小説

『8分19秒の猶予』太田純平(『放送された遺言』)

 照りつける太陽の下、真壁健一は全力で走っていた。なにも大学の2限に遅刻しそうだからではない。太陽が消えたからである。

 事の始まりは今からほんの数分前。いつものように地下鉄に乗り大学に向かっていた時のこと――


「緊急速報。各国の人工衛星が太陽の消滅を確認。発生時刻10月31日10時30分頃」


 車内のデジタルサイネージにいきなり速報が流れた。両手首を吊り革に乗せ、予定も無いのに週間天気予報をぼーっと眺めていた真壁健一は彫塑の如く固まった。

 太陽の消滅。それはあまりにも突飛なことである。事実サイネージを見ていた他の乗客はこれといって気にしている様子は無い。

 しかし真壁健一だけは違った。彼には刹那に太陽の消滅がもたらす大惨事について具体的なビジョンが脳裏を駆け巡ったのである。

 彼は情報の信憑性を確かめようとスマートフォンでSNSをチェックした。

「拡散希望! 太陽が消滅!」

 やはり情報は本物のようで、呟くタイプのやつも映える写真を載せるタイプのやつも、どこもかしこも太陽の話題一色である。仮に太陽の消滅が10時30分だとすると、そこからわずか1、2分で情報が蔓延するのだから現代社会は恐ろしい。

「まもなく××。××。お降りのお客様は、前の階段か、エスカレーターをご利用ください」

 車内アナウンスが流れ電車が最寄り駅に到着する。緊急速報とはいえ大地震でもなければミサイルが着弾したわけでもない。通勤時間を過ぎほとんど学生しか乗っていない車内は危機感もなくおしゃべりに花が咲いている。真壁健一ただ一人を除いて――。

 彼は扉が開くと同時にホームへ飛び出した。もともと階段が目の前にくるよう乗車口を選んでいたのが功を奏した。誰よりも早く階段を上り始め、地下の4階から地上階まで一気に駆け上がる。

「太陽は――!?」

 改札を抜けた彼はすぐさま天を見上げた。


×  ×  ×


「太陽は自ら光を放っているんですな」

 教壇に立っている老教授が誰にともなく言った。黒板には「太陽学入門」の文字。彼の話にひたすらウンウンと頷いているだけで単位が頂けるとあり、理工学部の学生のみならず他学部からも人気の授業である。

「先生!」

 段々畑のような大教室に真壁健一の声が響いた。座席の数は250席ほど。その最前列に座っていた彼は挙手をしながら立ち上がった。

「ム、なにかね?」

「太陽は死にますか!?」

 真壁健一のあけすけな質問に、教室にどよめきが巻き起こる。

「太陽の死? ウーム、なかなか興味深いテーマである。確かに太陽も人間と同じ、寿命というものが存在するんですな」

「では先生! 太陽の寿命はズバリ何歳ですか!?」

「フム。寿命の前に、キミは今、太陽が何歳か知っておるかね?」

「5歳くらい?」

「バカモン。誰か、分かる者は?」

 教授が他の生徒に答えを求めると、それまで沸いていた生徒たちが一斉に押し黙った。その間隙を縫うように、真壁健一は後ろを振り返って、教室の中腹に座っている日野ひかりの顔を盗み見た。最前列に面白い人がいる。そんな様子でニコニコしていた彼女は、真壁健一と目が合うなりハッとして、すぐさま隣の女友達へ助けを求めるように話し掛けた。少なくとも真壁健一の目にはそう見えた。多少なりとも彼女は僕を意識していると――。

 真壁健一は飛び上がりそうなほど嬉しかった。彼がこの講義で熱心な生徒を装っているのは何を隠そう日野ひかりにアピールをしたいがためである。

 この大教室で初めて日野ひかりを見た時、真壁健一は彼女に引力を感じた。視線や思考といった全てが彼女に引き寄せられた。背は高く、髪も長く、エキゾチックな顔が魅力的で、体躯は華奢過ぎずに適度な肉付きがあり、いつも笑っているように見える柔和なえくぼは、人類のあらゆる争いを止める力があると本気で信じた。

 それから真壁健一は彼女のリサーチを始めた。名前は日野ひかり。所属は文学部のフランス文学科。どこのサークルに入り、どういう授業を受けているか。法に触れない程度の情報は日常の観察から簡単に仕入れることが出来た。しかしなかなか声は掛けられない。

 そんなある日のことだった。太陽学入門の講義で、彼女が遅刻をしてきた。いつもは女友達と横一列に並んで座るのだが、この日は友達もおらず、日野ひかりは教室の後ろから一人で入って来た。それで、空いている席を探しながら教室の前のほう前のほうへと下りていって、やがて唯一といっていい空席に腰を下ろした。それが真壁健一の隣だった。どうせ僕の隣には誰も座らない。そう油断していた彼は彼女に気づくなり途端に慌てふためいた。

 彼女は授業の準備のため筆記具を取り出したが、遅刻してきたせいで今日の分の出席カードや資料をもらえていなかった。それを察した真壁健一は、咄嗟に自分の出席カードと資料を彼女に進呈した。彼女は頭を振って遠慮したが、彼の頑なな態度に、ついには折れた。

「――ありがとう」

 受け取った日野ひかりの台詞とその笑顔。これだけで、真壁健一は大学に入学して良かったと――生きていて良かったと心の底から思ったのだった。


「太陽はいま46億歳なんですな」

 教授のしわがれた声にようやく真壁健一は我に返った。つい日野ひかりの顔に見惚れ意識がフラッシュバックしていた。

「太陽の寿命は、およそ100億年から120億年の間と言われておるんですな。単位こそ違うが、これもやはり人間と似とるね」

 日野ひかりを振り向かせたい。その一心で真壁健一は道化を演じ続けた。

「では先生! ということは、太陽の寿命はあと50億年から70億年くらいということですか!?」

「フム。そうなるね」

「ずばり太陽の死因は何ですか!?」

「太陽の死因。フーム、キミはなかなか面白いことを言う。まぁ人間に例えるなら、それは餓死でしょうな」

「が、餓死ですか!?」

 教授は黒板にチョークで円を描いた。どうやら太陽のようだ。チョークでコンコンと黒板を叩きながら教授が説明を続ける。

「キミたちも知っての通り、太陽は核融合によって輝いている。まぁ要するに、太陽は自らエネルギーを生み出しているわけですな。その、エネルギーを生み出す行為。それが出来なくなった時、太陽は死んでしまうと。それは人間に例えると、餓死に近い状態というわけですな」

「先生! 仮に太陽が餓死してしまったら、僕たち人類はどうなりますか!?」

「そりゃあ生きていけんでしょうな。なにせマイナス200度の極寒地獄ですから」

「そ、即死ですか!?」

「キミは、光の速度をご存知かな?」

「ハイ!」

「どれくらいかね」

「分かりません!」

 教室がどっと沸く。今までで最大のウケだ。きっと日野ひかりも白い歯を見せているに違いない。真壁健一は心の中でガッツポーズをした。

「光の速度は、およそ秒速30万キロメートル。1秒で地球を7周半するスピードなんですな。では、太陽から地球までの距離はというと、およそ1億4960万キロメートル。この距離は、光の速度でも8分19秒かかる計算なわけです。つまり、いま我々が見ている太陽は、常に8分19秒前の太陽ということになる。言い方を変えればだ。仮に太陽が消滅したとしても、実際に我々が太陽の消滅を目の当たりにするまでに、8分19秒の猶予があるということですな」

「8分19秒の……猶予……」

「まぁもちろん、未来のことは誰にも分からない。太陽が何らかのアクシデントで寿命が尽きる前に死んでしまうことも充分にあり得るでしょうな」

 そこから教授にエンジンがかかり、もはや笑いというより真面目モードの雰囲気になってしまった。真壁健一もこれ以上の質問は講義の妨げになると判断して大人しく席につく。するとお返しとばかりに、今度は教授が真壁健一に質問をした。

「さてさて。キミはもし太陽が消滅した時、8分19秒の間に、いったい何をしたいかね?」


×  ×  ×


 国道では車がうなるように疾走し、その通り沿いを学生が列になって歩いている。

 そんな彼らをごぼう抜きにしながら、真壁健一は全力で走っていた。駅から大学までの道のりは、地図アプリにいわせるとおよそ1キロメートル。徒歩で約14分だそうだ。辺り一帯は新興住宅地で、大学の他にはこれといって目ぼしい建物は無い。

 真壁健一は恐るべき緊張をもって腕時計を見た。10時35分過ぎ。仮に太陽の消滅が10時30分で、その恐怖が8分19秒後に訪れるのであれば、もはや人類に残された時間は3分ちょっとしかない。

 真壁健一は走りながら例の教授の質問を思い出していた。人生最期の時、自分は何をしたいのか。あの授業の最中、自分が教授に何と答えたか。それはよく憶えていない。しかし今日、地下鉄のサイネージに太陽の消滅の一報が流れた時、ようやくその答えが出た。真っ先に頭に浮かんだのは家族の顔ではない。日野ひかりの顔だった。太陽が消え、全てが凍り、死の星と化した地球。そんな映像を掻き消すように、日野ひかりの笑顔が頭に浮かんだのだ。

 どうせ死ぬなら、惚れたあの子に想いを伝えたい。今の真壁健一にはそれしかなかった。その目的のためだけに神経は研ぎ澄まされナイフのように鋭かった。

 ようやく直進路が終わり、大学へ続く坂に差し掛かった。真壁健一は駆け上りながら、太陽が愚かな自分を責めているような気がした。

 太陽は永遠だと思っていた。いつも明日がやって来ると。大学に入ったのも何となくだった。勉強が好きなわけでも、特別な研究がしたかったわけでもない。友達もおらず、退学しようかとも考えた。そんな苦しい時に出会ったのが日野ひかりだった。一目惚れだった。なのに何もしない。美術館の絵画よろしく、手で触れてはいけないと勝手に思い込み、遠くから鑑賞するだけ。そんな意気地なしの自分を、太陽の光が責めているような気がしたのだ。

 坂を上りきると、正門を抜けて大学に入った。いつもの花と緑のゲートが今は鬱陶しい。自然豊かで木々が生い茂っているため、一見すると緑の迷路のようである。

 メインストリートを蛇行しながら進んでいって、芝生の中央広場に出た。真壁健一はようやくそこで足を止めると、辺りを見渡して日野ひかりを探した。この時間ならば、もうじき彼女はここへやって来るはず。真壁健一には勝算があった。1限の授業に出席した彼女は、次の2限の授業のために中央広場を通るはずだと――。

「――あっ!」

 これが恋の力か。真壁健一の読みはピッタリだった。日野ひかりと、いつも一緒にいる女友達の白川さんがこちらに向かって歩いて来る。もはや残された時間はあとわずか。今さらタイミングがとか言い訳を考えている暇はない。真壁健一は日野ひかりの眼前に飛び出して立ちはだかった。

「アノ、もう、時間が無いんで、気持ちだけ、伝えます!」

 目を丸くする彼女たちを前に、真壁健一はまるで新郎新婦が手を取り合うように日野ひかりの手を掴むと、真っ直ぐ眼を見て告白した。

「僕は、あなたのことが、好きです! 初めて見た時から!」

 真壁健一は涙ぐみながら天を仰いだ。

「たとえ! あの太陽が! なくなっても! あなたへの愛は! 不変です!」

 日野ひかりと白川さんは互いの顔を見合わせた。

「太陽? 太陽って、もしかして、これのこと?」

 白川さんは何か感じるものがあったのか、ふとスマートフォンを取り出すと、真壁健一に画面を見せた。それは何かのサイトでこんなことが書かれていた。

「ハロウィン実行委員会が電波ジャック! 10月31日に『太陽が消滅した』という緊急速報を流しちゃいます!」

 補足説明を始めた白川さんの話では、なんでも今日、全国各地で行われるハロウィンイベントを盛り上げようと、地下鉄などの公共機関からSNSに至るまで大々的な宣伝が行われているという。それは何日も前から世間的に告知されていたことらしいのだが、友達もおらず世間のことに疎い真壁健一は知らずにいたというわけだった。

 安堵と羞恥が同時に襲う真壁健一を前に、白川さんはクスクスと笑った。そんな彼女を後目に日野ひかりが真壁健一の表情を窺う。まだあなたの話の続きを聞く用意がある。そんな眼をして――。

 やにわに空が暗くなりキャンパスが漆黒に包まれたのは、それから間もなくのことだった。