小説

『灯油売りと少女』宮沢早紀(『月の砂漠』)

 

 

 五限目の授業が半分ほど終わった頃、どこからともなくあのメロディが聞こえてきて、ゆっくりと走行する車体が見えるわけでもないのに、涼の視線は自然と外に向いた。

 寒くなってくると、どこからともなくやってくる灯油販売車。「灯油、十八リッター……」という古ぼけたアナウンス。その後ろで流れるオルゴール調の「月の砂漠」。さみしげではかなげなメロディは涼の耳を、心を捉え、灯油販売車が遠くへ走り去り、そのメロディが聞こえなくなるまで黒板の文字や教壇に立つ教師の言葉は意味を持たなくなるのだった。

 涼が初めてこのメロディを聞いたのは幼稚園の年中の頃で、いつもと同じように家で遊んでいたら、外から悲しいメロディが聞こえてきたのだった。それからというもの灯油販売車は毎日、同じくらいの時間帯に家の前を通るようになり、そのメロディを聞くたびに涼はぬいぐるみ遊びを中断して母のそばにぴたりとくっついた。

 幼稚園で歌っているのとあまりにも違う暗いメロディに怯えた。あやしげな音楽を流す車を運転するのは悪い魔法使いで、「トーユジューハチリッター」というのは口にしたら命を落とす猛毒に違いないと幼き日の涼は考えた。灯油販売車が家の近くを通るたびに連れ去られて母と離れ離れになってしまうかもしれない、毒を飲まされて動けなくなってしまうかもしれない、と小さな胸は不安でいっぱいになった。

「大丈夫。あれは『月の砂漠』っていう曲。昔からあるんだよ」

 怯える涼をおかしく思いながら母は言った。大丈夫と言われたところで涼の不安はなくならなかったが、「月の砂漠」という曲名は涼の頭に確かに刻まれたのだった。

 涼が「月の砂漠」を怖くなったのは小学校に入学してから、何とはなしに音楽の教科書をめくっていたら、楽譜が載っているのを見つけてからだった。月が輝く夜の砂漠と旅人を乗せたラクダの挿絵があった。結局、授業で習うことはなかったが、教科書に載るくらいちゃんとした曲なのだとほっとした記憶がある。


 濁った息を吐き出しながら修史は朱色のポリタンクを玄関に置いた。メーカーが推奨する年数をはるかに超えて使われているそれは年季が入り、くすんでいた。楽しかった瞬間の記憶というものがほとんどないままに六十を迎えた自分のくたびれ具合とよく似ていると修史は思った。

「悪いねぇ。じいさんには重くて」

 客は修史に言った。はっきりとしたしゃべり方ではあったが、背中は曲がり、歩き方も危なっかしい。客と関わる時間はできるだけ減らしたい修史だったが、初めてこの客と会った時にあまりにも頼りなかったので「運びますか?」と自ら尋ねていた。

「一日中ずーっとあの曲を聞いてて、おかしくならない?」

 無言のまま一礼して立ち去ろうとする修史に客は問いかけた。

「もう、とっくに慣れましたから」

 修史はぎこちない笑顔を浮かべる。頭の中ではこの質問を受けるのは何度目だろうかと記憶を足し合わせていた。

 一日中「月の砂漠」を聞いて暗い気持ちにならないのか? おかしくならないのか? この手の質問は客から受けることもあったし、修史の仕事を知った親戚から聞かれたこともあった。そんな時、修史はコンビニやスーパーみたいな同じ曲が流れつづける店で働く人だって同じだろうが、果たして彼らも質問をされているのだろうかと思うのだった。


「須藤って、灯油販売車が来るといつも外見るよね」

 パンの自動販売機の前で買うか迷って立ち止まっていた涼に、クラスメイトの男子が声をかけた。不意に話しかけられたことで「ええ?」と普段なら出さない声が出てしまい、それが涼の中では授業に集中していないのを見られていた恥ずかしさを上回った。

「気付いた? よく聞くと遠くで犬が吠えてんの。あれ、俺んちの近所なんだけどさ、小さい頃からずっとああなんだよ。歌ってるみたいだよね」

 男子は楽しげに語った。涼は遠吠えの存在には気付いていたが、「月の砂漠」のメロディ以外には興味を持っていなかったため、適当な相槌を打ってその場を去った。

 彼はきっと、自分がこんなにも灯油販売車のことを考えているとは思っていないだろうなと涼は思う。地域によって灯油販売車のメロディが違うことも、反対に遠く離れていても同じメロディを採用している地域があることも涼は知っていた。


 修史はいつもの駐車場に車を停め、植え込みの淵に掛けて煙草を吸っていた。急激に寒くなったためか、犬の散歩をする人々はいつもより早く切り上げたようだった。最近は認められた場所で喫煙していても、通りすがりの人から咎めるような視線を向けられているような気がしていたため、修史には人気がない夜の公園が居心地よく感じられた。

「久しぶりじゃないの」

 くたびれたフリースの上着を着た男が修史の傍らに座る。焼き芋屋だった。

「一昨日も会ったじゃないっすか」

修史が言い返すと焼き芋屋はへへへと歯を見せる。

「今日は出た?」

「まあまあすかね。そちらは?」

「全然」

焼き芋屋はそう言ったあと「イイ芋を使ってるんだけどねぇ」と節をつけて言った。修史には馴染みのないメロディだった。

「今年も暖冬すもんね」

「そ。寒すぎても嫌だけどさ、ここまであったかいとダメだね、出ないね」

焼き芋屋はおおげさにため息をついた。修史はため息をつく代わりに天を仰ぐ。寒空に小さな星が輝いていた。

「この冬が終わったら店じまいしようと思って」

「自分も春になったら店じまいっすよ」

「そういう意味じゃなくて」

「え、冗談すよね」

「冗談じゃなくて本気。真剣。暖冬続きでしょ、スーパーに行けばいつでも焼き芋が買えるでしょ、仕入値も上がる一方でしょ」

「ガソリンも高いっすよね……」

「去年くらいから薄々感じてはいたんだよ。潮時かもしれないって」

「そうだったんすか」

「うん。この冬で引退するよー」

焼き芋屋は「この冬で引退するよ」のところを営業中に流している「石焼き芋、焼き芋」の節っぽく言ったが、修史は悲しさが勝って笑うことができなかった。

「寂しくなります」

修史は心からそう言った。

「あんたは若いんだから、まだやれるよ。人を温める仕事の同業者としてさぁ、これからもたくさんの人を、家を、温めていってよ」

「人を温める仕事」

「そ」

「なんか、かっこいいっすね」

「そうよ。かっこいい仕事してんだよ、うちら」

 焼き芋屋は「明日もあるから」と立ち上がり、手にしていた帽子を深くかぶった。

 根拠はないが焼き芋屋は生涯にわたって焼き芋屋をやるだろうと修史は思っており、店をたたむという焼き芋屋の決断に驚き、動揺していた。

 自分はどうだろう、と考える。新しいエリアをやれと言われたら、その時は自分も引退しようかとぼんやり思った。新しい土地のことを一から覚える気力はもうないような気がしていたためだ。とはいえ、そうなると当てがあるわけでもないので情報収集をしなければならず、新しい仕事を始めるには面接を受ける必要もあり、それはそれで面倒だった。ここのところ感じてこなかった無力感が体の奥底から湧き出てきたような気がして、修史は苦しくなった。


 電車の吊革につかまりながら、涼は進路面談で担任から言われた言葉を反芻していた。「一人暮らしすれば四年間は同じ土地で暮らせるね」と担任は言った。そう言ったあと「あ、理系なら院にも行くだろうから六年か」と付け加えた。

 涼が伝えた志望校が一拠点しかない大学だったから出てきた言葉だったとは思うが、「須藤は引っ越しが多くて大変だったろうからね」と微笑まれた時、涼はこれまで親戚たちから会うたびに「転校ばかりでかわいそう」と言われてきたことを思い出した。親戚以外にも引っ越しが多い涼を不憫に思い、そうした言葉をかけてくる人はいたが、意外とそうでもないというのが涼の本音だった。しかし、それを涼は言ってこなかったし、今日も言わなかった。本当のところを言ったら、そういう声掛けをしてくる人々はがっかりしてしまうような気がしていた。

 涼は十五年ほどの自身の人生を振り返る。確かに引っ越しは多かった。長くても三年で次の勤務地に移らないといけない父の仕事の都合で幼稚園も小学校も中学校も最後まで同じところには通わなかったし、灯油販売車のメロディを聞きながら来年も聞けるだろうかと思ったこともあった。母が父についていくという選択をする限り、高校も卒業する頃には別の学校になるだろう。

 降車扉が閉まり、スピードを上げはじめる電車から外を眺めていると、駅前通りの交差点を直進する小ぶりで角ばったタンクローリーが見えた。音は聞こえなかったが、涼はすぐにそれが灯油販売車だと分かる。

 涼の中で「月の砂漠」が流れ、車窓から見える平凡な町並みは一瞬にして広大な砂漠へと変わった。植物も建物もない、終わりなく続く砂漠。そこをゆっくりとラクダが進む。ラクダに乗る人は手綱を握り、前だけを見据えている。全身が布で覆われているので年齢も性別も表情も判らないが、ラクダの後ろのこぶにわずかな荷物を乗せて旅をしているようだった。その姿が自分と重なる。

 いつ引っ越すか分からないからモノは増やさないようにしなくちゃ。涼の母が引っ越しで荷造りをするたびに呪文のように唱えていた言葉だが、最近では、たとえば私服を増やさないとか、使い終わったノートをすぐに処分するとか、涼は自分の意志でモノを増やさないようにしていた。メッセージのやりとりや休み時間に一緒に移動する友人はいたが、部活に入って仲間を作るようなことはしなかった。

 それは引っ越す時に寂しくなってしまうからではなく、自分が旅人であることを自覚して余計な荷物を持たないようにしているという感覚に近かった。そして、その感覚を授けたのが「月の砂漠」であり、灯油販売車であったのだと涼は思い至った。

 修史は焼き芋屋自慢の焼き芋を一度も食べたことがないことに気付き、次に会ったら一つ買おうと思っていたが、あの日以来、焼き芋屋は公園に姿を見せなかった。

 ここ数日で修史の気持ちは灯油販売の仕事をやめる方へと傾き、宅配ドライバーの求人情報をいくつか見ていた。担当エリアでの灯油の売上が年々減っていることは修史も認識していたし、反対に宅配の荷物は増えていることは、ニュースをほとんど見なくても感覚として分かっていた。

 灯油販売車をゆっくりと走らせて住宅街を進むと、軒先にくすんだ朱色のポリタンクが置かれているのが見える。車を停めた修史はいつもよりてきぱきとした動きでポリタンクへ灯油を入れると、これまで一度も見なかった表札を見てからインターフォンを押した。


「片田さーん、灯油でーす」

 修史がいなくなった車内ではひかえめな音量でラジオが流れていた。

 本日ご紹介する「わたしが伝えたいありがとう」はラジオネームらくださん、高校一年生です。

 わたしは父の仕事の都合で転校の多い人生を送ってきました。周囲の人はそんなわたしをかわいそうだとか大変だとか言いますが、実際はそこまでつらくはなく、皆が思っているほど不幸な人生ではありません。

 ほんの数年ですが様々な土地で暮らすことを通じてその土地その土地の良さを知ることもでき、灯油販売車のメロディが地域によって違うことも、いろんな地域に住んだことで知りました。その中でもわたしが好きなのはオルゴール調の「月の沙漠」なのですが、心を掴まれる理由について考えていたところ、この曲から連想される、ラクダに乗った砂漠の旅人と転居の多いわたしの人生が重なるからだと気付きました。「月の沙漠」という曲に出会ったことで、住む場所が変わりつづける自分の人生を肯定できるようになったと思っています。もしもこの曲に出会っていなかったら、周囲からのかわいそうの声に飲み込まれていたかもしれません。

 灯油販売車が町を走るのは決まって寒い季節ですが、メロディを聞くたびに温かな気持ちになります。灯油販売車、灯油販売車の運転手さん、いつもありがとう。これからも応援しています、というお手紙でした。


(了)