小説

『隣人のさくら』柊きりこ(『はなさかじいさん』)

 稲穂がさわさわと風に揺れる音がする。重そうに垂れた穂先を眺めながら、今日の農作業の段取りを考えていると、隣の家の玄関が開く音がした。私はそちらを見ないようにしてそそくさと自宅へ戻った。


 住人のほとんどが高齢者の、山間の小さな農村で妻と二人暮らし。子宝には恵まれなかったが、それでも夫婦二人でいくつかの畑を持って、慎ましく暮らしている。顔の皺が増えてゆく以外はほとんど変化のない日々だ。   

 隣の夫婦も同じく子供の居ない農家で、特別親しいわけではないが時々野菜をお裾分けし合うなど小さな交流を持つ、良き「お隣さん」であったと思う。

 私たちの関係が少しずつ変わり始めたのは、隣の春田夫妻が犬を飼い始めてからだ。


 真っ白い毛並みの中型くらいの犬だ。ある日ちょうど我々の家の前で衰弱した様子で横たわっていたのを、たまたま我々の妻たちが見つけた。

 弱ったその犬のことを私は放っておけばよいと思ったが、春田夫妻は飼い主が見つかるまで保護すると決めた。しかししばらく経っても飼い主は見つからず、結局飼うことに決めたらしい。老人二人で犬を飼うなんて、と私には理解できなかった。

 シロと名付けられたその犬が来てからというもの、隣の家からは犬の鳴き声とともに夫婦の楽しげな笑い声が聞こえるようになった。静かだった集落の中で、隣の家にだけ賑やかさが溢れ出したのだ。私はそれが面白くなかった。


「朝ごはん、早くたべな」

 妻に促されて食卓につく。焼き魚の香りとみそ汁の湯気が漂っている。それらを二人で黙々と食べていると、外から犬の鳴き声と夫婦の話し声が聞こえてくる。

「うるせぇなぁ、まったく」

 魚の骨を箸で除けながら呟く。独り言だと思ったのか、妻は返事もせずに味噌汁を啜った。

 妻は名前のキヨという。ハタチで嫁に来たキヨは、器量がよく、少し気が強いが、花が咲くように笑う娘だった。

今ではすっかり腰の曲がった白髪の老婆だ。畑仕事で手は荒れ、着飾ることもなく、会話と言えば小さな文句が一つ二つ出るくらいで、あとは事務的なやり取りばかり。最後に笑顔を見たのは、一体いつのことだったろうか。


 この年は雨が少なかったせいか、集落全体で農作物が不作となった。そんな中でなぜだか春田さんの畑は例年通りかそれ以上の豊作になった。他の農家たちともその原因を考えたが結論は出ず、当の春田さんも首を傾げていた。

 さらにはそれ以来春田さんの畑では天候や獣の被害などにも影響されることなく、十分な収穫量で質の高い作物が採れるようになったのだ。

 高齢化と共に年々全体的に収穫量が落ちている集落内で、春田家だけがどんどん豊かになっていく。どうしても沸々と煮えた感情が湧き上がって仕方なかった。
 我が家の食卓には売り物にならなかった萎びた野菜の料理が並ぶ。目の前で無表情のキヨがもそもそと煮物を口に運ぶ。ある夜キヨが寝静まった後、私は家を抜け出した。


 翌日春田さんの畑の前で、春田夫妻を中心にして集落の人たちが深刻な様子で何か話していた。

「おや、どうかしたんですか」

 「秋山さん、見てくださいよこれ」

 収穫前の春田さんの畑が掘り返されて荒らされている。

 「いやぁ、これはひどい」

 「動物の仕業かねぇ。それにしては掘り返し方が……」

 人為的なものでは、という疑いの色が皆の顔に滲んでいる。しかし集落内は全員顔見知り。犯人捜しなどはしづらい雰囲気があった。

 春田夫妻はひどくショックを受け様子だった。連れられていたシロが私を振り返り、ウゥ、と小さく唸った。

 「とにかく、私たちも害獣用の罠を増やした方がいいかもしれませんな」

 私はそれだけ言い残して春田さんの畑を後にした。


 春田さんの荒らされた畑はすぐに持ち直し、さらに別の畑の方で十分に収穫量は確保できているようだった。

 夫妻の幸運はさらに続いた。長年膝が悪かった春田さん、そして数年前に病気が見つかり通院を続けていた奥さん。その二人の体調がすっかり良くなっていったのだ。楽しそうに、朗らかな笑顔で、シロと戯れる春田夫妻の姿が、毎日毎日、私の心を圧迫していく。

 一体なんだっていうのだ。隣同士で、同じだと思っていたのに。なぜ春田さんばかりがこうも幸運に恵まれるのだ。同じ集落で同じように農業を生業にし、同じく子供がおらず、夫婦二人で静かに暮らしていた。ずっと。ずっとだ。

 腹の底の方で、黒くてどろどろした感情が蓄積し、腐敗していくようだった。その腐敗した感情が、口から、目から、鼻から、耳から、溢れ出してそうだ。食いしばった歯がギリッと軋んだ音がした。


 ある朝、目が覚めるといつもは先に起きて朝食を用意しているはずのキヨがいない。珍しく寝坊しているのかと寝室を覗くとまだ布団の中に居た。

「キヨ」と呼び掛けると、ぬるりと布団から出したの顔を見て、思わずハッとした。ひどい顔色だ。

 私は急いでキヨを病院に連れて行った。数年ぶりの大寒波で風邪を拗らせたらしかった。

 それが何かの引き金になったのか、キヨはその日から体調不良で起き上がれないことが増えた。転がり落ちるようにみるみる衰弱していく。

 二人でやっていた畑仕事も私が一人で行い、起きられないキヨの代わりに家事をし、看病をする。自分自身も立派な老人。当然かなり堪える。かちかちに凝り固まった肩に、何か重たいものがのしかかる。


 わん! わん!

「わぁ、なんだこれは!」

 庭の物干しに洗濯物を干していると、春田夫妻とシロが庭に出ているのが見えた。うちの庭との間にある塀のそばに大きな桜の木があって、その木の周りでシロが跳ね回っている。その傍らで春田さんが何やら地面を掘り起こしていたようだった。

 ひょいと覗き込んでみると、土の中からたいそう古そうな壺を持ち上げているのが見えた。

 「なんだい、そりゃあ」

 思わず声をかけると壺の土を払いながら春田さんが振り向いた。

 「あぁ、秋山さん。シロがしきりにここを掘ろうとするもんで、掘ってみたらこんなものが」

 春田さんの持ち上げた壺の中身を覗いて、思わずぎょっとした。壺に中にびっしりと詰まっていたのはどうやら小判のようだ。まさかそんな作り話みたいなことが起こるなんて。信じられないが目の前でそれが起こっている。

 「この土地は代々うちの家系が継いできたから、先祖の誰かが埋めたんだろうけどね。いやぁ、驚いた」

 春田夫妻も信じられない様子だった。私はしばらく呆気に取られていたが、次第に憤懣が湧いてきた。また隣ばかりがいい思いをした。私だって毎日働いて、キヨの看病をしながら家のこともして、頑張っているのに報われない。羨ましい、妬ましい、悔しい、もどかしい。

 ふらふらと自宅に戻って台所の椅子に腰かける。強く握りすぎた掌に爪の跡が付いていた。

 わん! わん!

 またシロの鳴き声が聞こえる。

 そうだ、犬だ。あの犬に何か特別な力があるのではないか。うちの庭もあの犬に掘らせたら、何か出てくるんじゃないか。そうだ。あの犬を見つけた時、うちのキヨだって一緒に居たんだ。万が一、春田夫妻の幸運があの犬がもたらしたものだとしたら、うちにだって何かしらの恩恵があるべきじゃないか。


 その日の深夜、私は隣の庭に忍び込んだ。玄関先に繋がれているシロの鎖を引っ張るとシロは抵抗したが、強引に引きずってうちの庭に連れ込んだ。

 「おい犬っころ、うちの庭でも小判を掘れ!」

 動こうとしないシロの尻を蹴り上げて急き立てると、キャン、と小さく悲鳴を上げた。蹴られたことで怯んだのか、おずおずと地面を匂いを嗅ぎながら庭を歩き始めた。しかしただ歩き回るだけで、何の兆候も見せない。勝手に連れ出していることがバレたらまずい。後ろめたさと焦りで、苛立ちが募る。

 「おい、早くしろ!」と声を抑えながらもきつく急かすと、シロは庭の隅の一部をカリカリと前足で搔き始めた。

 「お、そこか!」

 急いで農具倉庫にあったシャベルでその部分を掘り起こす。ザッザッと掘っていくと、土とは違う感触があった。私は高揚し、シャベルを半ば投げるようにして、逸る気持ちで素手で土をかき出した。
 しかし出てきたのは錆びた空き缶やら鉄くずの塊。小判どころかゴミばかりだった。

 「この野郎、馬鹿にしてるのか!」

犬にまでコケにされたような気がして、カッと血が上った。さっき放り投げたシャベルを掴み、ほとんど無意識のうちに力任せに振り下ろした。


 翌朝、隣の家から春田夫妻の悲鳴が聞こえた。少し経ってからこっそり窓を開けて覗くと、布に包まれた何かを抱いている春田夫妻が見えた。春田さんは先日小判が出てきた桜の木の根元に、布にくるまれたものを埋めた。「ごめんな。ごめんな」という声が微かに聞こえた。

 私は悪くない。私は悪くない。あいつが悪いんだ。私は悪くない。何度もそう頭の中で繰り返した。

 

 その後、キヨは完全に寝たきりになった。食事もままならなくなり、一日の大半を眠るようになった。私は仕事とキヨの介護で疲弊していった。

 春田夫妻は私に何も言わないが、薄々気づいているのだろうと思う。交流も全くなった。仕事の時も出くわさないよう私が意図して避けている。春田夫妻のその後の暮らしは分からないが、春田家も我が家も、同じくらい暗い雰囲気をまとうようになった気がする。

 キヨは厳しい冬を辛うじて超えることができたが、その命の炎はほんの一吹きで消えそうなほどに弱っている。

 ほぼ骨と皮だけのようになった体を支えて水を飲ませる。キヨはうまく飲み込めずに弱々しくむせた。ほとんどの時間を眠っているから、カーテンは閉め切っている。昼間でも薄暗いこの部屋で弱り切ったキヨを前にしていると、なんだか体ごと闇に飲み込まれていくような感覚に陥る。

「まどを、あけて」

 息も絶え絶えな中、絞り出すように掠れた声でキヨがそう訴えた。その声ではっとして、「あ、あぁ」と立ち上がりカーテンを開けた。

 強烈な光が差し込んで、ぶわぁっと部屋中に広がる。眩しくて一瞬目がくらみ、日の温かさをじんわりと感じた。キヨが小さく微笑んで呟く。

 「……きれい」

 その言葉に促されるように窓の外に目をやると、私は思わず息をのんだ。

 もう何年も花をつけていなかった隣の家の老いた桜の木が、満開の花を咲かせていた。まるでそれはこの世の全ての憎しみも悲しみも絶望も、全て包んで許してくれそうなほど優しく見えた。

 キヨはそのまま目を閉じて、静かに眠った。微かにあった吐息ももう聞こえない。穏やかに、まるでこれが幸福な人生だったかのような微笑みを携えて。

 私は泣いた。おいおいと声を上げて泣いた。私が間違っていたのだ。全て私だけが間違いだったのだ。大事なものは目の前にあったのに、なぜその塀の向こうばかりを見ていたのか。キヨはそんな私をどんな目で見ていたろうか。思い出せない。だって私はキヨを見ていなかったのだから。

 桜の花びらが風に吹かれてさらさらと散る。

 心の中に溜まっていた黒い感情がぽろぽろ剝がれていくように、はらはらと涙が流れた。

 「すなまい。すまなかった。本当にすまない」

 私は私のこれまで行った全ての所業を悔いて、ひたすらに泣いて謝罪した。

 やがて涙と声が枯れてきた頃、キヨが横たわる布団を整えて部屋を出た。力の入らない身体を引きずって、隣の家を訪ねた。私は全てを話した。キヨのこと、シロのこと、私の行った全てのこと、嫉妬も悲しみも全て。額を地べたに擦りつけて謝罪した。到底赦されるはずは無いことは分かっていたが心の底から詫びた。

「一つだけ、お願いしたいことがあります」

 身勝手ながら申し出た私の願いを、春田夫妻はしばらく悩んだ後に聞き入れてくれた。


 それから私は毎日桜の木の前に膝をつき、手を合わせた。シロへの謝罪、春田夫妻への謝罪、キヨへの謝罪、それら全てへの後悔を心の中で繰り返した。そして、キヨの最期に笑顔をくれたことに感謝を述べた。

 私は毎日手を合わせ続けた。桜の花が散り、葉桜になっても。日差しが強まり蝉がわめいても。また葉が枯れて風が冷え、白い雪が降り積もっても。

 自己満足かもしれなかった。それでも何もせずには居られなかった。

 そして降り積もった雪が解け、また柔らかな日差しが照らすようになった頃、桜の木はまた花をつけたのだった。

 今日もまた桜の木の前で手を合わせる。ふと見上げると、優しい風が吹いて、はらはらと風に乗った花びらが私の頬にそっと触れた。