「ねぇ、てぶくろ買いにつれてって」
最近の優人は、保育園の友達から影響を受け、何かをねだることが多くなった。五歳になり社会性が芽生え始めたのは親にとって嬉しいことだが、キャラクターの服、ぬいぐるみ、おもちゃなど、次から次へと出費がかさむのは悩ましい。
しかし、手袋ならいい。赤く腫れた手に手袋をはめようとして、頑なに「イヤ」を繰り返した昨年より成長した証拠だ。自分が選んだものなら気に入るだろう。息子の成長に理恵は感慨深くもあった。
「じゃあ、明日、保育園の帰りに買いに行こか?」
「うん!」
ホットケーキを頬張る優人の口元に、ハチミツが光る。その笑顔に日々の多忙さを一瞬忘れるが、床に散乱する食べこぼしを見て、すぐにげんなりする。「もおぉぉぅ」と、心の中で呟いた。
近頃、感情の起伏が激しい。理恵は客観的に自分自身を見つめ、そう捉えていた。理性を保てと、自分に言い聞かせている。
冷たく乾いた空気には、鈴(りん)がいつもより高く響く気がした。いや、無意識に鈴を打つ力が増しているのだろうか。
「もうすぐ一年やね」
鼻から漏れた息にロウソクの炎が揺れた。
「子育て大変やけど、優人はちょっとずつ成長してるよ。今日なんかゲームで負けてね、顔をしかめてムカつくぅぅやって。生意気やろ? ええことも悪いことも、いろいろと保育園で覚えてくるんやろね」
吹きつけた風に雨戸がカタカタと震えた。康平が「はははっ」と笑ったように聞こえた。言葉を発する前に笑う康平の癖だった。深刻な話をする時もそう。時にそれが腹立たしくもあったが、今となれば、理恵の心を落ち着かせるのに良かったのかもしれない。
季節が巡るのは早いもの。康平が交通事故で死んでから一年が経とうとしている。就寝前に仏壇に手を合わせ、その日の出来事を報告するのが、理恵の日課となった。突然の出来事にしばらくは現実を受け入れられなかったが、日が経つにつれて襲いかかる寂しさと厳しい生活が、容赦なく現実を突きつける。
「もう一年、まだ一年か……」
隣の和室では、優人が静かに寝息を立てている。マイホームを購入する貯蓄のために借りた築四十年の平屋は、三人で暮らすには手狭だったが、皮肉にも親子二人の生活にはちょうどいい。
ロウソクを手うちわで消し、優人のそばに正座した。駄々をこねて手に負えないこともあるが、この寝顔が全てを癒してくれる。
「おやすみ」
優人の小さな手を握ると、温もりが伝わるのを感じた。
明日はきっと大好きなキャラクターの手袋を選ぶのだろう。そんな想像をすると、自然と理恵の顔は綻んだ。今日も無事に一日が終わった。
窓から見える道端の草に朝霜が光る。吐き出した息が白く濁るのは、この冬初めてのことだった。
そんな寒さに反し、いつもは目覚めの悪い優人が、一声かけただけでむくりと目覚めた。
「おはよう」
「おはよ」
「今日はえらいねー。ちゃんと起きれたやん」
「ねぇ」
「ん? どした?」
「お年玉ちょーだい」
「お年玉? お年玉はお正月でしょ」
理恵は優人が寝ぼけているのだと思った。しかし、眠い目を擦りながら優人は続けた。
「ちがう。僕がもらったやつ」
「あれは貯金してるよ。どうしたん? なんで?」
「てぶくろ買うの」
「手袋、お年玉で買うの?」
「そう。自分で買う」
理恵は胸が痛かった。いつも優人が何かをねだると「うちにはそんなにお金ないよ」と返すのが、理恵の常套句だった。幼いながらにその言葉を気にしていたのかと考えると、胸が張り裂けそうになる。
「大丈夫よ、母ちゃんが買ってあげるから」
「ダメっ! 今日は僕のお金!」
眠い目を必死に見開き、優人が口を尖らせる。わがままではなく、はっきりとした強い意思の表れだった。
「分かったよ。ちゃんと準備しておくから。ねっ」
「絶対やで」
「うん、約束する」
互いの小指を絡ませた。
自転車の後ろで優人はいつもアニメの歌を口ずさむのだが、今日はその声がより弾んでいた。
「ねぇねぇ」
「はぁい?」
「僕が好きな色は青やけど、かあちゃんは何色が好き?」
一曲歌い終えた優人が、信号待ちで身を乗り出した。
「黄色、かな」
「さやちゃんと同じやぁ。あと赤があったら信号やな」
優人が信号を指差した。そういえば康平は赤が好きだったよな、なんてことを理恵は思い出した。
保育園に着くと、優人は自転車から勢いよく飛び降りた。そして、門を開けて園庭を駆けていく。まだまだ小さな体だが、それでも年少の子ども達と比べると、随分と頼もしくなった。
「じゃあ、また夕方ね」
「ばいばーい」
そう言って、手をパチンと合わせるのが別れの挨拶。次に理恵が振り返った時には、優人は友達の輪の中にいた。笑顔の花が咲いている。いつまでも理恵から離れようとせず、泣き叫んでいた二年前が懐かしい。嬉しくもあり、寂しくもあった。
仕事を終えた理恵は、急いで帰り支度を済ませた。優人が迎えを待ち焦がれているに違いない。
急いで自転車を漕ぐ体には、冷えきった北風さえ心地良い。
保育室の戸を開け、優人に向けて手を振ると、理恵の姿を見つけた優人が跳ねながら近付いてきた。
「お買い物、行こっ!」
「はいはい。ちゃんと帰りの準備してね」
「おっけー!」
保育園と家の間にあるスーパーには一階に食料品、二階には衣類や日用品などを取り扱う売り場がある。日常の買い物はもっぱらここだ。
自転車の後ろから、優人が理恵に訴える。「てぶくろ、僕一人で買うから」と。これまで一人で買い物をさせたことはない。そもそもお金の価値すら分かっていない。
「一人じゃ心配やから、母ちゃんも一緒に……」
「ダメ」
遮るように優人がこたえた。
きっと、友達から一人でおつかいした話でも聞いたに違いない。
「分かったよ。売り場の外で待っとくね」
「うん!」
優人が首を大きく縦に振った。
理恵はあえて食料品の買い物を済ませることにした。夕食の献立は唐揚げだ。鶏肉を買うので、本当は手袋を先に買いたいところだが、一人で手袋を買うという優人に値段の説明をしておきたかった。
「これ、ネギ。百九十八円ね。数字が三つということは?」
「千円で買える!」
「そう、正解!」
「じゃあ、この鶏肉は三百八十円。てことは、ネギとどっちが高い?」
「うぅぅん……鶏肉? かな」
「すごい! またまた正解!」
理恵が頭を撫でてやると、優人は照れながらも得意げな顔を見せた。
店内を歩きながら、イメージトレーニングを繰り返す。二千円の予算で多少は良いものを選ぶならば、千五百円くらいが無難と考えた。それに近い値段の商品を優人は難なく見つけることができた。
きっと大丈夫―
理恵は確信した。
「いい? この中に千円札が二枚入ってるから、さっきと同じような値札の手袋を選んで、あそこのレジで払うの。オッケー?」
「オッケ! お米と同じね」
千五百八十円で売っていた五キロの米ことだ。
「よしっ! 頑張って!」
理恵は優人の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「行ってくるねぇ」
「いってらっしゃい」
売り場へと向かう優人の背中が、いつもより大きく見えた。その後ろ姿に康平の面影が重なる。
「頑張れよ」
もう一度エールを送る。今度は小さく呟いた。
店内に流れる軽快な音楽とは対照的に、理恵の気持ちは落ち着かない。決して広くない売り場だが、百五センチの身長は、いとも容易く商品の陰に隠れている。
「大丈夫かな……」
過保護なのだろうか。不安ばかりが募る。
「優人……」
背伸びした視線の先には、マネキンの笑顔だけが見える。
この店のオリジナルテーマソングを何度聴いたことだろう。優人はまだ戻ってこない。どこか違う場所へ行っていないかと危惧したが、売り場は全てこの通路に面している。お金が足りない? それなら店員が「お母さんは?」くらいの心配りをしてくれるだろう。
あれやこれやと思考を巡らせていると、女性店員が歩いてくるのが見えた。優人の声も近付いてくる。
「お母さん、いたかなぁ?」
女性店員が背後から優人の肩に手を置き、きょろきょろと通路の左右を確認する。
「あっ、いた!」
「ありがとうね。気を付けて帰ってね」
「バイバーイ」
店員に大きく手を振る姿を見て、優人の買い物がうまくいったことを確信した。右手には紙袋をぶら下げている。
「おつかれー」
両膝をつき、大きく手を広げる理恵に向かって、優人も両手を広げて駆け出した。
「かぁちゃーん」
胸に飛び込んでくるものと待ち構えていたが、優人は理恵の少し手前でピタリと止まった。
「はい、これ」
優人が紙袋を差し出した。
「あらぁ、上手に買えたね。どんなのか見ていい?」
「うん」
紙袋の中に、ライトブルーのラッピング袋とピンクのリボンが見えた。
「あら、素敵。プレゼントみたいやね」
微笑む理恵に「はやく、開けてよ」と、優人が急かす。
スッとリボンの端を引き、開いた袋の口から中を覗き込んだ。理恵の予想は、優人が最近ハマっているニャンコ博士の手袋だった。
「えっ?」
「きれいな色やろ?」
理恵は慎重な手つきで手袋を取り出した。マスタードイエローの毛糸の手袋は、優人の手にはとても大きすぎる。
「かぁちゃんのてぶくろ、穴が開いてるからさ」
それは三年前のクリスマスに康平がくれた手袋のことだった。一か月前にスーパーの駐輪場から自転車を出そうとした時、隣の自転車の破れたカゴに引っかけ、指先に穴が開いた。
「指、冷たいやろ? とうちゃんも僕からのプレゼントやったら許してくれるよ」
ずっと指先の冷気を我慢していた。
「優人……」
涙がこぼれるより早く、優人を胸に抱きしめた。
「ありがとう……ありがとね、優人。優人は、ほんまに優しい子やな」
優人という名前は、康平が考えた。
お腹の子が男の子だと分かった日の夜、康平が決して綺麗ではない字をメモ紙に書き、誇らしげに見せた。
『優人』
「ゆうとって響き、かっこよくない? 俺、康平やろ? シュッとした名前に憧れたわけよ」
「いや、確かにかっこいいけど、それだけじゃダメでしょ? 名前の由来を聞かれて、響きがかっこよかったからって言える?」
「はははっ、バカにすんなよ。ちゃんと意味も考えてるって」
「優しい人になるように、でしょ?」
「え? あ、まぁそうやけど。よく分かったな」
「分かるでしょ、フツー」
「はははっ、そりゃそっか」
「けど、ええよね。私もこの子には優しくて、思いやりのある人になってほしい」
そう言って、お腹をさすった。
理恵はこっそり涙を拭うと、優人を高く抱き上げた。「わぁぁ」と優人の声が響く。やっぱり、まだまだ小さい。軽い。なのに、こんなに優しくて、人を思いやる気持ちがあるんだ。小さいくせに、いっちょ前に誇らしげな顔して。
「よくサイズ分かったね?」
「さっきのおばちゃんの手を見せてもらって、だいたいこれくらいの大きさって言ったの」
「そっかそっか。けど、おばちゃんやなくて、おねえちゃんね」
理恵が唇に人差し指を当てた。
「はははっ、間違えちゃった」
「はははっ、気を付けるんやで」
優人につられて、理恵も「はははっ」と笑った。
康平に嬉しい報告をするのは久しぶりだった。優人からもらった手袋を見せ、明日から使うことも伝えた。
ロウソクを消し、常夜灯の薄明りが照らす優人の頬にキスをした。
「ありがとね。おやすみ」
二人の枕元にはマスタードイエローの手袋と、ニャンコ博士のイラストが入った、小さな青い手袋が並んでいる。