小説

『人魚玉』洗い熊Q(『金魚撩乱』)

 青々とした新葉の上を滑る露。弾ける様に葉から地面へと落ちる玉露は何よりも純水で透き通っている。

 今、その瞬間にだけ生まれるはずの玉露が目の前にある。

 両手で掬い上げる程の大きさの。

 本当はそれは水滴じゃないが。そう思えてしまう程の透き通った水晶玉なのだ。

 その至純な美しさに見惚れて覗き込むと、水晶を通した景色があると思い込んだ想像をいとも簡単に裏切ってくれる。

 水晶の中は真っ黒なのだ。

 そして一瞬ふわりと、淀んだように。

 淡い青白い光が浮かぶと、それが瞬く間に人の形になる。


 水晶玉の中に美しい髪の女性が現れていた。


 暗闇に広がる青白く広がり流れる髪。その髪に身を預ける様にくねる女性の色白の身体。透き通った細く長い手。艶めかしく撓む乳房。

 ただ一つ、普通と言える女性と違うのは両足がない。締まった腰下辺りからあるのは輝く鱗に包まれた尾ひれだった。

 そう彼女は人魚なのだ。

 端正ながら愛嬌のある目元で彼女が笑うと、くるりと水晶の中で一回り。

 流れる髪。美しく伸びる手。煌めきを増す尾ひれ。

 星屑の中で戯れているようだった。悪戯っぽく笑って、無邪気に全身で楽しさを現して。

 彼女の一挙一動に魅入られ、僅かにも視線を外せられなくなるのだった。

「どうだね、美しいだろうに」

 首の痛さを忘れ水晶玉に見入っていた自分は、顔を動かさずに上目だけで目前に居る老人の方を見た。

「……これ一体なんですか? 映像ですか?」

「いや、水晶の中で泳いでおるよ。実際に閉じ込めてあるんだ」

 そう言われ信じるも信じまいともなく、また自分はその水晶に見入ってしまう。本物かどうかという考察の前に、その美しさが圧倒してしまう。

 魅入られる。この状況がそうなんだと頭の隅で自分が認識している。

「幻覚でも夢でもない。本物だ」

 そう自慢げな老人の言い方。だが顔を見ると笑みも浮かべずに冷たい無表情のままだ。


 

 そこは地方の古びた骨董店だった。

 ノスタルジーに憧れる私は雰囲気に惹かれ店内に引き込まれた。想像した通りの店内。使い込まれた日用品、初めて見る機器類、価値など知らない美術品。

 思わず最新式の一眼レフで陳列された品物を撮りまくった。手に入れたいとは思わない。ただそれに出逢えた記念という気持ちぐらいなもんだ。

 夢中で撮影してる最中、店の主人である老人に声を掛けられた。

 最初は無断での撮影を咎められると思ったが、私の使用しているカメラが最新式かと尋ねられたから話が弾んだ。

 集める事が趣味みたいな私のカメラコレクションの列挙や、老人が持ち出して来てくれた二眼式カメラなど。それから機器のレトロからモダンな話へと。

 滅多にない店の雰囲気に興奮してか私は裏付けが薄い持論を披露してしまったようだ。

 ノスタルジーに憧れても、機器のレトロな不自由さに比べて最新の使い勝手の良さの意味と主義を。

 もう正直、何を語ったなんて覚えていない。それほど興奮して喋っていたようだった。黙って聞いてくれてた老人。

 そして何かを思ったのか、老人はちょっと待てと奥から持ち出してきたのだ。そう、それがこの水晶玉だった。


 

「これは網羅玉というんだ」と老人が淡々と言った。

「網羅玉……?」

「そう、一昔に密かに流行ったものだ」

「一昔って……何時の時代なんですか?」

 自分でも当然の質問だと思った。この見ているのが偽物だったにせよ、こんな幻惑的な映像を映し出す技術なんてあるのかと。現代でもこんなのは作れないのが明白だからだ。

「そうだな……何時からあったのか正確な事は言えないが。自分が子供の頃には噂でしか聞いたことがなかったか」

 子供の頃って。老人はどう見ても七十代は超えていそうだった。

「何せこの網羅玉は持つのを禁止されてからな。その禁止という事柄も秘密裏だったと」

「禁止? 秘密裏?」

「ああ、曰く付きだからな」

 曰く付き。それに言い知れぬ不安と抱くと同時に、悪戯気に突かれる様な好奇心も湧いた。そんな気分でふとまた水晶玉に目をやる。中の人魚が色っぽく体をくねらせ、くすっと悪戯気に私に微笑んだ。

 正直、顔を赤らめる程に動揺してしまった。

「曰く付きと言うても呪いや怨念の類いではないようだ。色々とあったらしいが」

「色々?」

「ああ、聞いた話だとな……」と老人は語り始めた。


 

 網羅玉は高価な物だが決して手が届かない代物ではないらしい。だからか平民な者でも持つのも不思議ではなかった。

 山間に住む平太という若い男も持っていた。

 平太は生まれがそこだから林業を生業とし、険しい山間の道も危なげなく歩く。そんな平太がどうやって網羅玉を入手したかは詮索しようがないが、手に入れたその玉を自慢げに周囲には見せびらかしていたようだ。

 妖艶に泳ぐ人魚にすっかり魅入られた平太。肌身離さず、日々暮らす時でも、仕事に合間でも、彼はずっと網羅玉を見つめるようになった。

 ある日、断崖がある山道。割と道幅がある故さほど危ないとは言えない、まして職場がそこである平太にとっては通い慣れた道。

 日常に平太は水晶玉を見つめそこを歩く。余りに顔を上げない彼に心配した仲間が背後から声を掛けた。

 だが平太は返事どころからこちらを見やしない。

 また仲間が声を掛ける。今度は怒鳴るように名を呼んだ。

 平太は振り向きはしないが無言で、気怠い感じに、背中で返事をしたようだ。その仕草に仲間は少し安堵したが。

 その瞬間には平然と平太は崖へと歩みだし、そして真っ逆さまに落ちて行くのだ。

 慌てて仲間が崖に近寄るが、谷底から情けない叫び声が響いているだけだった。


 

 またこんな事もあった。

 馬車を使い熟す若い騎手。清廉潔白で人当たりは良かったが、僅かにも内向的でな。人付き合いが苦手だったようだ。

 だが仕事は生真面目に熟していたが。

 それがこの網羅玉を手にしてから少し変わってな。

 変わったと言っても良い方に、内向な印象がはきはきと表情を現す様に。仕事でも日常でも笑顔で過ごす事が多くなった。

 本人に聞くと毎日が楽しいらしい。

 この水晶玉に住む人魚に自分の姿を見せると、とても喜んでくれると。仕事の最中でも、飯を食っておる時でも、その若者の一挙一動に何でも反応してくると。

 特に人魚が喜ぶのは馬車に一緒に乗せている時だ。

 自分の横にその水晶玉を据え付けて走ると、中の人魚がきゃきゃと喜ぶ姿を見せると若者が自慢げに話していた。

 ある日、爽快な天気の下で若者が荷物なく馬車を走られていると、その陽気のせいか妙に気分が良い。

 水晶の人魚もご機嫌だ。彼が馬車を速く走らせる度に喜び具合も半端なかった。

 疾走する馬車。水晶内をくるくる回り喜ぶ人魚。その姿に見惚れる若者。

 速さに比例する様に可憐と無邪気さが増す人魚の姿に若者は興奮した。もうこれでもかと馬車を走らせた。

 だが若者は知らなかった。いや気付かなかったのだ。

 その間に行商人やら、老夫婦や若い親子やら、道すがらに歩く人々を馬車は次々と撥ねていた。そうだ、暴走していたのだ。狂った凶器の様に馬車は激走していた。

 馬も若者の興奮に巻き込まれてしまっただろうか。結局、若者が気が付いたのは馬車が堀へと激突する瞬間。

 馬車が走り抜けた跡は地獄絵図だ。何人もの血溜まりが残るだけだった。


 

 またひとつ、話が。

 大抵が愛寂しき男ばかりだったが、この網羅玉に魅入られるのはそれだけではない。

 その山岳部に住む若夫婦は二人の子宝に恵まれ慎ましく暮らしていた。決して裕福ではない、でも幸せそうには見えた。

 夫は実直な頑張り屋だ。何とか家族を幸せをしようと出稼ぎを考えていた。

 幼子を妻に押しつけるのを不安に思うのは自然だが、生活の為だ致し方ない。妻にも寂しい思いをさせるのも酷だと、気晴らしにと思い偶然手に入れた網羅玉を妻に渡したのだった。

 美しい人魚に受け取った妻も喜んでくれた。本来なら出稼ぎ先での楽しみだと思っていたが、不安が和らぐならとそれで良しとした。

 家を出た夫は仕事に邁進する。家族の為にもと連絡も帰省も忘れるほど没頭していた。

 半年ほど経った頃か。

 出稼ぎ先の夫に思わぬ知らせが来る。子供二人が亡くなったというのだ。

 慌てて帰省をするが家に帰ると中は蛻の殻。妻の姿さえない。

 どうかしたのかと隣人に訪ねて見れば、険しい顔で事の経緯を語ってくれた。

 子供は餓死したそうだ。

 ある日から家を閉め切り出てこず、数ヶ月も姿を見せぬから皆で乗り込んだそうだ。

 真っ暗な家の中。凄まじい臭いと散乱した塵。飛び交う虫。まるで放り棄てる様に床に転がる干からびた幼児の遺体。

 そして部屋の隅では蹲った妻が、大事そうに抱えた水晶玉に、まるで呪詛でも唱える様にぶつぶつと語る妻の姿であった。

 何があったのかと拘禁された妻に詰め寄ろうとしたが、夫が向かった時にはもう遅い。

 死んだのだ。衰弱しきった妻もまた餓死したのだ。


 

「……まあ、わしが聞いた話はこんな所だな」

「……それは呪われてると言う事ですか、この水晶玉は」

 淡々と語る口調の老人の話。少し背筋に悪寒を感じながら思わずまた水晶玉を見てしまう。

 人魚は変わらず美しく笑っていた。

 禍々しさなんて微塵もない。愛らしさだけが中に漂っている。

 それがこの水晶玉の恐ろしさとも考えもしたが。

「でも……見ている限り、そんな忌々しい物とは思えないんですが」

「そうだな、そもそも網羅玉自体に曰くが有るなんて話は聞いた事がない」

「作られた経緯に何かあるとか? そもそもどうやって作るんですか?」

「さあ、作り方なんて知らんよ。ただ遊具の一種だったんじゃないかな。ただ特別な」

「遊び道具って……これが……」

 釈然としない私を嗤笑する様に、老人は優しく水晶玉を撫でていた。

「そんなもんさあな。作り手の真意など今更に分からんが……ただこれ程に美しい物を創造する者が、悪意だけの存在とはわしにも思えん。それ程に純粋なんじゃよ、この水晶玉の中はな」

 少し共感もし、納得もした。

 確かにこの美しさ、面妖な雰囲気よりも老人の言葉が合っている気がする。

「……でも何で、私にこれを見せようと思ったんですか?」

 そう唐突に出た私の質問に、うんと顔を上げ見せる老人。すると徐に下から拾い上げる様に持ち出したのは手持ちのハンマー。

 ――有無を言わさずそれを水晶玉へと振り下ろす。

 自分があっと声を上げる間もなくドンと当たった瞬間に、けたたましい音で水晶玉がバリンと割れた。置いていた机全面に水が飛び散り、中にいた物もびちゃんと卓面に落ちた。

 それは丸々とし元気の良さそうな赤い金魚。

 老人は跳ね苦しむ金魚の尾びれをひょいと掴むと、近くに用意されていた金魚鉢へと放り込む。水の中に戻った金魚は何事もなかったように悠然と泳ぎ始めていたのだった。


 一体、何が起こったのか分からなかった。


 声に出せず金魚鉢の中を指さしながら老人と顔を見合わせる。ふんと自慢げにも見える顔で老人は言った。

「言っただろう。ちゃんと中で泳いでいるって」

 この金魚が人魚に見えていた? どういう仕組みなんだ? ただの幻だったのか?

 様々な疑問が湧いた。どれから聞こうか迷うほど。しかし最初に聞いた事は頭の中にはなかった、思わず溢れ出た事だ。

「……どうして割ってしまったんですか」

 それにまたうんと顔を上げ見せる老人。悪気も何もない澄ました表情だ。

「いやなに、もうこの時代には必要がない物だと。いやこの先も必要になる事はないだろう。どうして君の前で割ったか? いや本当に気まぐれだ。何となく昔の物にも愛情がある君の前で割るのが意味が有るように勘違いしたのかもしれん」

 そう言うと老人は懐を探ってスマホを取り出し頬杖を突き、気怠そうに画面をいじり始めていた。

「何せ今やこんな便利な物が子供でも持てる時代だ。用途も意図も分からない物が存在していけなかろうに……ただわしが思うのは、どんなに時代が進もうと“道具”を使うのはあくまで人間。善悪など道具の中には存在しない。結果を産み落とすのは人間なんだ」

 そう言いながらスマホから視線を逸らさない老人。それを見つめ泳ぐ愛嬌顔の赤い金魚。またその二つを見合っている自分を含め。

 今この状況にやるせなさを感じるのは正常だという自信がなかったのだった。