「投票の結果、『美女と野獣』をやりたいと思います。」
配役が進む最中、いじわるな声がした。
「野獣はお面を被るだけってつまらなくないかしら?」
「そうよ。顔が見えないなんてもったいない。」
口裏を合わせたかのように次々文句が出てくる。ざわめく教室には悪意が隠しきれておらず、こういう勘は嫌になるほど当たってしまう。
「醜い野獣の姿のときは、荻野さんがやるっていうのは?」
「それはいい!荻野さんなら被り物も特殊メイクも必要ないもの。」
美月の頭は真っ白だ。倫理観を度外視した発想と、それがまかり通る空間に気が遠くなる。
ここは私立森の宮学園。島の中心から電車で二時間、森を抜けた先にある全寮制の女子校だ。代々身を置く地元の生徒や、県外の富裕層からお嬢様が預けられていた。萩野美月も外から来た一人だが他の生徒のようにお金持ちではない。県内の共学に進む予定が受験に失敗し、逃げるようにして家を出た。才色兼備な姉と比べられてばかりいた美月は知らない土地に希望を持つが、入学してすぐに裏切られた。
「荻野美月です。よろしくお願いします。」
「みつきってどう書くの?」
「美しいに、月です。」
「…最初が聞こえなかったわ。もう一度言って。」
「えっと…うつくしいに」
「っつ、ぷははぁ…なんてピッタリな名前!素敵ねぇ。」
「本当に羨ましいわ。でも萩野さんくらい美しくないと似合わないわね。」
森に囲まれて女子だけの寮生活というと聞こえはいいが、携帯電話も使えないし自由に外出もできない。暇を持て余した生徒にとって美月は恰好の玩具になった。しかもいじめという秘密を共有することで仲間意識が芽生え、美月以外の生徒達の仲は深まる一方だ。
窓から見える木々の葉も、すっかり色づいた季節。森ノ宮は学園祭の準備で騒がしい。学園祭といっても寮内のパーティーみたいなもので、美月は裏方に徹しようとした矢先のことだった。自室に戻り、裏返してある鏡を手に取ると変わらず醜い顔が映っていた。男の人が美人に優しいというのはよく聞くが、それは男の人に限った話ではない。美少女として生まれていたら、自分のような醜い顔をした人間を異質な存在と気味悪がっていただろう。
「はいこれ荻野さんの。今日から練習頑張ってね、何せ主役なんだから。」
一週間もしないうちに台本が配られる。傍若無人な野獣が真実の愛を知る物語。人を見た目で判断してはいけないという教訓の話を読んでもなお美月への態度は変わらない。知っている上で“遊び”を楽しんでいる。美しい少女達の考えることは残酷だ。
『わ、私の城で何をしているのだ。』
「それじゃ伝わらないよ。獣らしくもう一度。」
「すみません。」
野獣はほぼ全ての場面に出番がある。演技経験もなければ人前に立ったこともない美月にとって苦難の連続だった。
生徒達は練習から解放されるとさっさと出て行った。椅子を元に戻し電気を消そうとした時、窓際に江島華子が一人座っていた。さすがはベル役、学年一の美少女。冗談なしに一瞬フランス人形かと思った。
「江島さん、そろそろ夕食だよ。」
「あらもうそんな時間。教えてくれてありがとう。」
『こんな姿じゃ無理だ…彼女の目から見れば、怪物だ…絶望だ…。』
醜さ故に誰からも愛されず、好きな人が出来てもアプローチする勇気がでない野獣。野獣の抱く苦しみは身に覚えのあるものだった。お姉ちゃんは可愛いのにという憐れみの目、馬鹿にされたバレンタイン、悲惨な記憶が蘇る。王子様も野獣になった時はひどく絶望しただろう。でも自分はもとからこの顔で、魔法が解けても美しい姿にはならない。醜いがために学園祭でも醜い野獣役をやらされるのだ。
段々と大きい声を出すことにも抵抗がなくなった。もはや現実逃避に近いが、やり切れない気持ちを演技へ昇華していた。
『父を迎えに来たの。すぐに出してください、父は病気なのよ。』
『こいつは不法侵入したんだぞ!』
『死んでしまうわ!お願い、何でもするから。』
「大分よくなったよ。鬼気迫る表情がいいね。」
「こうして見るとまさに美女と野獣。お互いがハマり役だわ。」
ティーポット役の生徒が執事長役に耳打ちした。
寮は十八時前なのにかなり暗かった。おもむろに廊下の明かりが付く。
「荻野さん、一緒に練習してもいいかな。」
華子の声だ。
「突然お邪魔しちゃってごめんなさい。」
「いいやそんな。」
「二人のシーンが多いから、合わせてやる方がいいかなって思って。」
「そうだ、ね。」
美月は椅子に腰をかけ、華子をベッドに座らせた。
「セリフは全部覚えられた?」
「半分くらい…かな。江島さんは、演技とかやったことあるの?」
「いいえこれが初めてよ。映画は好きでよく見ていたけれど。」
華子は下を向いている美月の顔を覗き込んで優しく笑う。美月はようやく華子と目があった。大きくて、まるく透き通った瞳に醜い自分が映っていた。
「見て。綺麗なお月様。」
「本当だ。まわりに何にもないからよく見えるね。」
「月を見ると安心するの。私がいてもいいんだって思えるから。」
美月はその横顔に見とれて、華子の言葉が聞こえなかった。
それから華子はしばしば美月の部屋を訪れた。練習の他に、夕食のシチューが美味しかったとか数学の試験が憂鬱だとか些細な会話が増え、穏やかな二人きりの時間はあっという間に感じられた。
食堂の大テーブルに一人の昼食。相変わらず学園に美月の居場所はないが、華子の笑顔を思い返すと暖かい気持ちになれた。
「荻野さん。」
「江島さん、どうしてここに。」
ちょうど華子のことを考えていた。
「私も今からご飯にしようと思って。」
「いつものお友達は?」
「今日は忙しいからって断られちゃったの。」
「そっか…。」
自分の名前を出したからではないかと察したが、傍にいようとしてくれるのはこれ以上ない喜びだった。その光景を見ていた生徒は、醜い野獣の役しかもらえないくせに華子と主演をやるからって調子に乗っていると、美月に腹を立てた。
学園祭まで残すところあと一か月を切った。被服室の前を通りかかると、トワルには完成間近のドレスが着せられていた。肩を落とした女性らしい胸元のデザインに、ふんわり広がったスカート。鮮やかな黄色のサテン生地は上品な光沢がある。
「綺麗…。」
つられるまま中へ入る。床には糸やハサミなどの裁縫道具がやりっ放しで散らかっていた。ドレスは近くで見ると思ったよりボリュームがあって、重ねられたシフォンの裾には金の糸で薔薇の刺繡がしてある。きっと華子が着たら本物のプリンセスになるだろう。
美月はファスナーを下ろすと、慎重にトワルから脱がせ、手に持ったそれを身体にあててみた。目を背けたくなるくらい不釣り合いな、まさにドレスを着た野獣がいた。
「ちょっと何してるの!?」
突然の叫び声に、慌てて裾をひっかけてしまった。ビリッと薄い布が裂ける音がして、身体を打った痛みよりも、犯した失態の大きさが分かってパニックになる。生徒達の悲鳴と怒りに満ちたまなざしが脳裏に焼き付いた。
「荻野さん、江島さんの衣装ハサミで切ってたらしいよ。」
幸いにも破けたのは隠れる部分ですぐに修正してもらえた。美月は謝罪して意図的にやったものではないと説明したが、生徒達は一切信用しなかった。それどころか美しい華子が癪に障り、邪魔しようとしたのではないかと憶測が広まった。
「きっとコンプレックスが刺激されたんでしょうね。」
「“気を遣って”話しかけてあげてたのに…。」
華子は、美月から守られるようにして前よりも多くの友達に囲われていた。噂を鵜吞みにするような子ではないと思っていたが、華子の気持ちを知るのは怖かった。気を遣って友達のように接してくれていたのか、あの微笑みも全て演技だったのかと疑心暗鬼が止まらない。だって自分は華子の隣にいる価値がない、醜い人間だから。
夜遅く毛布にくるまっていると、小さくノックする音がした。
「もう消灯時間だよ…どうしたの。」
「行きたいところがあるの。」
華子は美月の手を取ってこっそり寮を抜け出した。
夜の森はかなり冷えて、吐いた息は白かった。華子は迷うことなく進み、今は倉庫と化した旧校舎にたどり着いた。百年以上前からある木造平屋は、所々ペンキが剥がれ落ちている。
ギシギシ鳴る音に怯えながら、華子は教室の床に何かを探していた。狭い入口からは地下へと続く階段と、その奥に小さな講堂があった。地面から数センチ高くなっているだけのステージだ。
「キリスト教禁止の時代に、礼拝するために作られたんですって。図書室で見つけた資料にあって、来たら当時のまま残っていたの。」
「秘密基地みたいだね。」
地下特有の湿った感じはあったが、雨風に浸食されていない分そこまで劣化していない。
「何より一番すごいのはこれよ。」
ステージの上手には大きな箱らしきものがあり、被さっている布を引き上げると古いピアノが出てきた。華子は軽く埃をはらい、前に座った。
鍵盤からはゆったり漏れ出てくるような音がした。薄明りのもと、か弱い手つきの華子が指を押し曲げるように演奏している。この信じられない状況も含めて、幻の中にいるみたいだった。
「わぁ…すごいピアノも弾けるんだね。」
「昔習っていたけどこれしか覚えていないの。『夢想』という曲よ。」
「私の家は地主をしていて、父は立派な人だった。お屋敷の子とかお姫様とか呼ばれたわ。」
華子はまるで恥を打ち明けるように語り出した。
「小学校に入ってピアノ教室に通い始めると、そこにはとても上手な子がいて、いつも褒められてた。お母様が音楽の先生で厳しく指導されてたそうよ。同い年の私たちはすぐに仲良くなった。」
「ある時先生から青少年のコンクールに参加しないかって言われて。その子はすごく練習したんでしょうね。大人でも難しい曲を完璧に弾きこなした。優勝は間違いないと思ったけど、名前を呼ばれたのは私の方だったの。びっくりして、嬉しさよりも何であの子じゃないのって気持ちが大きかった。」
「その子、おめでとうって花束を渡してくれたけど…それ以来教室に来なくなったわ。」
深い溜息だった。
「コンクールの主催者も審査員も父の知り合い。すべてお膳立てされてたの。」
「誕生日にはシェフが豪華な料理を振る舞って、大勢の人がお祝いしてくれた。休みは必ず旅行に連れていかれて、ゴッホだのピカソだの飽きるほど名作を見た。みんな私のためにしてくれたけど、私は何もしていない。」
「父はよく言っていたわ。私には最上のものを経験させたのだから、普通の人が一生かかっても手に入らない教養と、優れた感性が備わってるって。まわりの人はそれをもっともだと言って、羨ましがっていた。」
「でも私…幸せじゃないのよ。」
「こんなこと言ったら変な子と思われるかもしれないし、父は卒倒するでしょうね。恵まれて感謝すべきなのに。ただ空っぽよ?私の中には…何もない。」
「与えられてばっかりなのよ。お腹いっぱいなのにごちそうが溢れてくる。お腹が空くとどうなるのか、好きなものも食べたいものも自分のことなのに分からないの。」
「ピアノ教室のあの子みたいな、芸術家みたいな豊かさがほしい。誰かに与えられるようなものがないって…すごく孤独で、寂しいことよ。」
あまりの境遇の違いに想像を絶する。だが主体的な自由を望む気持ちは、醜さという強靭な枷に縛られている美月にも理解できた。心から素直に笑ったり、愛を伝えたりするほど難しいことはない。
華子は美月の手を引いて立たせた。冷え切った指先がつめたい。
「ここちょうど書斎みたいだし、本を読むシーンをやりましょう。」
ベルが何もない壁に向かって指をさす。
『これ、私が大好きな本!読んだことある?』
『い…いいや。…字を読めないんだ。』
『…あら!実はこの本、朗読するのにぴったりなの!ここへ来てそばに座って。』
二人は段の上にぴったりと寄り添った。
『本がこんなに面白いなんて…僕をどこかへ連れ去ってくれる。しばし…忘れさせてくれる。』
『忘れる?』
『僕が誰か…いや、何かということを…。』
「私たち二人、似ているわ。」
『君と僕が似ているだって?』
『…。私の住む街じゃ皆が私のことを変わり者って言うの。』
『だから、人と違うって気持ちが分かるの…それが、どれほど孤独かも。』
華子は美月の醜い顔にそっと手を添えた。