小説

『アマエビください!』粟生深泥(『アマビエのお話』)

 

 

「アマエビください!」

 スーパーでのバイト中、お菓子売り場の棚に品を並べていると足元からそんな声が聞こえてきた。見ると、7、8歳くらいの小さな女の子が僕を見上げている。

 両耳の辺りでぴょこんと小さく揺れるおさげが印象的な女の子。でも、甘えびって。何かの聞き間違えだろうか。首をかしげてみると子ども用の小さな買い物かごを僕に向かってぐいと手を伸ばして突き出した。

「アマエビください!」

 女の子がもう一度同じ言葉を繰り返す。聞き間違えではなかったようだ。甘えび、女の子が買うものにしては通すぎる気がするんだけどなあ。おつかいかもしれないけど、もっとおつかい向きの品がいくらでもあるだろう。

 とにかく、お客さんであることには違いない。まずはシンプルに鮮魚コーナーに向かって刺身用の甘エビを見せてみる。だけど、女の子はフルフルと首を横に振った。まあ、流石に生ものは無いかと今度は冷凍食品のコーナーで冷凍甘えびを取り出してみるけど、女の子は今度も首を左右に振ってしまう。

「うーん、これは甘えびじゃないけど……」

 一応、乾物コーナーで素干しの桜エビを見せてみたけど、女の子の反応は変わらなかった。やっぱり女の子が買い求めているのは甘えびではないのかもしれない。

「アマエビについてもう少し詳しく教えてくれるかな?」

 目線の高さを女の子に合わせて尋ねてみると、女の子は記憶を手繰る様に視線を移ろわせる。

「まず足が三本あるの!」

「なるほど足が三……ん?」

「体がウロコにおおわれてて」

 女の子が一生懸命語る内容を頭の中に思い浮かべるけど、そのまま迷子になってしまいそうだった。足の数だったりウロコの存在だったり、エビじゃないのはわかったけどそんな生き物いただろうか。

「あとね、お顔にくちばしがついてる!」

 女の子の顔が得意げにパッと輝く。果たしてその生き物は鳥なのか魚なのか。そのどちらにせよ、うちのような中規模のスーパーに置いているものなのか。女の子のいう特徴を頭の中で組み替えているなかで、ふと子どもがデタラメに描いたような絵を思い出した。そんな存在を見たことがある。

 足が三本、体が鱗に覆われていて、顔に嘴がついている。それから、女の子が欲しいといったアマエビ。

「もしかして、アマ“ビエ”?」

 僕の言葉に女の子はパッと輝いていた顔に更に笑みを重ねて、僕に向かって改めて子ども用の買い物かごを突き出した。



 アマビエ。肥後国の海に現れたという妖怪で、予言獣の一種ともいわれる。

 江戸時代後期、夜ごとに海が光るといったことが起きたため、土地の役人が見に行ったところ、海から現れた妖怪――アマビエが豊作や疫病について予言し、疫病が拡がったら自分の姿を書き写した絵を見せて回るよう伝えたという。

 地元の妖怪であるわけだけど、知名度が一気に増したのは新型コロナが世界的拡大を見せているときだった。疫病に対して絵を描いて人に見せるという話が感染症のために外に出られない社会的な情勢に噛み合ったのか、アマビエは一気にブームになった。

「おじちゃんはアマエビ、見たことある?」

 スマホでアマビエについて調べている僕を女の子が無邪気な顔で見ている。アマビエを欲しがる女の子、何だか訳ありな気がして店長に事情を話してバックヤードに来てもらっていた。それにしても。

「お兄さんも本物は見たことないなあ」

 まだ大学を卒業して数年、20代の半ばだし流石におじちゃんは勘弁してほしいけど、女の子はそれには関心がないようで後半の内容にしゅんとしてしまう。

「えっと、どうしてアマビエが欲しいの?」

「ママが頭いたいって、ずっと寝てるの」

 アマビエということで嫌な予感はしてたけど、やっぱり。どうしよう、深刻な症状だったら一刻も早く然るべき機関に連絡したほうがいい。だけど、頭が痛いから寝てるという話だけでそこまで大事にしてもいいのか悩ましかった。

「アマエビを見たら、よくなるんでしょ?」

「……そうだね。描いてあげるから、ここでちょっと待ってて」

 どうすべきか結論は出ていなかったけど、この子はアマビエを貰わないと落ち着かないのは確かだろう。女の子にはお菓子とともに座って待ってもらって、店内に駆け戻る。

「どしたの。そんなに慌てて」

 総菜コーナーに辿り着くと有江さんに声をかけられた。有江さんは僕と同じ頃から働き始めたパートさんで、そのおかげで歳は5、6個離れているはずだけど気安く話ができる人だった。

「かまぼこ板って余ってませんか?」

「あるけど、そんなもの何に使うのさ?」

 簡単に事情を話すと、有江さんはスマホを取り出して僕に写真を見せてくれた。有江さんの他に子ども二人と女性一人が写っている。その子供の一人がさっきの女の子だった。

「あっ、この子」

「髪の両側におさげっていうからもしかしたらと思って。うちのチビと同じ小学二年生。確か旦那さんが東京に単身赴任中とかだったかな」

 単身赴任。だとしたら家には母子2人ということで、もし深刻な病気だったら。そんなことを考えていると有江さんから額をパチンと弾かれた。

「今日は夕方でパートあがりだし、帰る前にちょっと寄ってみるからそんな心配しなさんなって。ほら、かまぼこ板あげるからこっちおいで」

「ありがとうございます!」

 総菜コーナーの裏に引っ込んだ有江さんはすぐにかまぼこ板を持ってきてくれて、それを受け取って女の子を待たしていたバックヤードへ戻る。女の子は大人しくお菓子を食べて待っていて、冗談や悪戯を言うような子には見えなかった。


 女の子の隣に腰を掛けて、かまぼこ板とついでに買ってきた筆ペンを取り出す。これでも大学はデザイン系の学部を出ていて、卒業後も上京してそれを活かせる仕事に就いていた。結局、仕事が合わなかったのか、都会の空気が合わなかったのか。数年で仕事を辞めて帰ってきて、今は実家暮らしでバイトをしながら次の仕事を探しているわけだけど。

「さ、見ててね」

 一つ声をかけてスマホの画像を見ながらかまぼこ板にアマビエを描いていく。紙と違ってしわくちゃにならないし、この方がちょっとご利益もありそうな気がする。しばらく絵を描いていなかったけど思った以上に順調にアマビエの姿が板の上に浮かび上がっていく。昔描いていたものに比べればなんてことの無い絵だけど、その過程はどこか心躍って、僕はやっぱり絵を描くことが好きなようで――

「どうしたの、おじちゃん?」

 手を止めてしまっていた僕を女の子が不思議そうに見上げている。何でもないよ、と返事をして急いで続きを描いていく。最初のように胸が昂る感じはしなくて、ひたすら動機を抑え込む様にして残りを描き切った。少し不格好なアマビエが描かれたかまぼこ板。

「できたよ。これと一緒にお母さんに持っていってあげてね。お兄さんからのプレゼント」

 女の子が持ち歩くのに困らない程度にゼリー飲料などを詰めた袋とともに、アマビエの絵を描いたかまぼこ板を“お兄さん”を強調して手渡す。とても上手とはいえない出来だったけど、女の子は目をキラキラとさせてアマビエを受け取ってくれた。



 バイトが終わり帰りの夜道をバイクを走らせていると、暗がりの中にこぢんまりとした神社が浮かび上がる。普段なら見向きもしない場所だけど、今は胸騒ぎがするほどにその存在に引き寄せられて、砂利を敷いただけの駐車場にバイクを停めて本殿に向かう。

 ガラガラと鈴を鳴らし、お賽銭を入れ手を合わせる。名前も聞かずに送り出してしまった女の子の母親の回復を、どこの誰とも知らぬ神様にとにかく祈願する。

 有江さんが顔を出すと言っていたし大丈夫だろうとは思うけど、有江さんの連絡先は好感していなかったからその後どうなったかを知る術はなかった。結局、できることといったら神頼みくらいで。女の子には妖怪であるアマビエを渡しておいて神頼みなんてしていいのかもわからないけど。

 拝み終えると、背中の方からざぶんと波の音が聞こえてきた。

導かれるように階段を下りて音の方に向かうと、参道は海の方まで伸びていて、夜の海の上に鳥居が見えた。波が荒れているようなのでそれ以上は近づかず、堤防の上から鳥居を眺める。

「あー、何してんだろ」

 吐き出した声は波の音に紛れて消えていった。他人の健康を祈っている場合ではない。仕事を辞めて地元に帰ってきてこれからどうするのか、両親は何も言わないけど心配している気配は感じている。

 絵を描くのは好きだった。だけど、仕事としてそれを始めて、僕の実力とか絵のクオリティ以外の観点からも絵を否定されるようになると、どんどん絵を描くことが怖くなり――やがて筆を持てなくなった。まるでそれは胸の奥に巣くう病のようで。

「仕事、探さなきゃなあ……」

 ずっと絵を描くことを第一に生きてきた僕がそれを失って何をできるのか、見当もつかない。絵に対する未練もある。今日、女の子が僕の描いたアマビエを笑顔で受け取ってくれた時、それは僕の胸の奥に渦巻いていた未練を強く刺激して、ぎゅっと胸が苦しくなった。


「あれっ?」


 ふと眺めていた海の上の鳥居の下がピカピカと光っている。その直後、鳥居をくぐる様に海の上に現れたものに目を疑った。

目がおかしくなったかとゴシゴシと擦ってから再び視線を向けると、そこには荒々しく波打つ夜の海しか残っていなかった。



「何描いてるの?」

 翌日、休憩中にバックヤードでペンタブを握りしめてタブレットと向き合っていると、有江さんがひょいと顔を出した。今描いているものを何と表現するか悩んでいると、有江さんの本題はそこではなかったようで僕を店内の方に手招きする。

「君にお客さんが来てるよ」

 僕にお客さん?

 不思議に思いながら有江さんについていくと、昨日アマビエを渡した女の子が母親と思しき女性とともに立っていた。

「あっ、アマエビのおじさん!」

 やってきた僕を女の子が笑顔で指さして、一歩前を歩いていた有江さんがぶっと吹き出した。お兄さんでしょ、と母親がたしなめるのも聞こえてきたけど、元気そうな姿を見るとなんかもうアマエビのおじちゃんでいいやって気もした。

「この子がお手数おかけしたようで、ありがとうございます。色々とお見舞いの品までいただいてしまって」

「いえ、元気になられたようでよかったです」

 母親の顔は血色も表情もよくて、頭痛に悩むような様子は見えなかった。出勤した時に有江さんから元気そうだったという話は聞いていたけど、直接見られたことでホッと胸のつかえがとれた。

「そうなんですよね。ここ最近ずっと頭痛に悩まされてたんですけど、昨日この子がこれを持って帰ってきてから急に楽になって」

 そう言って母親が取り出したのは、僕が昨日かまぼこ板に描きつけたアマビエだった。昨夜の出来事のせいで、そんなまさかとも思えずに僕はその言葉に頷く。

「お母さんを思う気持ちが通じたのかもしれませんね」

 母親は少しはにかむ様に笑って、僕と有江さんに御礼として近所でちょっと有名な洋菓子店のカップケーキを渡してくれた。明らかに昨日女の子に渡したよりも高そうなそれに固辞してみたものの最後は押し切られてしまった。

「ありがと! アマエビのおじちゃん!」

 最後までおじちゃん認定だった女の子が僕に手を振って、母娘は楽しそうに話しながら離れていった。女の子の手にも洋菓子店の箱が握られていて、家で二人で食べるのだろうか。その光景を想像してほんのり胸が温かくなった。


「そういえば、結局さっき何描いてたの?」

 二人を見送ると改めて有江さんが聞いてきて、小脇に挟んできたタブレットを見せる。それを見た有江さんが再び吹き出した。

 一仕事終えたような表情で額を拭いながら海に返っていくアマビエ。

 昨夜、神社の傍の海で見たものをそのまま描いてみたのだけど。不思議と動機が起こることもなく最後まで描くことが出来た。

 見間違え、なんだろうけど。昨夜、あれを見てから胸の奥が軽くなった気がした。まるで、そこに巣くっていた病が取り除かれたようで。

「これを機会に、もう一度夢を追いかけてみようかなって」

「いいじゃん。頑張ってね、アマエビのおじちゃん!」

 にししと笑う有江さんを小突きつつ、胸の奥のつかえがとれたように今は次に何を描こうかとワクワクしていた。