「お師匠の鼻が、元に戻ったぞ」
紫陽花ほころぶ庭園で、怒気を滲ませながら、報告してきたのは兄弟子の一人だった。
見習い者の私は、木の枝を持って、気の弱い野犬を追いまわしていたが、急に面白くなくなってぴたりと立ちどまった。兄弟子の怒りの理由が、私にはなんとなく分かる気がした。
まさか、元の15センチ程度の鼻に戻ったのかと聞くと、兄弟子は深く頷いた。
「ああ、そうだよ。私が熱湯に入れ、足で踏みつけて、毛穴の汚れを一つ一つとって、せっかく短くしたのに、あの不格好な長い鼻に戻ってしまった」
「また短い鼻にすればいいではありませんか」
私は木の枝を地面に落とし、草履で踏みつけた。小気味のいい音がして、枝が真っ二つに割れる。お師匠の長鼻も、こんなふうにして兄弟子の治療を受け、普通の鼻になったことを、つい昨日のことのように思いだした。二回、三回、踏み続ける。小枝があっと言う間に足の下で粉砕した。お師匠の鼻を踏む兄弟子の気持ちよさそうな顔といったらなかった、とぼんやり思いだす。襖の隙間からのぞきながら、自分も踏んでみたいと願ったものだ。
「それが、嫌なんだとさ。あの滑稽な鼻に甘んじようとしている。いくら仏門を叩いた身とはいえ、最低限の身だしなみには気を遣っても罰はあたらないだろう」
他人の身体的特徴を、ボロ衣のように形容した兄弟子は、鼻息荒く私に詰め寄った。なまじ整った顔だけに、怒ると、それなりに迫力が増す。私はつと目をそらした。
「理由は仰いましたか」
「ああ、もう誰にも嗤われたくないとさ」
「嗤う、ねえ」
「誰も嗤ってはいなかったではないか」
「ええ、本当に、みんな喜んでいましたのに」
「そうだ、そうだ。お師匠は細い神経を持っていらっしゃる」
それからお師匠様の話は区切り、私たちはひとしきり時候や噂話に興じた。
しばらくすると、兄弟子は柿が食いたいと言いだした。
「柿、ですか」
「そうだ、どうしても食いたいのだ」
庭は今朝降った雨のせいで、しっとりと潤んでいる。薄寒い色の空は、またいつ泣き出してもおかしくない。あじさいは絹のような花びらを開かせ、梅雨の到来を喜んでいるようであった。いまは六月。柿なんて、天地がひっくり返っても落ちてこない。
「柿は無理ですよ。杏子や枇杷なんてどうです? 見舞いにいって果物をもらうなんておかしな話ですが、老人の家へ行って読経の一つでもよめばいただけますよ」
「いや、俺は柿を食いたいんだ」
うわ言のように、柿、柿、と繰り返す。私はまた始まった、と嘆息して兄弟子を横目にみた。兄弟子は癇性のせいか一度こうと思うと、熱に浮かされたようになる。
「分かりました。私が探してまいりましょう。その代わり、爪を一欠片いただけませんか」
「は、爪?」
はい、と確信を持って答えると、兄弟子は小刀で爪の先をほんの少し削いだ。
「ありがとうございます。確かに受け取りました」
「なんだ。まじないでもかけるのかね」
「滅相もありません」
私は爪を懐にしまった。庭を抜け、寺を降りて、近くの町へ向かうことにする。ひょっとすると市で珍しい柿が競りにでもかけられているかもしれない。袈裟を着ているから、品代をまけてくれる可能性もある。
た、た、た、と自然と足は軽やかになった。雨あがりで地面が少しぬかるんでいるが、まったく気にならない。私は懐を何度もさすりながら、季節はずれの柿を探すため、やがて小走りになって道中を急いだ。
市に行くと、えらく繁盛していた。その熱気にあてられて、思わず息を吐く。威勢のいい客引きや、目つきのちょっとばかり怪しい男、薄汚い子供たち、身なりのいい女たち―ここでは貴賤も関係なしにごった返していた。まるで人間の闇鍋である。
「もし、そこのお坊さん」
瑞々しい果物の露店をひやかし、つめたい西瓜を手にとっていると、ふと、一陣の風のような声で、呼び止められた。
私はあたりを見わたしたが、声の主は見当たらなかった。
「どなたか私をお呼びになりましたか」
「ええ、他の誰でもない、あっしがお呼びいたしました」
耳を澄ませると、ふたたび風のような声が駆けていく。張りのある明るい声で、声の主は若い男性のようだった。人懐っこさも声の抑揚に滲んでいた。
「どこにいらっしゃいますか。あなたの姿が見えないのですが」
「ここです。ここ。あと十歩ほど、右に進んでください」
私は言われるがままに、雑踏をかき分け、足を進めた。鮮やかな緑の葉を茂らせた木があるだけで、私を待つ人の姿などなかった。もしかして、暇な男にからかわれたのだろうか。木の陰に入り、私は背中を太い幹に預けた。
「いいえ、からかってはおりません」
胸の内をよまれ、私は女のように胸をはっと抑えた。やはりどこからか自分を観察しているのだろうか。
「観察、というより、あなたのすぐ横にいるのですよ。ほら、あなたの寄りかかっている木です」
はあ? と私は木を仰いだ。薄灰色の木漏れ日が顔に降り注ぎ、目を細める。仄かに土の腐った甘い匂いがした。
「私は柿の精なのです」
至極真面目な声で、男は言う。木はどこにでもある若木で、これといった神性も霊験も感じさせなかった。ご冗談を、と笑って去ろうとしたけれども、不思議な力が私を捕らえて離さなかった。金縛りにあったのか、その場で足は石のように固まった。
「柿を探しているあなたにお願いがあるのです。私は因果な場所で、転居もできず、ただでくの坊のように立っています。泥酔した者に胃のなかの物を吐かれ、犬に小便をかけられ、商売の干上がった者に足蹴にされるのです。そのくせ貧相な体格か災いしているのか子供に木登りをされたり、小鳥が巣をつくったりすることはありません。私ほど惨めな木の精は他にいないでしょう」
風のような声が、強風くらいに変わっていく。愚痴は長くなりそうだったので、自由に動く口で、こほんと咳ばらいをした。柿の精は我に返ったようだった。
「あなたに己の不幸を聞かせたいわけではない。ただ、私を神木のように奉ってほしいのです。あなたのようなお坊さんに厚遇されていたら、市井の人間は私を無下にできないでしょう。そうしてくれたら、私はなにがなんでも柿の木を実らせてみせましょう。どうですか?」
こくこく頷いてみせると、透明な紐がするり解けたように、足の硬直がとけた。
「なぜ、私に頼むのです?」
「まあ、お噂はかねがね伝え聞いております。鼻の長い僧侶のお弟子さんでしょう」
木の精の顔は見えないが、声の調子からして、彼がにやついているように思われた。私はむっとして、何をすればいいのです、とぶっきらぼうにたずねた。
「まずは大切なものを奉納してください」
「仏でもあるまいに」
そう言って笑うと、ぴしりと内股に痛みが走った。なにやら霊的な力で暴力をふるわれたらしい。仮にも御神木に擬態しようとしているのだから、もっと品よく振るまっていいのではないか。そんなことを考えていると。今度はわき腹に激痛が走る。そうだ。相手には私の考えていることが丸わかりなのだ。私は痛みに身体をくねらせていたので、傍から見ると、よほど奇特な人間に見えたであろう。通行人がぎょっとした顔で私を凝視してくる。
しばらく悶絶していると、ふっと拘束が解けた。
私は懐から一寸だけ兄弟子の爪を取りだした。やはり爪だと役不足だと思いなおし、内心苦笑する。こんなもの、自分しか価値を見出せないであろう。
ちょうど近場に捨ててあった椀をとり、そのなかに金を入れ、木の前においておく。
「今日はこれで勘弁してください。金を置いておけば、あなたの格を勘違いする人もでるでしょう。日を改めてしめ縄でも持ってきますから」
その日も、私は柿の木へ出かける準備をしていた。
どすどすと足音がしたので、後ろを見ると、長い鼻をみっともなくぶらさげた師匠の姿があった。
「とち狂ったか」
吐き捨てるように、師匠は言う。男性器のような鼻は、うっすら赤らんでいた。師匠の感情は、すべて鼻にあらわれる。赤いときは怒っているとき、桃色のときは恥じているとき、青ざめているときは恐怖しているとき、という具合にだ。感情的昂ぶりが身体に印されることも、性器を連想させるので、まことにはしたない鼻だと、私はこっそり嘆息した。
「みずぼらしい木をいたく気に入っているそうじゃないか」
「さて、なんのことでしょう」
私はとぼけてみせる。
「寺の持ち物が、なくなっているんだよ。中童子にあとをつけさせたら、お前が木に縄をかけたり、高価な果物や酒まで供えていたりするではないか。木にむかって独り言まで言っているそうだし、物の怪に憑かれたのか」
「いいえ、けっして物の怪の類ではございません。私は私の成就したい目的のために、行動しているに過ぎません。寺の物もけっして盗んでおりません。きっと中童子が幻でも見たのでしょう」
「この期に及んで嘘を吐くか。いいか。無理をして手に入れた幸せは、砂のように手から零れ落ちていくぞ」
「それはご自分のことでしょう」
「なに」
「私は長い鼻で甘んじることはしません」
私たちはしばし睨みあった。先に目をそらしたのは、私である。根負けしたというより、師匠の破廉恥な鼻をこれ以上見たくなかったからだ。
寺をでる私に向かって、「いつか痛い目をみるぞ」と師匠から捨て台詞がかかる。
私はひらひらと片手をふってみせた。
兄弟子の爪の入った懐をさすりながら。
数日が経ち、貧相な柿の木は、商売繁盛のご利益があると一躍名を馳せるようになった。
何事も形から、と言うけれど、これだけ体現した例も珍しいだろう。
しめ縄をかけ、供え物をして、手を合わせているだけで、市井の人は「これは有難い木だ」と勝手に勘違いしてくれたのだ。中にはおそるおそる木に触れて、腰痛が治っただの、売上が伸びただの、胸がすっとしただの、騒ぎ出す者まであらわれた。
柿の精も大変満足げにしていて、私と出会ったときは丁寧な口調で喋っていたはずなのに、今では鷹揚な口をきくようになった。
「人間とは浅ましいものだな。少し前まで小便をかけていた木を祀っているとは。この間、木の下で逢瀬していた男女は、顔を青くして、謝りに来たぞ」
「柿の実はまだです。兄弟子が食べたがっているのです」
「いま踏ん張っておる。もうすぐ柿の実が生るから、しばし待たれよ」
「はい、枝の先に青い実が生っていますね」
力んでいるのか、木はかすかに震えている。青い実は少しずつ膨らみ、色は深い橙色になっていった。やがて枝の先から身がぽとりと落ちた。私は慌ててうけとめる。
ぽってりと艶があり、うまそうな柿であった。
「礼を言います」
私は大事にそれをしまって、さっそく兄弟子に届けてやろうと思う。
「それを渡せば、お前たちは後悔するかもしれない。いいのか?」
「あなたには兄弟子の気持ちまで読めるのですか?」
「……まあ、だいだいはな。俺はこんな身分になって楽しんでいるが、その気持ちはけっこう辛いかもしれないぞ。お前も、その兄弟子とやらも」
「どうせ他の木の精から、詐欺師だのまがい物だの、嘲笑されているのでしょう」
「ご推察の通りだ。お前はちと種類が違うかもしれんが、修羅の道になるかもしれない。これは義理で忠告しているんだがな」
「ありがとうございます。私は兄弟子の気持ちが分かれば、それで十分ですから」
「なら、いい。俺には関係のないことだし、達者でな」
私は一礼して、木のもとを去った。梅雨らしい湿気を含んだ重たい風が頬を撫でていく。
仏門に入った身でありながら、私は懸想している。しかも、兄弟子に、だ。
だから季節外れの柿をなんとしても手に入れなければいけなかった。
木の精のは「お前たち」と口をすべらせた。たぶん、兄弟子も私を憎からず想ってくれているのだろう。そういうことは言葉と雰囲気で分かるものだ。
「嗤いたければ、嗤えばいい」
私は兄弟子の爪を眺めながら、いつのまにやら唇に微笑を浮かべていた。