小説

『笑顔のセンス』永佑輔(『大鏡 競べ弓』『平家物語 扇の的』)

 

 

「ただいま」

 藤原はリビングの壁に飾られた扇子に向かって笑顔を浮かべた。本人はキラキラ笑顔のつもりらしいが、どう見ても片方の口角だけが上がった引きつり笑顔。

 扇子には十代後半と思しき笑顔の女性アイドルがプリントされている。コンサートの物販で手に入れたシリアルナンバーワンの扇子だ。

ようやくアイドルから目を離し、今度はリビングダイニングの虚空を見やる。

「ただいま」

 返事はない。

 寝室、脱衣所、風呂、便所を探す。伊代の姿はどこにもない。

 伊代に電話をする。着信音はソファから。見ると、伊代のスマホが鳴っている。表示されている名前は『バカ』。

 『バカ』に気づかないまま伊代の姉、道子に電話をかける。

「もしもし」

 スマホの向こうから道子の声。

 深呼吸をしてから、藤原はゆっくりと伝える。

「伊代が誘拐されました」

 突拍子もない藤原の言葉に、道子は笑いを堪える。

「伊代なら私の隣で運転中。誘拐なんてされてない」

「誘拐の前に考えることあるでしょ。すぐ早とちりすんだから」

 運転席から伊代が付け足した。

 藤原は引きつり笑顔で、

「だな。誰も誘拐しないよな、伊代なんて」

 伊代なんて――。いくら交際を始めて一年、同棲を始めて半年経つからと言って、親しき中にも礼儀あり。不躾な言い草に腹が立たない方がおかしい。

「お姉ちゃん、切って!」

 怒気を含んだ伊代の声が聞こえた後、藤原の耳元でツーツーと不通音が響いた。


 道子が恐る恐る運転席を見る。

 ハンドルを握っているのは赤鬼、じゃなく伊代だ。

 道子は、「女とは同意し合う生き物」という何の学術的根拠もない伊代の持論に文句をおっ付けたことがある。しかし今は同意し合う必要があると感じたのだろう、

「藤原君って笑顔のセンスがないよね?」

「ない」

 伊代は、「ね?」におっ被せて返事をした。

 道子は、「女とは『そんなことないよ』の生き物」という何の学術的根拠もない伊代の持論に文句をおっ付けたことがある。しかし今はそんなことないよの必要があると感じたのだろう、

「そんなことないよ」

 伊代はペットボトルの水を飲んで弾みをつける。

「あのバカ、好きなアイドルがいてさ」

「アイドルの扇子があったね」

「そのアイドルと結婚するって私の前で堂々と言うほどのバカ……危ないな!」

 伊代は怒りのクラクションを鳴らした。


 カラスの行水を済ませた藤原は、キンキンに冷えた缶ビールを手に取ってテーブルに着く。写真が置かれている。胎児のエコー写真だ。

 缶をエコー写真に持ち替えたそのたとき、玄関が開く音がする。伊代の帰宅だ。

「ただいま」

 伊代は「おかえり」と引きつり笑顔が返ってくるとばかり思っていた。

「生む? 生まない?」

 真っ当な人間なら決しておこたらない挨拶をどこかに打っちゃって、藤原はズケズケとセンシティブな質問を投げた。

 伊代は何のこっちゃ分からなかったが、藤原の手にあるエコー写真を見てようやく理解する。

「私は生まない」

 伊代は冷淡に生命の誕生を否定した。

 藤原はティッシュを九枚ほど引っ張り出して、鼻クソをほじくる。

「鼻クソひとつで九枚も使うな」

 イラつく伊代を尻目に、藤原はティッシュを丸めて提案する。

 曰く、堕胎するかどうか話し合ったところで平行線をたどるに決まっているから、この丸まったティッシュをゴミ箱へ投げて、入ったら生む、入らなかったら生まない、とか何とか。

 伊代の返事を待たず、藤原は提案を実行すべく投球モーションに入っている。

 伊代はテーブルをノックして藤原の注意を引こうとする。

 藤原は集中しているのか無視しているのか、見向きもしない。

「このエコー写真……」

 藤原は手のひらを向けて伊代の言葉を遮り、

「ゴミ箱のフタ、外して」

 伊代は動かない。

 藤原はアゴで指図する。

「フタ外して」

 呼吸すら忘れたように伊代は動かない。

「フゥタ」

 藤原は「フゥ」で伊代に息を吹きかけた。

 伊代は息から逃げるようにソファに座ってスマホを手に取る。

 藤原は得心した様子で、

「そっか。妊婦は動いちゃダメだよな」

「そういうことじゃないんだわ」

「じゃあどういうこと?」

「ティッシュを投げて……」

 伊代が言い終わらないうちに、藤原がスマホをのぞく。

「何のゲーム?」

「見ないで!」

 伊代はスマホを隠しつつ、そもそもゲームなんてやっていないと心の中で吐き捨てた。

 藤原は取り除いたゴミ箱のフタをエコー写真の上に置いて、再提案する。

 曰く、ゲーム要素が欲しいから、順番にティッシュを投げて、藤原のティッシュがゴミ箱に入ったら生み、伊代のティッシュがゴミ箱に入ったら生まない、サドンデス方式で決めよう、とか何とか。

 伊代が念を押す。

「本当にやるの?」

「うん!」

 藤原は三歳児みたいな返事をして投球モーションに入った。

 伊代は藤原の前に立ちはだかる。

「あのさあ……」

「おっけ。女性ファースト。伊代が先攻」

 伊代は先攻後攻に対する不平など一言も口にしていないのに、鼻クソを包んだティッシュを押し付けられた。

「男女平等、ハンデなし。投げて」

 さもリベラルでございますといった具合に、藤原が促す。

 伊代は舌打ちで返す。

「仕方ない。一歩前から投げていいよ。アファーマティブアクション」

 藤原が引きつり笑顔を浮かべながら言った。伊代はその笑顔から、藤原が的外れなリベラル心を爆発させていることを読み取った。

 藤原が伊代の背中をグイと押す。

「ほら、一歩前」

 一歩前に押し出された伊代は渋々と投球モーションに入る。

 藤原は、無神論者が無神論の素晴らしさを書いた本を読んで、その素晴らしさを伊代に伝えたばかりだ。にもかかわらずアイドル推しという偶像崇拝をやめないどころか、ティッシュよ外れろと言わんばかりに手を合わせて祈っている。

 伊代は大きなため息とともにティッシュを投げた。

 ティッシュは大きく外れたものの、後ろの壁に当たって落下し、そのままゴミ箱に吸い込まれた。

 藤原はゴミ箱からティッシュを取り出すと、伊代の一歩後ろから投げた。

 外れた。

 伊代の勝ちだ。

 藤原は、まるで死にゆく我が子をそうするかのように、鼻クソティッシュを抱きしめた。

 バカバカしいやり取りから解放された伊代は、伸びをする。

「さてと……」


 藤原が伊代の前に立って口を尖らせる。

「は? 延長戦とかズルくね?」

 伊代は人生で一度たりとも「延長戦にしろ」なんて口にしたことがないし、今もしていないし、今後もすることはないと確信している。そもそも勝ったのは伊代だ。ズルもへったくれもない。

けれど藤原の耳にはそう聞こえたらしい。いったい無神論はどこへ行ったのか、大抵の宗教の開祖がそうであるように、藤原にも何かが聞こえちゃったようだ。

「病院行けば?」

 伊代はありったけの皮肉を込めて言った。

「どこも悪くないけど?」

 藤原に皮肉という間接的表現は伝わらなかった。

 今度は直接的表現に変える。

「頭の検査しな」

「怪我してない」

 これ以上のやり取りはムダだ、と伊代は自身を説得、そして閉口した。もちろん納得してはいない。

 藤原はされてもいない延長戦を受け入れる。

「あと二回ずつ投げるぞ。今度は俺が先攻な」

 投球モーションに入り、

「元気な子供が生まれてくるなら、このティッシュよ、入れ!」

 願掛けを口にして、藤原はティッシュをゴミ箱に投げた。

 入った。

「よし、よし」

 小刻みに頷きながら、藤原は鼻クソティッシュを伊代に渡した。

 伊代は仏頂面をしたまま投げない。

「プレッシャーで投げられないか? だせーぞ」

 藤原の子供じみた野次。

 伊代は寒気を覚えて、自分でも生暖かいと感じるほどのため息をついた。

「やーい、ヘボピッチャー」

 程度の低い野次が続く。

 いよいよ伊代は、藤原の引きつり笑顔と扇子にプリントされたアイドルの笑顔に腹が立ってきた。アイドルさえも野次っているような気がする。

「投げるよ!」

 つっけんどんに言い放つと、さあ、ピッチャー伊代、振りかぶって高々と左足を上げた。その足が力強く床を踏みしめて上半身に勢いがつく。その勢いに乗り、耳の後ろから右腕をしならせて、ティッシュを投げた。

 外れた。

 すかさずティッシュを拾って、藤原は二投目のモーションに入る。

「男の子が生まれるなら、このティッシュよ、入れ!」

 入った。

「勝ったよ!」

 いや、藤原は勝っていない。伊代の一投を残している。にもかかわらず藤原は引きつり笑顔を浮かべて、壁のアイドルに勝利を伝えた。

 アイドルまで祝福の笑顔を浮かべているようだ。

 伊代はゴミ箱からティッシュを拾い上げて、鼻で笑い飛ばした。

 鼻で笑い飛ばしただけなのだが、藤原はその鼻息から抗議の意思を感じ取ったらしく、渋々と提案する。

「そんなに生みたくないなら特別に投げていいよ」

「特別? そもそも私が後攻なの」

「入ったら伊代の勝ち」

「今までのやり取りなんだったの?」

「伊代に有利なルールだから、八百長してるのはそっち」

 もはや主客転倒と言うレベルじゃない。会話が成立していない。それほどこの男はバグっている。伊代はほとほと呆れた。

「早く投げて」

 と、藤原はダルそう。

 頑として伊代は投げない。

「投げろって」

 と、藤原はイラつき始める。

 伊代の手がティッシュ玉を握り潰す。

「試合放棄か?」

 と、藤原は引きつり笑顔を浮かべる。もはやその笑顔からは喜んでいるのかどうかさえ読み取れない。

「ハナから試合なんてしてない!」

 伊代は藤原の顔にティッシュを投げつけた。

「はい、外れ」

 勝利の美酒と言わんばかりに藤原はビールを口に含んだ。

 瞬間、伊代が藤原の横っ面を叩く。

「ぶっ!」

 勢いで藤原はビールを吹き出した。

 ビールの飛沫は壁の扇子にひっかかり、シュワッと炭酸の弾ける音を立てた。アイドルの笑顔はべちょべちょだ。

「ああ」

 藤原は情けない声を出して扇子を乾かす。


 呼び鈴が鳴る。

「誰だよぉ、こんな時間にぃ」

 と、藤原は半べそで愚痴る。

 やって来たのは道子だ。忘れ物をしたらしい。

「忘れ物って?」

 伊代が訊くと、道子はテーブルの上に置かれたゴミ箱のフタをどかして、エコー写真を手に取る。

「これ、これ」

 写真は道子のお腹を写したものだった。

 藤原の情けない声に拍車がかかる。

「あああ」

 道子は藤原を一瞥して、

「お邪魔しました」

 鍵の閉じる音がするが早いか、玄関から伊代が戻って来る。

 藤原は伊代のお腹をさする。

「妊娠してないの?」

 藤原の手を乱暴に払いのけて、伊代は積りに積もった憤怒を加虐心に変える。

「ティッシュがゴミ箱に入るかどうかで決めるんだね。人生の選択を、命の選択を」

「俺は生む方にベットした。優しいじゃん」

「じゃんけんで決めてるのと同じ」

「じゃんけんじゃなくてティッシュじゃん」

 藤原は伊代の言わんとすることをてんで分かっていない様子。

「アンタとの延長戦はない」

 必要最小限の衣類と靴とコスメをキャリーケースにぶち込んで、伊代は出て行った。ガラガラと引きずる音が遠ざかってゆく。


 藤原は扇子を持ったままベランダに出る。

 伊代が、マンションの前に停められた車に向かって歩いている。

 藤原は思いっきりアイドルの扇子を振る。

「待って!」

 伊代は藤原に目もくれない。

「行かないで!」

 伊代が車のドアに手をかける。

「お願い!」

 車のドアが開く。

「伊代!」

 ようやく伊代は藤原を見上げる。その目は無感情のみで出来上がっているガラス玉のようだ。

 藤原は、扇子をかかげたまま凍りついた。

 伊代は車内から水のたっぷりと入ったペットボトルを取り出す。

 藤原は凍りついたまま。

 伊代が藤原めがけてペットボトルを投げた。

 ばちっ、ペットボトルが藤原の手に当たる。

 ふぁさ、扇子が藤原の手から離れた。

 ひらひらり、ベランダから地上へゆっくりと舞い下りる。

 ことん、アスファルトに着地した。

 たたたん、拍子に折り畳まれる。

 ばたん、運転席のドアが閉まった。

 ぶん、エンジンがかかる。

 ぶぅん、発車する。

 ばきっ、扇子はタイヤに踏まれてその生涯を閉じた。

 テールランプが遠ざかってゆく。


 運転中の伊代が嗤う。

「情けない」


 藤原はようやく我に返って部屋に戻る。壁にアイドルの笑顔はない。藤原は所在なく壁を眺めた。

(了)