小説

『だいだらぼっちの色鉛筆』骨谷そら(『民話だいだらぼっち』)

 高層マンションで暮らせることになったと思ったら、だいだらぼっちが中庭へやって来た。中庭は庭師によって完璧に手入れされ、季節の花が咲き誇り、座る人の視線が交差しないように配慮してベンチが置かれている。ロビーには金盤の案内図がかけてあって、記載のベンチ3と4の狭間に、だいだらぼっちはいつのまにか立っていた。


 登場した時、それの身長は小学三年生くらいだった。伝承に聞くような巨人では、決してなかった。では何故だいだらぼっちと分かったかと言うと、胸元に名札をつけていたのだ。ビニール製の名札はヒヨコのように明るい黄色で、名前が筆ペンで書き込まれていた。

「だいだら」と「ぼっち」の間に僅かな空白が空いているのは、姓と名の区別のつもりかもしれない。


 だいだらぼっちは初めのうち、ピクリとも動かなかった。昔話によれば、彼らは汚れた足を洗ったり猪を煮たらしい。けれどもこのだいだらぼっちは、いつ見ても顔の角度が一定だ。水平線のあたりを、睨むように凝視していた。


 私は、オーナーの気まぐれで現代アートの像が置かれたのだと思った。だいだらぼっちの全身は黒蜜を溶かした寒天のように透き通り、太陽を浴びるとキラキラと血管を光らせた。その様子は、美しいと言ってよかった。


 だいだらぼっちの存在はすぐに日常へ溶け込んだ。通勤や買い物でそれの前を通り過ぎても、私は意識を向けなくなった。マンションの住民も同じだったらしい。誰からも抗議の声はあがらなかった。レモングラスが植えられただけで、蛾が卵を産んだらどうしてくれると即日撤去を求める神経質な人たちが、今回は静かにしていた。


 だから、だいだらぼっちが話しかけてきた時、心底びっくりしてしまった。私はひとりきりでベンチ4に座っていた。満月の夜中だった。1時間前に飛び出してきた部屋の窓を探そうと見上げても、ビルが高すぎてちっとも分からない。一緒に住んでいる男は追いかけてくるどころか、私のために動こうともしなかった。鳴らない携帯電話やいつも通り更新される彼のSNSが、1秒ごとに心を削っていった。削りかすは粉雪みたいに降り積もり、コップいっぱいになったところでようやく涙が出てきた。


 オムレツみたいな月を眺めていたら、涙はころころと頬を流れて止まらなかった。すると、左側から「そんなに泣かないでよ」と話しかけられた。懐かしい声だ。けれども、2度と聞くはずのない声だったから、気のせいだろうと無視した。


 泣くなと言われたことに反発するように、わんわんと声をあげて泣いた。缶ビールと本を抱えた女が、怯えたように踵を返して去った。

「あいかわらず頑固だなあ、みどりんは」

 今度こそはっきり聞こえた。幻聴ではない。私をそう呼ぶのはタツオだけだ。左を向くと、だいだらぼっちがユラユラと手を振っていた。


「タツオ?」

 心の奥に閉じ込めていた名前があっけなく転がり出た。

 だいだらぼっちは、こっくり頷いた。

「だいだらぼっちの像じゃなくて、ずっとタツオだったの」

「像ってのは、きみが思い込んでただけだろ。来た時から僕のままだよ」

「僕のままってなに」


 タツオはそれに答えなかった。私の疑いの目を感じたのか、腰のあたりをさぐっている。だいだらぼっちの胴体はしなやかに窪んだ。タツオの指の形に合わせて凹み、ぷるん、と弾力を持って戻った。


 タツオが取り出したのは、色鉛筆だった。灯りに透かすと、「あおみどり」と刻まれた色名が見えた。タツオはいつも絵を描いていた。

「きみが居なくなってから、緑色の画材を集めたよ。その気になって調べれば、信じられないほど沢山のみどりが存在した。若芽色、薄柳、孔雀緑……」

 私はぎゅっと瞼を閉じた。去った私の代わりに、彼に寄り添ったみどり達のことを思った。

「その緑で、どんな絵を描いたの」

タツオはささやいた。

「竜だよ。竜が街の迷路を抜けて、じぶんの炎と空を見つけるストーリーさ。そこでは、道路、壁、星、何もかも緑なんだ。グラデーションで作った世界はとても優しくて、」


 語尾は掠れ、やがて消え、タツオは像に戻った。肩をつつくと、冷えた感触が当たり前に返った。タツオは私の手のひらに色鉛筆を残していった。あおみどり、の文字だけが、夢ではない証拠だ。


 部屋に戻ると、あっけなく受け入れられた。簡単に許されるということは、最初からなにも許されていないのと同じだ。優しいのではなく、私に分け与える感情が無い恋人の、つるつるした横顔を眺めた。この男の無機質なスマートさに惹かれて、振り切るようにタツオと別れた自分は、なんの熱に浮かされていたのだろう。


 だいだらぼっちは、見ないように努めていた歪みに気づかせた。窓から見える遥かな夜景や甘いお酒は、今では私をひややかに拒絶した。


 たまらなくなり、次の晩もタツオに会いに行った。タツオだって私に会いたいはずだと思った。しかし、すでに先客がいたのである。ベンチ4にはスーツ姿の男が座り、だいだらぼっちの方へ体を傾けて熱心に囁きかけていた。


 私はベンチ3に座り、会話を盗み聞きしようとした。タツオに用がある人間が他にいるのが意外だった。

「なあ、本当にごめん。お父さんが悪かったよ。振り込んだお金は、当然おまえのために使われているんだと思ってた。連絡しないと約束させられたんだよ」

 彼の言葉にだいだらぼっちがなにやら返事をしているようだが、声が細くて聞き取れない。

「大事な娘を忘れて、呑気に幸せに暮らせるはずがないだろ」


 なだめるような調子に、思わず割って入ってしまった。

「ちょっと、タツオに向かってなにを言っているんですか。娘って……これは、三十過ぎの男性ですよ」

 相手はポカンとしたのちに反論した。

「何を言うとは、こちらのセリフですよ。娘のゆきが、だいだらぼっちになって会いに来ているんです。二人の時間を邪魔しないでくれませんか」


 私は、青緑の色鉛筆を取り出した。

「昨日の夜、タツオがこれをくれました」

 男は、だいだらぼっちの足の付け根を指さした。

「ほら、ここに痣があるだろう。ゆきには生まれつき痣があるんだよ」

私は負けじと、だいだらぼっちの耳たぶを示した。

「タツオは左の耳たぶが割れていたの。これは幸運のしるしだって自慢してた」


 するとそこへ、ベレー帽を被った女性がやって来て叫んだ。

「あたしのみっちゃんに、ベタベタ触らないでよ!」

 思わず顔を見合わせて黙り込んだ私達に、だいだらぼっちがうーん、と唸った。

 タツオの声だった。

「だいだらぼっちだもの、誰にでもなれるし、誰でもないよ。そんなことで、争わないでよ」

それだけ言うと、だいだらぼっちは口を閉ざした。取り残された3人は、そのまま別れた。


 次にだいだらぼっちに会った時には、タツオだったので安心した。

「タツオは今も、絵を続けているんでしょう」

「うん、今度、個展を開くよ」

 タツオが告げた会場は、昔から彼が、いつか此処で展示したいと言っていた場所だった。

「夢をかなえたんだね」

タツオは照れくさそうに笑った。

「見に行ってもいい?」

「うーん、それは……」


タツオは口ごもり、話題を変えた。

「そろそろ、姿を消そうと思う。僕がと言うより、だいだらぼっちがね」

「どうして」

せっかく再会できたのに、すぐにいなくなってしまうなんて。

「潮時なんだよ」

「どういう意味?」

「僕の正体に気づいて、憎む住民が出てきた」

「憎まれるような事、していないでしょ」

「自分の過去や後悔と、向き合える人ばかりじゃないんだよ」

「でも、」

 私は言葉を飲み込んだ。行かないで、と言える立場ではないのだ。行くなと叫んだタツオを無視したのは私なのだから。


 それから1週間ほど経ったが、だいだらぼっちは変わらずそこにいた。タツオの考えすぎだったのだろうと思い始めたある夜に、火災報知器の音で目が覚めた。慌てて飛び起きたが、部屋のどこにも煙は見えない。


 リビングでは恋人が、窓から身を乗り出していた。

「中庭が燃えているよ」

 近くへ行き見下ろすと、恋人の言うとおり中庭のあたりに炎が広がっていた。タツオが燃えてしまうかもしれないという恐怖が、ひたひたと押し寄せてきた。

「消防車を呼ばないと」

「よせよ、みっともない」

 恋人は私の手首を強く掴んだ。私が携帯電話を取り落としても、彼は気づかなかった。中庭を覆う炎がマンションの窓ガラスに反射して増幅し、恋人の瞳の中で踊った。

「コンシェルジュが片付けてくれるさ」


 今までにないくらい、恋人は楽しそうだった。私と居る時には、見たこともない表情で、2回、3回と彼は手を打ち鳴らした。


 私は部屋を出て、非常階段を駆け降りた。

 中庭では、消火活動が始まっていて、白い噴射が辺りを濡らし、近づこうとしても遮られた。サイレンと喧騒で、だいだらぼっちはどうなったんですか、と尋ねる私の声などかき消された。


 その時、まるで流れ星が逆噴射されたように、炎の球が空へと昇っていった。長く尾を引き、それは巨大な人の形に変わった。巨人は何度か屈伸すると、さよなら、と言うように手を振った。消防隊も野次馬も動きを止め、思わず見惚れた。


 だいだらぼっちが、真の姿を現したのだ。それが別の場所に行くことを望んだ時、止められる者などいない。だいだらぼっちは、怒っても悲しんでもいないようだった。どちらかというと楽しそうな足取りで、のし、のし、と雲の上を歩いていった。


 だいだらぼっちが姿を消すと、中庭は鎮火していた。焦げたはずの樹木やベンチは、不思議ときれいなままだった。消防士は何のために自分たちが派遣されたのか分からなくなり、しらけた表情でホースをしまい撤収を始めた。


 だいだらぼっちが去った以外は、何もかもが無事だったことに、恋人がどんな反応を示すのか、想像すると恐ろしかった。今度はもう、あの部屋には戻れないと知っていた。


 私は港へ足を向けた。潮風が髪を撫で、ざらざらした気持ちを落ち着けた。自慢できる暮らしは失ったが、今ならどこへでも行ける。ポケットから、ダイレクトメールを取り出した。タツオの個展の案内だ。昨晩、ポストに投げ込まれていたのである。まるで旅立ちの挨拶みたいに。


 葉書はあざやかな緑に彩られていた。

 まずはこれを見にいこう。

 タツオが許してくれても、そうでなくても、そこから私の一歩が始まる。


 目を閉じれば、だいだらぼっちの大きな背中が見えた。

 明日にはどこかで誰かが、見知らぬ像の出現に気づくだろう。

 律儀につけた名札には、だいだらぼっち、と几帳面な文字で書いてあるはずだ。