小説

『憂鬱な妊婦』梅春(『七夕女房』)

 狩人は、天人の娘から飛び衣を奪い、天に帰れなくしてから、自らの妻とする。しかし、天人の娘は、自らの飛び衣を隠していたのが夫となった狩人だと知り、天上界に戻る。狩人は娘を追って、天上界に向かうが・・・(徳島県の民話、七夕女房より)


 子供ができないことからは目を背けていた。

 仕事は忙しかったが、共働きで仕事があるから都心で何不自由ない暮らしができる。都会生活を無機質で味気ないと言う人たちもいるが、それは安定した仕事と自由になるお金がないことが原因だと思う。

 きちんとした稼ぎと仕事があれば、都会生活はこのうえなく便利で楽しい。

 街はいつも何か新しいものを提示してくれるし、それに飽きたら鎌倉や江の島に足を延ばせば、海や自然に触れることもできる。そうしたら、またコンクリートに囲まれたごつい街が恋しくなる。私たちの価値観の「揺らぎ」みたいなものは、片道二時間もしないほどの移動で、簡単に取り戻せるのだ。

 時間に追われ、張りつめた緊張感で保っている日々は、何かをきっかけに簡単に崩れてしまうし、誰かに掠めとられてしまう。

 だから、なくさないように必死にしがみついている。そんな毎日に疲れ、いつか手放したいと思う日が来るかもしれない。

 でも、それはまだずっと先の話だ。今は、この生活でいい。この生活がいい。だから、子供のことを先延ばしにしてきた。

 残業残業残業でゆっくり話し合う時間もない日々が、夫との適切な距離を保ってくれているような気もして、それを変えるのも怖かったのもある。

 私たちはそんな東京によくいる夫婦だった。


 中条沙由美が妊活についてネットで初めて調べたのは、結婚して八年が過ぎた頃、彼女が三十五歳になった頃のことだった。二十七で結婚して、八年。忙しいとはいえ、「レス」と言うほど縁遠くはなっていない。それでも夫の新之助との間に子供はできなかった。自分は三十五になった。まだまだ若いとは思うし、無理もきくが、自然に妊娠しづらくなっているのは何も調べなくてもわかる。

「妊活した人の六割以上が三十四までに妊活を開始しているの。で、三十代の場合、平均的な妊活の期間は、三年から三年半。当たり前だけど、開始が早ければ早いほどその期間は短くなる傾向がある。ねえ、どう思う?」

 なんか職場で仕事の話をしてるみたいだなと思いながら、沙由美は夫に問いかける。

「どうって」

 同い年の新之助が苦笑いして、黙り込む。目の前を小さな犬を連れた若い夫婦が通り過ぎる。休日の公園は自分たちのような都心に暮らす小金持ちの若い夫婦に溢れていた。彼らのうちの半数が幼い子供を連れていたり抱きかかえていたりする。このタイミングで前を横切った夫婦が子供連れではなく、犬を連れていたことにほっとしたような、残念なような気持ちがした。

「沙由美はどうしたいの? 子供欲しいの?」

 今度は沙由美が黙る。自分は子供が欲しいのか、子供を作れとうるさい自分と新之助の両親を黙らせたいのか、どうして子供を作らないのという目を向けてくる世間や友達を凹ませてやりたいのか。

「いたら、もっと楽しいのかなって思う。作れない年になって後悔するのも怖い。でも、今の生活に満足してるし、子供ができたら今みたいに働けなくなるし、経済的な不安も出てくるかなって・・・」

 妊活を切り出したときは、新之助の協力を得ようと思っていたのに、五分も経たないうちに気持ちが揺らいでいる。我ながら呆れてしまう。私は何をしたい、何をしたくないということがはっきりと決められない。だから、誰かをいらつかせ、知らないうちに逆鱗に触れてしまうのだろう。だからあの頃も、新之助と親しくなった頃も・・・

「よしっ! じゃあ、作っちゃおう!」

 沙由美がめくりたくもない過去のページをめくりそうになったときに、新之助が明るい声を出す。

「沙由美が迷うのもわかるけど、きっと子供はかわいいよ。大丈夫。子育ても大丈夫でしょ。俺たち、ふたりとも親がすぐ近くにいるし。親たちとの付き合いが増えてちょっと疲れるかもしれないけど、そこは我慢しよう。その代わりに、きっといろんな援助はしてもらえるから、沙由美が不安に思うほどは、お金の心配はないはずだよ。俺も仕事がんばるし」 

 新之助の昨年の年収は八百万円を超えている。それに彼が言うように両方の親も援助する気満々なので、子供にかかる費用はすべて彼らが賄ってくれるだろう。たぶんおつりがくるぐらいだ。

 これで経済的な不安なんて口にしたらバチが当たりそうだが、自分で稼いで自由に使えるものはなくなる。今のポジションに復職できるかわからないから、それが一時的かずっと続くものか、それもわからない。

 しかし、それを言うのはさすがにわがままなのだろう。何かを得たり、新しく始めたりすれば、何かを失ったり、弾き出す必要は出てくる。幼稚なところがあると自認している沙由美だが、それぐらいのことはわかる。

 隣に座っていた新之助が肩に手を回してくる。沙由美はなにも考えずに、新之助に頭を傾けた。とりあえずひとつ悩みが解決したのだろう。解決したのではなく、スタートに立ったのだが、今はとりあえずこれでいい。これでいいのだが・・・

 なんだか、あの経験をしてから、沙由美は新しいことに飛び込むことに消極的だ。だって、自分は何も悪くない、何も変わっていないのに、環境はいとも簡単に一変し、こっちに牙をむいてくるのだから。


 沙由美は何度も妊活を止めようと思った。

 痛みや恥ずかしさをこらえ治療を続けても、それほどのモノを手にすることができるのか。常にそんな疑心暗鬼に包まれていて、息苦しさを感じていた。子供の可愛さを語る友人は多いが、それをもつ苦悩を語ってくれるほど親しい友人は沙由美にはいなかったから、「本当のこと」がますます気になった。こっちに来るな。危ないぞ。そう言われている気がした。なかなか妊娠しないのは、妊娠する必要がないからではないかと思うようになった。

 なったところで、沙由美は妊娠した。

 こんな皮肉なことになるのも、自分の中に何かを突き立て、しっかりと進むことができないからだと諦めている。


 梅雨の晴れ間に買いだめするために家を出る。妊活中に先のことを考え、沙由美の実家のある練馬に戻ってきていた。

 そこそこの広さの畑がいきなり姿を現わす練馬の住宅街のどこか間抜けな感じが嫌いだったが、いまの沙由美はその雰囲気にほっとした安らぎを感じている。

 スーパーで買い物していると、女に声をかけられた。

「今永さん、久しぶり」

 旧姓を呼ばれて、沙由美は首をひねる。女は眉もかいておらず、だらしなく広がった体を鼠色のスウェットで包んでいる。近所とはいえ、この姿はひどい。張りがなくたるみ、くすみと皺の目立つ顔は沙由美より十は年嵩に見えた。

「私、わからない?」

 女が笑う。極端に右の口角をあげる笑い方で、女が誰かを思い出す。沙由美の体は硬直する。

「あ、わかった? 久しぶり。元気だった?」

 女は笑っている。なんで? 嬉しそうな理由がわからない。

「急ぐの? ちょっと時間ない?」

 答えを聞く前に、女は沙由美の買い物かごをとりあげ、中のモノを棚に戻し始めた。


 女は佐々木奈々子という沙由美の中学のクラスメートだ。中学の二年から同じクラスで、特別仲が良くも悪くもなかった。

 しかし、中学三年になった途端、奈々子は沙由美いじめを先導した。いじめは半年ほど続いた。今の夫である新之助が救いの手を差し伸べてくれなければ、沙由美は受験にも失敗し、人生が狂っていたはずだ。スーパーの近くの古い喫茶店に移動した奈々子は、いきなり本題を切り出した。

「今永さん、中条くんと結婚したんだってね。驚いたわ。だって、あんたのこといじめようって言い出したの、あいつだもん。それで、あんたを助けて仲良くなるんだって計画してて、うまくいったら金やるって。五万よ、五万。中学生にしたら大金でしょ。うち、お金なかったからさ。助かったわ。旦那にありがとうって言っておいてね」

 沙由美の脳裏にあの日々がフラッシュバックする。仲良しだった子たちから急に無視されたときの戸惑い、一人で食べる弁当の味の無さ、体育の時間にぶつけられたボールの痛み、トイレの個室に入っているときにかけられた水の冷たさ、薄っすらと聞こえてくる悪口と含み笑いの不気味さ、汚された教科書を買い直すときに無くしたと親に嘘をついたときの気まずさ・・・

 もう二十年以上前のことなのに、沙由美の中でそれらはいつまでも色鮮やかで、積み重なった思い出の中で異彩を放っている。

「嘘」

 やっと口を開く。目の前の奈々子は意地悪く笑っていた。あの笑い方だ。

「ほんと。でも、まさか結婚までするとはね。ほんとに好きだったんだね、あんたのこと。なんか、ひくわー」

 奈々子はそう言って、沙由美を見ながら鼻で笑うと、何も注文せずに店を出て行った。沙由美の膨らんだお腹に気づかないはずはないのに、ついにおめでとうの一言はなかった。

 残された沙由美は、仕方なくオレンジジュースを一杯飲んで、店を後にした。あの頃、話したこともなかった新之助がなぜいきなり接近してきたのか。その理由がわかった気がした。

 奈々子の言うことを鵜呑みにするわけではないが、新之助といるとどれがどうと説明できないがどこかコントロールされているような気がすることがあった。その正体はこれだったのかと、妙にしっくりきた。


 いったん部屋に戻り、必要最低限の荷物をまとめ、逃げるように実家に戻った。

 両親は驚いていたが、妊娠中だから気持ちが不安定なのだろうと勝手に納得し、沙由美を受け入れてくれた。新之助がすぐに迎えに来たが、会いたくないといって拒否し続けた。ラインや電話もすべて無視した。

 沙由美はずっと自室にこもり、一人で考えていた。新之助に対する最大級の復讐を。

 やっと身ごもった子供は大事にしたい。これは沙由美だけの宝なのだから。だとしたら、父親は必要だろう。この子ができるだけ居心地よくいられるツールはひとつでも無くしたくはない。新之助にはATMになってもらい、世間体も保ってもらおう。大企業に勤める父親は、子供にとって不利にはならないはずだ。それに離婚となれば、両親に理由を話さなければならない。あの頃必死に親に隠していたいじめられていた事実をここで打ち明けたいとは思えなかった。年をとっても、いじめられという事実は沙由美の中で重く、恥部のままだった。くだらないと思うが、これが自分なのだから仕方ない。こんな思いを抱かせる新之助が許せないという思いばかりが強くなる。いじめを経験し、自分はひと回り小さくなったと思う。悲観的になり、夢見ることがなくなった。いつもリスクの芽を探し摘み取ることに必死で、一番大切なものを取り逃がしてしまう。

 そんなふうにしてできたのが今の自分の人生だ。もっと違う人生があったのではないかと思うと、怒りで沙由美の体は熱くなる。

 この年で親友といえる存在がいないのも新之助のせいだと思う。親しくなりそうになっても、いつか豹変されるのではないかと腰がひけ、深い人間関係に踏み込めない。いざとなると、どこか怯えているような沙由美を見て、残念そうに離れていく友達もいた。沙由美は枕に顔を埋め、叫ぶような声をあげる。あの頃、奈々子の笑顔を思い浮かべながらしていたように。そんな日々を過ごしながら、沙由美は将来の計画を固めていった。


「お帰り。体は大丈夫か?」

 家に戻ると、新之助が涙を浮かべて抱きついてきた。吐き気がした。つわりではない。沙由美は、実家で考えていたことをすぐに口にする。

 これまでは財布は別々だったが、お金のことはすべて自分にまかせてほしいと進言すると、新之助はすぐに肯首した。

 これまでの貯金も渡してくれるそうだ。妊娠中で不安定な女を演じ、子供のためと言えば何でも通ることがおかしくて、新之助の前でも自然な笑顔が作れた。

 子供が大学を出たら、へそくりを持って、新之助と離婚する。それからが、自分の本当の人生だ。そう思うと、口角は自然と上がる。

 沙由美は奈々子の笑顔を思い浮かべ、さらに右側の口角を上に引っ張った。