小説

『とある求婚難題譚』川瀬えいみ(『竹取物語』)

 

 

「坂本さんには、私よりふさわしい人がいますよ」

 彼女にそう言われるのは、三度目だった。つまり、僕は彼女に三回交際を申し込んで、三回振られたことになる。

 彼女の名は、月城葉月。三十歳。バツイチ。最初の結婚は二十五歳の時で、三年で破綻。離婚理由は性格の不一致、価値観の相違――だったそうだ。具体的には、彼女が家庭より仕事を優先しすぎたせい、らしい。

 離婚を機に、それまで勤めていた東京の商社をやめて生家のある町に戻り、保険会社の地方支社の事務に転職。今は、毎日書類とパソコン画面に向き合う地味な仕事をしている。商社の花形部署に比べれば、発展性や刺激があるとは言えないルーチン業務だが、過疎が進む地方都市では、間違いなく“安定したいい職”だ。ちなみに僕は、同じ支社の営業職をしている。

 仕事を優先しすぎたのが離婚理由というだけあって、彼女は至極有能な社員だ。彼女の仕事振りは極めて効率的。前任者が丸一日かけていた業務を半日程度で完璧に処理し、残りの時間で同僚の仕事を手伝ったり、雑務を片付けたり。だからといって自身の有能を誇るわけでもなく、手伝ってやった同僚たちに恩を着せることもない。そのため、同僚社員の受けはすこぶる良好。

 彼女は、出世や昇給は全く望んでいないらしい。とにかく、目立つことが嫌いなようだった。化粧は申し訳程度、服装は、白いブラウスと紺色のスカートがデフォルト。冬場は、そこに紺色のカーディガンが加わる。それでも、驚くほど端正な顔立ちは隠しようがなかったが。

 彼女は、出る杭になって打たれる事態を避けようとしているように見えた。前職で何かあったのかもしれない。


 最初に結婚を前提とした交際を申し込んだ時、彼女の返事が『お断りします』『私にその気はありませんので、諦めてください』等の明瞭な拒絶でなかったせいで、僕はすっぱり彼女を思い切ることができなかった。僕との交際とその先にある結婚を『絶対に嫌』とまでは思っていないのだろうと考えて、希望を繋いでしまったんだ。可能性はゼロではないのだ――と。

 その考えに少々変化が生じたのは、二度目の申し込みが、一度目の申し込み同様、婉曲的な言葉で断られた時。

「私は結婚に向いていない女だと思うんです。坂本さんには、私なんかよりふさわしい人がいますよ」

 自信を持って断言するが、僕は、葉月さんにそんなふうに言ってもらえるような男じゃない。三十五の今まで、浮いた噂一つなかったのは、ひとえに気が利かない野暮な男だからだ。

 以前、『部下の仲人をするのが一生涯の夢』と公言している上司が、支社内の未婚女性たちに対して、支社内の独身男たちに関するヒアリング調査を行なったことがあった。その結果、彼女等にとって坂本慧(僕)は『結婚相手としては見事なまでに過不足なく退屈な男』で、『楽しい結婚生活どころか楽しい新婚生活すら想像しにくい男』であることが判明した。

 顔もスタイルも十人並み。営業成績は支社ではトップだが、それも全社を俯瞰すれば大した成績じゃない。僕は極めて魅力の乏しい安全牌というところなんだろう。

 そんな男相手に、葉月さんが『お断りします』『諦めてください』とはっきり拒絶の言葉を言わないのは、彼女の自己評価が極端に低いからなんだ。“言わない”んじゃなくて、“言えない”。

 彼女は、『お断りします』や『諦めてください』は、上から目線というか、高圧的というか、傲慢な言葉だと思っているようだった。

 バツイチではあるが、あんなに美人で有能なのに。


 そして、今回。三度目の正直もやんわりと断られた僕は、彼女に、せめて食事に付き合ってほしいと、苦笑で頼み込んだ。まるで自分が振られたみたいに肩を丸めて申し訳なさそうな顔をしている彼女の心を、少しでも軽くしたいと思ったんだ。知り合って二年。僕たちは男女の仲にはなれていなかったが、友人同士ではあったから。

 その席で、かぐや姫の話が出た。まあ、日本で最も有名な求婚譚だ。三度目の玉砕直後、全く場違いな話題でもなかっただろう。

 かぐや姫は、五人の求婚者たちを毛ほども好きじゃなかった。だが身分の高い貴公子たちの求婚を『絶対に嫌』の一言で、にべもなく断るわけにはいかない。そこで、かぐや姫は、窮余の策として、あの無理難題を持ち出したんだろう――と、僕はそんなことを話した。

 もしかぐや姫が求婚者の中の誰か一人に好意を抱いていたのなら、彼女はその男にだけは容易く実現できる問題を出していたはずだ。たとえば、「今夜、最初に開いた待宵草の花を持ってきてください」とか、そんなふうな。

 姫に難題を提示された時点で、求婚者たちはすべてを察し、静かに身を引くべきだったんだ。自分を振る女がいるなんて事実は、誇り高い貴公子様たちには我慢ならないことだったのかもしれないが、それでも。

 僕は、かぐや姫の求婚者たちほど傲慢な男じゃない。葉月さんに到底実現不可能な無理難題を突きつけられたら、潔く身を引く。彼女への好意をすぐに消し去ることはできないだろうが、少なくとも、交際申し込みは打ち止めにできるつもりだ。だから、僕は、『絶対に嫌』と言えない葉月さんのために訊いたんだ。

「葉月さんがかぐや姫だったら、どんな難題を出します? この条件をクリアできたら、結婚してもいいと思えるような難題はありますか?」と。

 そんな難題、咄嗟に思いつかなかったんだろう。葉月さんが困ったように眉根を寄せる。

 僕は、更に、「酒の席の戯れ言として」と水を向けた。僕も彼女も酒類は飲んでいなかったんだから、それは言葉通りの戯れ言だったんだが。

 十秒ほどの間をおいて、彼女はぽつりと言った。

「……非時香菓が欲しい」

「ときじくのかくの……え?」

 耳慣れない単語だったんで、僕は聞き返した。

「ときじくのかくのこのみ、です」

「それを持ってくれば、僕の申し込みを受けてくれるんですか!」

 戯れ言と言ったのは僕自身だったのに――僕はつい、身を乗り出して訊いてしまった。

「あ、いえ」

 葉月さんははっとしたように瞳を見開き、すぐに曖昧な微笑を作った。そして、素早く話の向きを変える。

「かぐや姫って、何か罪を犯して、そのせいで清らかな月の都を追放されて、人間界に流されたお姫様――なんですよね?」

「え? ああ、そうらしいですね」

 竹取物語には、その罪がどんなものだったのかは明記されていないはずだ。しかし、女が楽園を追放される罪なんて、某一神教の始祖の女のように、唯一神への反逆を試みたか、姦通に類することをしたんだろうと、僕は思っていた。だから、葉月さんに、

「私も罪を犯したんです」

 と言われた時、僕の心臓は跳ね上がった。この場合、神への反逆はありえないから、彼女が犯した罪は姦通ということになる。だが、葉月さんに限って、そんなことは考えられない。僕の困惑でできた笑いは、半日同じ姿勢でいることを強いられた人間の首の筋肉のように強張った。

「罪? 美人すぎるとか、有能すぎるとか、そんなのは罪じゃないですよ」

 と応じる声も、バキバキに硬い。

 対照的に、葉月さんは、肩から力が抜けたように、ゆるゆると首を横に振った。

「そんなんじゃないです。私の……私の夫は、すごく子どもを欲しがっていたんです。でも、私は仕事を続けていたい気持ちが強くて……うすうす妊娠に気付いていたのに、気付いていないふりをして、夫に言わず、無理をして、流産してしまった。あの時、私の中には、子どもに仕事の邪魔をされたくないという気持ちがあった。悪いのは私なのに、夫は私の妊娠に気付かなかったことに責任を感じて、謝罪して、私を気遣って、悲しんで……悪いのは私――悪いのは私だけだったのに……。私、夫には、もっと優しい人が寄り添うべきだと思ったんです」

 葉月さんが突然そんなことを語りだしたのは、僕に四度目の申し込みをさせないためだったのかもしれない。

 とにかく、その告白で、僕は知ったんだ。彼女が自分を幸せになっちゃいけない人間だと思っていることに。

「私は、子どもの命より仕事の方が大事な女だから」と言って、彼女は前夫と別れた――別れてもらったらしい。それが私なりの贖罪なのだと、彼女は言った。

 それを贖罪と感じるなら、夫君に別れ話を持ち出した時、彼女は彼を愛していたんだろう。別れがつらいから、それは贖罪になり得たんだ。

「夫は子どもを欲しがっていたので……もう再婚したでしょう」

 トレーシングペーパーで覆ったような薄い微笑。

 それが彼女の罪? 一つの命の火を消し去る行為は、確かに大きな罪だろう。それはそうだ。その通りだ。

 でも、じゃあ、僕が葉月さんに、こんなふうに寂しげにじゃなく、心から明るく笑ってほしいと望むことも罪なんだろうか。そんなことはないよな?


 葉月さんは、彼女の罪を知ったら、僕が彼女を嫌いになると考えて、罪を告白したんだろうか。彼女の罪を知っても僕の気持ちが変わらなかったら、新たな出会いに賭けてみようという気持ちが、彼女の胸中には僅かでもあったんだろうか。

 彼女の真意を知るために、僕は彼女が口にした『非時香菓(ときじくのかくのこのみ)』の正体を調べてみた。

 それは、黄泉の国にある不老不死の果実のことだった。地上世界では、橘の実のことらしい。

 不老不死の果実を持って来いと言うのなら、葉月さんの言葉は、嫌いな男を退けるための難題だ。橘の実でいいのなら、僕の好意を受け入れてもいいと思っているということ(かもしれない)。

 僕は希望を抱いた。


 ともあれ、彼女の心中に、前夫への罪悪感が消えずに残っているのは紛う方なき事実。もし彼女の前夫が、彼女の推察通り再婚して幸せになっていたら、彼女も心の整理ができるだろう。自分の贖罪は終わったと思うことができるだろう。少なくとも、夫への贖罪は。

 僕は、すぐさま町で唯一行列ができる人気和菓子店の栗最中を携えて事情通のお局様の許に馳せ参じ、情報提供を願い出た。

「月城さんの別れた旦那さんの名前は橘さんよ。うん、そう。橘実さん。間違いない」

 お局様から葉月さんの夫君の名を聞いた瞬間、まるで頭のてっぺんに栗のイガイガの直撃を受けたみたいに、僕は彼女の欲しいものが何なのかを理解した。

 非時香菓――橘の実――たちばなみのる。そういうことだったんだ。


 東京在住の橘実氏を探すのは、腹が立つほど簡単だった。ネット検索で一発。

 葉月さんと別れてから、橘氏は、失った穴を埋めるかのように仕事一筋の男になり、部長職への出世を果たしたらしい。某有名企業の人事異動のプレリリース記事にその名があった。

 僕は、その週末上京して、もちろん独り身だった橘氏に、葉月さんの現状を教えてやった。僕が彼女にプロポーズを断られ続けていることも、彼女に出された難題のことも。

「あなたは彼女をどう思っているんですか」

 僕の質問への彼の答えは、口にしたくもない。彼は、翌日には、葉月さんの許に飛んできた。


 三ヶ月後、葉月さんは会社をやめ、橘さんのところに帰っていった。

 有能な彼女が抜けるのは痛いから、支社のみんなは必死になって引き止めたんだけど、最後は、彼女の幸せのために泣く泣く諦めた。

 葉月さんは、何度も何度も僕に礼を言い、送別会のスピーチでは、出席者たちの前で、これでもかと言わんばかりに、僕を褒めちぎってくれた。曰く、器が大きく、人間性が豊かで、行動力に富み、頼り甲斐がある誠実で素晴らしい男性だ云々。

 それは、自分が振った男の傷心を癒すための慰撫の言葉だったのかもしれないが、だとしても大袈裟すぎた。僕は葉月さんと橘さんの月下氷人でもあるわけだから、彼女の熱弁を謝辞と受け取り、面映ゆい気持ちで聞き流していたんだが。

 どうも彼女の意図はそこにあったわけじゃなかったらしい。送別会の翌日から、僕は、支社内の未婚女性陣から熱烈なアプローチを受けるようになった。僕は、一夜にして、支社いちばんのモテ男になってしまったんだ。

 僕が葉月さんを好きだったことは彼女等も知っているはずなのにどういうことなのかと聞いたら、「そこがいいんですよぉ」という、謎の答えが返ってきた。

 そこがいい? どこがいいんだ?

 かぐや姫に限らず、女心はよくわからない。