきでしょう。

 まあたしかに、彼女は可愛らしい子です。やさしくてよく笑い、それでいて細かな所まで気のつく、マネージャーの鑑のような子でしたよ。部員たちの間でも人気があったんじゃないかな。

 私ですか? もちろん、いい子だとは思ってましたよ。けど相手は高校生ですからね。その辺りは特に注意して接していました。

 私の役目はあくまでも野球部を甲子園に連れて行くことです。今年は残念な結果に終わってしまったけれど、また来年、今度はもっと上を目指して頑張っていきますよ。どうかこれからも我々野球部を見ていてください。(昂然たる態度)


   マネージャーの懺悔

 彼にあんなことをさせてしまったのはわたしです。わたしが彼に頼んだのです。

――大丈夫です。全てを打ち明ける覚悟はできてますから。

 既にご存じかもしれませんが、彼とわたしは幼なじみなんです。家が隣同士で、幼稚園からずっと一緒。友達に話すと「漫画かよ」ってよく笑われます。

 小さい頃はよく遊んでいましたけど、小学校三年生の時に彼が少年野球のチームに入ってからは一緒に遊ぶこともなくなりました。それでも、同じクラスになることが多くて疎遠にはなりませんでした。たまに彼の部活が休みの時なんかは一緒に帰ったりもしました。そのせいですかね、二人が付き合ってるなんて噂を立てられることも何度かありました。本当は全然何にもないのに。(寂しき微笑)

 わたしがこの高校を選んだのは家から自転車で通える距離にあるからです。彼は野球部で選んだのだと思います。弱小校ではないけれど、強豪校ほど競争も激しくない。彼の実力なら充分にレギュラーを狙えるチームがうちの野球部でした。

 多田監督は、チームのみんなが本来持っていた力を引き出しているようでした――といって、わたしは野球のことそこまで詳しくわからないですけど、そんな素人の目にもわかるぐらいはっきりと、監督の指導によってチームは変わっていきました。もちろん良い方へ。

「甲子園、行けるかもしれない」

 幼なじみの口からそんな言葉を聞くようになりました。甲子園出場は野球を始めた頃からの彼の夢でした。普段は嘘をつくぐらいなら沈黙を選ぶほど寡黙な彼が言うと、こちらも本当にその通りになるのではという気がしてきました。

 同時に、水を差すわけにはいかないな、という気持ちも強くなりました。監督のことを彼に話しては駄目だ、と。

――初めは秋の大会が終わった後のことでした。新チームになって間もないにも関わらず、地区大会でベスト8という結果を残し、部内外から多田監督を英雄視する声が高まっていた時期です。食事をしながら部の今後について話し合いたいと言うので、キャプテンたちも居るのかと思ったのですが、よく聞けば二人きりとのことでした。

 その誘いは断りましたが、それからも携帯電話にメッセージが届くようになりました。部活に関する事務的な連絡の合間に、個人的な誘いが挟み込まれていました。それが段々と誘いの方が多くなっていき、直接言葉で言われるようにもなっていきました。

 誰かに相談しようにも、とても言える雰囲気ではありませんでした。部員も学校の先生方も、誰もが多田監督を信頼していました。みんなが甲子園出場に向けて一致団結していたのです。そういう空気を壊してしまうのが怖くてたまりませんでした。

――夏の大会が間近に迫った頃、彼と話したことがあります。夜、河川敷を通りかかると、橋の下で彼が自主練をしていたのです。

 二人になるタイミングは久しぶりでした。わたしは疲れていたこともあり、自分を抑えることができなくなっていました。「あのね」と発した声が丁度頭の上を通り過ぎた電車の音にかき消され、我に返りました。

「どうかした?」

 そう訊かれ、

「何でもない」

 と一度は答えました。けれど、土手の下から見上げてくる彼と目が合うと、また抑えがたい気持ちが押し寄せてきました。

 今度は電車も来ませんでした。

――それで、わたしは彼に全てを話したのです。

 彼は黙って聞いていました。全て聞き終えると、何かを飲み込むように頷きました。それから、

「甲子園、行けないかもしれない」

 と呟くように言いました。

 彼にあんなことをさせてしまったのはわたしです。

 わたしが我慢さえしていれば、沢山の人の期待を裏切ることはありませんでしたし、部のみんながあんな風に泣くこともありませんでした。もちろん、彼が今のような立場になることだって。責めを負うべきなのはわたしなんです。

 噂のことがなかったとしても、わたしは彼に大好きな野球で嘘をつかせてしまいました。何より、大事な夢を捨てさせてしまいました。そのことを思うと本当に、本当に――(突然烈しき啜り泣き)


   遊撃手の物語

(長き沈黙)たしかに、あのエラーはわざとです。けど、彼女のためにしたわけじゃない。全部彼女の勘違いです。

(突然迸る如き嘲笑)単純に嫌いなんですよ、あの監督が。初めから気に入らなかった。「俺はお前たちの仲間だから」ってすり寄ってくる感じが気持ち悪くて仕方ありませんでした。

 それにあの人、結構裏表が激しいですからね。偉い人たちの前では熱心に指導しているふりをしてましたけど、実際はキャプテンに投げっぱなしで。「君たちの自主性こそが進歩の近道なんだ」なんてもっともらしいこと言ってましたけど。(再、迸る如き嘲笑)みんな、案外簡単に騙されてましたね。

(再、長き沈黙)――あの日、彼女とはたしかに河川敷で会いましたけど、大した話はしませんでした。お互い、遅くまでの練習で疲れてましたし。(三度、長き沈黙)エラーしたことへの後悔ですか? 別にありません。自分でやろうと思ってやったことですから。恨まれるのだって織り込み済みです。

 もちろん、みんなには申し訳なく思っています。でも、それぐらいあの監督が嫌いだったってことです。あの人はもちろん、あの人の周りに漂う空気も、ですかね。あの人のことは誰もが清潔だと思って疑っていません。そういう人物に対する異議って、口にした方が悪者扱いされますよね。少なくとも、厄介者としてしか扱われなくなる。

 だから、あんなことでもしないと誰にもこっちの言い分を聞いてもらえないと思ったんです。

 現にこうして話を聞いてくれる人がいるんだから、やってよかったと素直に思います。

 信じてもらえなくたって別にかまいませんよ。

 俺の声に耳を傾けてくれただけで充分です。




(了)