小説

『あの角を曲がって』裏木戸夕暮(エドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』)

 ベッドの傍のテーブルに封筒と500円玉。僕は500円玉をポケットに入れ
「じゃあおばあちゃん、出してくるね」
 と封筒を鷲掴みにする。返事はない。おばあちゃんの鼻の下には透明のチューブが貼り付けてあって、おばあちゃんはチューブから酸素を吸っている。
「おばあちゃん、もう長くないかも。出来るだけ顔を見せてあげてね」
と言うお母さんは、パートや介護で毎日忙しそう。ちなみに、おじいちゃんは僕がもっと小さい頃に死んだらしい。

 先月、肺の病気で入院していたおばあちゃんが帰って来た。元気になったのかなと思っていたら、そうではなくて、おばあちゃんは奥の部屋で寝てばかりいる。
 時々は目を覚ます。話が出来ることもある。調子がいい時には鉛筆を持って手紙を書く。僕が小さい頃字を書く練習に使っていた、太くて濃い鉛筆が役に立っている。
 手紙をベッドの傍に置くとお母さんがそこへ500円玉を足して、僕がポストへ投函に行くという仕組み。小学3年生の僕にはまぁまぁなお小遣いだった。
 でも、それはひと夏のこと。
 9月の涼しくなった朝、おばあちゃんは死んでしまったから。

 小学3年生の思い出は現在に繋がる。
 少年が大人になって町を離れると、祖母からの手紙が届き始めた。
『克彦へ。小さな仕事でも丁寧に頑張りなさい』
『後輩が出来たからといって威張るんじゃありませんよ』
 何処へ引っ越しても手紙は届く。
 元少年は不思議とは思わなかった。
 玄関を飛び出して、たばこ屋の角を曲がって、ポストに手紙をポン。
 実家の近所のポストは、丸い筒に屋根がついた昔のデザインだった。
 少年には手紙という通信手段は馴染みがなくて
(あの中に妖怪が住んでいて、手紙を食べてるんじゃないか)
なんてファンタジアな妄想をしていた。
 だから時空を飛び越えて祖母からの手紙が届いても、素直に受け入れられたのかも知れない。
 尤も、実はこうなんじゃないかという想像はついていた。
 死期が近いと知っていた祖母が、将来の孫へ伝えたいことを手紙に書く。母親が協力して本物は保管し、別の封筒をポストへ投函させる。このお遣いがあることで孫がちょいちょい顔を出すことになるのだから、祖母も喜ぶ。
(そして、俺が社会人になって家を出たタイミングで母親が手紙を出している、と)
 克彦は苦笑い。
 家に居る頃、母親との仲は緊密だったとは言えない。
 実家は自営業で小売をしており、母は帳簿の手伝いと家事と介護とパートで毎日忙しかった。父親は仕事以外は全部母に丸投げだったから尚更だ。こまめで働き者の母は近所に住む親戚の用事まで頼まれることも多く、時間に余裕が無かった。毎晩ぐったりと疲れた母親を見ていた少年は、親の手の掛からない子に育った。
 年月が過ぎて面倒な親戚も数が減り、気づけば一人息子は独立して遠い土地へ。手紙は祖母の代行でもあるが、息子へ送る愛情の変化球なのだろう。
(途中からはお袋が自分で書いているかもな)
 そこを冷静にツッコまないのが、息子なりの気遣いだと克彦は思っていた。

 克彦が社会人になって三年が過ぎた。父親の方針で
「頻繁に帰省なんかせんでもいい、交通費が勿体無い」
「来るとしたら嫁さんが決まってからにしろ」
とのことで、帰省はしなかった。就職先が遠方ということもある。両親とはたまにメッセージのやり取りをする位。
 周りには
「いいじゃん、うるさくなくて。帰省っても遠いと何万も飛ぶしなぁ」
「私なんか帰ると面倒で。結婚だの出産だの。親戚のおじさんなんか発言がもぉセクハラ」
 などという同僚が居たから
(実家がドライってのも助かるな)
 と呑気に構えていた。

 克彦の仕事は車の販売で、覚えることも人付き合いも多い。休日が潰れることもザラだ。恋人も作らず仕事に邁進した。
 時折思い出したように手紙が届く。
 夏には
『夏バテしないように。梅干しが体に良いよ』
 冬には
『風邪を引かぬよう、寝る時は襟元を温めなさい』
 ごく平凡な内容と震える文字。
(病人だったばあちゃんの筆跡を真似てるのか)
と少し可笑しい。
(米や野菜じゃなく手紙ってのがうちらしいな)
 社会人になったら経済含め自立しろというのが父親からの訓戒で、新卒で給料が低いうちも実家からの支援はなく、おかげさまで克彦は自炊を覚え遊興に溺れず、至極堅実な生活を身につけた。
 克彦は二十代、実家の親もまだ還暦前。
 親の心配など遠い先の話だと、克彦は思っていた。

「あ?」
 ある日、届いた手紙を開封すると。
「空っぽだ。なんか間違えたかな」
 しげしげと封筒を見る。何か違和感がある。封筒の角が擦れて丸くなり、紙も変色している。
「これって・・・」
 消印がおかしい。消印の表示は郵便局名、和暦、日付、ポストから回収された時間帯の筈だ。克彦は消印に押された地元の地名を懐かしむのが習慣だった。

(和暦が二桁?)

 現在の和暦は一桁だ。克彦は封筒がシワだらけなことに気づいた。

 まるで、子どもが鷲掴みにしたみたいに。

 克彦はスマートフォンを手に取った。
「ああ。親父?・・・いや、別に用じゃないんだけどさ。たまには連絡しようかと思って。そっちは元気?」
 父親は戸惑いながらも嬉しそうだった。
「あー、良かったらお袋にも代わってよ」
『あいにく、今風呂に入っとってなぁ』
「じゃあ後から掛け直すよ」
『ははは・・わざわざそんなことをせんでも。わしからよろしく言っておくさ』
 父親は快活に笑った。
『わしらのことは気にするな。親ってものは、子どもがちゃんと元気でやっておればそれでいいってもんだ』

 久しぶりの電話は他愛のない話で終わった。

 数日後。
「おーい」
 実家の玄関をガラリと開ける。
「か、克彦!?」
「ホイ。びっくりしたか」
「お、お前どうした?」
 奥から出てきた父親が腰を抜かさんばかりに驚いている。
「そんな驚くなよ。週末だからたまにはと思って」
「お、お、お・・・」
 父親が驚くと同時に狼狽えているのが分かった。
 父親が出てくる。それだけで克彦にはピンと来た。普通なら玄関が開けば出てくるのは母親だ。
「・・お袋は?」

 三十分後。
 病室を訪れると、母親も腰を抜かさんばかりに驚いた。
「か、か、あんた、なんで!?」
「ホイホイ。やっぱりか」
「お父さん、あなた克彦に言ったんですか?」
「言っとらんよ。いきなり帰ってきてわしも驚いたんだ」
「聞いたよ。大腸癌だって?」
 母親はへなへなとベッドの上で崩れ落ちる。
「心配かけたくなかったのに・・・」
「そうだぞ。幸い見つかったのが早くてな。お前に言うまでもないと黙っておいたんだ。しかしまたなんで・・」
 克彦はポリポリと頭を掻く。これは説明したものかどうか。
「まー息子の勘って奴かな」
 ベッドの傍に腰を下ろす。
「土産にまんじゅう買ってきたけど、食べられなさそうだなぁ。後でばあちゃんの仏壇にでもあげとくわ」
「そうしておくれ・・ああ、それにしてもびっくりした。心臓に悪いわ」
 母親は驚きながらも嬉しそうだ。
 あまり興奮させるな、と父親も苦笑い。

 面会時間の許す限り、克彦は母に付き添った。病人とベッドの組み合わせから祖母の話になった。
「そういえば、ばあちゃんの手紙。あれ、母さんが代わりに出してたんだろ?」
「手紙?」
「俺が家を出てからさ」
 ところが、母と話が通じない。
「あれはおばあちゃんが昔のお友達に書いていた手紙よ」
「え?でもお袋がすり替えてただろ?」
 克彦は昔、祖母の手紙を母が持ち出すのを見ていた。その記憶がのちの推測と結びついたのだ。しかし聞けば、すり替えではなく少し借りただけだと言う。
「ほら、ばあちゃんが亡くなったら通知とか出さなきゃいけないじゃない。だから宛名を控えておいたのよ。戻す時、ついでに500円を置いてね」
 母親は怪訝な顔をしている。
 克彦は戸惑いながらも、勘違いだったと誤魔化した。

 その晩克彦は実家に泊まり、夜は父と話した。探りを入れたが、大人になった克彦に手紙を送ったのは父親でもなさそうだ。
 克彦は考えを整理する。
 祖母の手紙は友人宛のものだった。
 母親も父親も手紙の代筆などはしていない。
 しかしながら、社会人になった克彦には手紙が何通も送られてきた訳で。
(どういうこった)
 実家の天井板の木目を見ながら、眠りに就いた。

「克彦、ありがとうな。やっぱり母さんは会えて嬉しかったみたいだ」
「これからは何かあったら連絡してくれよな」
 翌朝。克彦は父親と玄関で言葉を交わし実家を出た。見送りは断り、駅までの道を一人で歩く。
(あの角を曲がって)
 見覚えのある、古い型のポスト。
 多少の人通りはあったが構わずに
「ばあちゃん。ありがとな」
とポストを拝む。古いポストのファンタジア。
(結論は、そういうことにしておくか)
 駅へと向かう。

「辰ちゃん。そんな所で何してんだい」
 ポストのある角のたばこ屋から年寄りが顔を出した。
 物陰から出て来たのは克彦の父親。こっそり見送っていたようだ。
「やぁ、ばあちゃん。参ったね、こんなジジイに辰ちゃんはないだろう」
「アタシにとっちゃ、いつまでも梅さんとこのいたずら坊主だよ。さっきのが克ちゃんかい。大きくなったねぇ」
「ああ、自慢の息子だよ。なんだか急に帰って来やがって」
「敏子さん、具合はどうだい」
「手術も終わってね。昔と違って癌も早けりゃ治るってぇから」
「そうかい。退院しても労わらなきゃいかんよ。敏子さん働き者だからねぇ。梅さんも言ってたよ、息子にゃ過ぎたお嫁さんだって」
「ああ。病気になられて、嫁の有り難さがやっと身に沁みましたぜ」

 さて・・・

 たばこ屋の元看板娘の婆さんが、克彦の祖母の古い友人だったかどうか。

 梅ばあちゃんが見舞いに来た友人に、孫への手紙を託していたかどうか。
 ご近所の噂と興信所の調査で、克彦の転居先を調べていたかどうか。
 年寄りが郵便局の窓口で消印を押させた後、和暦を偽造する罪を犯したのか。
 その秘密は、ポストの妖怪だけが知っている。

「イヒヒっ」
 たばこ屋の婆さんがイタズラっぽく笑った。