小説

『フライ』太田純平(『蠅』)

 飛行機というやつには初めて乗った。巨大な人間さまが行儀よく座っている。目をつぶっているから大半は寝ているのではないか。就寝モードなのか照明は薄暗い。夜に寝て昼に活動する。人間なんて所詮は我々ハエと一緒だ。

 機内をひとっ飛びしてまた例の男の元へ戻って来る。彼はタメ息ばかり吐く猫背の青年で、搭乗口から背中にひっついてきた。何をそんなに憂えているのか理由が知りたくなったのだ。

 青年は夏なのに上着も脱がずダークスーツで決めている。ビジネスかあるいは就職活動か。まぁこの際ワケはどうでもいいだろう。都心から西に向かって飛んでいる。ただそれだけのこと。

 客室の通路に女が現れた。客室乗務員――キャビンアテンダント――噛みそうなのでCAでいくが、何人かいるCAのうち、ひときわ若い女である。彼女は寝静まった乗客の様子を気にしながらゆっくりと歩いて来る。黒を基調した制服にカラフルなスカーフを首に巻いて。女に気付いた青年は途端に居住まいを正した。それで分かった。この男はあの女に恋をしている。

 CAが青年の脇を通る。だが男は声を掛けない。惚れた女が寄って来たのに、ラックから機内誌を取ってすぐにまた戻してやがる。

 こりゃダメだ、ってんで俺が動く。この冴えないオスのために俺さまが一肌脱いでやろうというわけだ。俺は脚を休めていた収納棚から飛び立つと、青年の顔の前をかすめて、例のCAの肩に止まった。

「あっ」

 しんと静まり返った機内に青年の声が漏れる。通り過ぎたCAが男を気にして振り返る。

「あ、あの――」

 青年はおずおずと立ち上がると、俺の動向に注意を払いながら女に告げた。

「か、か、肩に――」

 CAは男の視線を頼りに自らの左肩に目をやった。

「きゃっ」

 女が拒否反応を示して体をそり返す。俺は咄嗟に上空へ逃げた。男は俺を仇敵と定め、眼で追いながら自席のラックに手を伸ばした。挟まっていた機内誌を丸め、対昆虫用の武器に仕立て上げる。僕がやっつけますという彼の意思表示。それを認めるや否や、CAはか弱い乙女から職業人に戻った。

「私が対応しますから、どうぞお客様はお席のほうに――」

 女に言われ男は大人しく席についた。それでも俺を気にして臨戦態勢をとる。

 女はというと、狭いキッチンみたいなところ――搭乗時に「ギャレー」といっていたから多分ギャレーというんだろう、そちらのほうへ去っていった。

 まぁ第一段階クリアといったところか。何でもいいからコミュニケーションをとる。求愛の第一歩である。所詮は人間もハエと一緒だ。

 しばらくしてCAが通路に戻って来た。何やら手に持っている。男が女に気付いて彫刻のように固まる。これじゃあダメだとまた俺の出番。俺は思案した挙句、今度は男の飲み物に狙いを定めた。これみよがしに紙コップの縁に止まって羽を休める。池のように広がる黒い液体は多分コーヒーだろう。石化した男は座席のヘッドカバーを見つめるばかりで俺が目に入らない。

 CAが男の横を通る。その刹那、女は男にこれを用意しましたとばかりに何やらランプのようなものを見せた。状況的に考えれば俺を撃退する兵器か何かだろう。

「あっ」

 今度は女が声を出した。どうやら紙コップに止まった俺に気付いたらしい。男が女の視線の先を追う。

「あっ」

 男も俺に気付いた。俺はやれやれと吐息を漏らして飛翔する。すると男は咄嗟に中腰になって、両手でパチンとやってやるぞと殺気立った。女は「新しいものをお持ちします」と小さく言って、またギャレーのほうへ戻っていく。

 俺はいよいよこの青年にも自発的な行動を起こさせるべく、女が消えたほうへ彼を誘導した。俺を討たんとするやつはまんまと俺におびき寄せられる。丸めた機内誌を持って。やつの射程距離に入らないよう、男をギャレーの中まで誘導する。

「あっ」

 まんまとギャレーに入った男は思わず声を上げた。女は彼のためにコーヒーを入れているところだった。男は俺を追うことに夢中で女がいることを想定していなかったのか、まるで彼女の着替えを覗いてしまったかのようにその場でおろおろした。

「れ、例のハエが、こ、こちらに――」

 言い訳がましく男がいた。女は気にした様子もなく「いました?」と返す。

「え、えぇ、たったいま――」

 女は出来たコーヒーをカウンターに置いて、男に新兵器を見せた。

「これを使おうと思って――」

「そ、そちらは?」

「殺虫器です」

「サッチュウキ?」

「えぇ。虫が光に集まる習性を利用して、電気の力で殺虫するそうです。強烈な光を放つんですが、電池式なのでコンセントも不要で――」

「へ、へぇ、そんなのもあるんですねぇ」

 ふ~ん殺虫器ね。了解。近づかないようにするわ。全く人間ってやつは恐ろしいことを考える。

 その殺虫器やら俺の話やらで会話に花が咲く。機内は細心の注意を払ってはいるが、どうしても蚊やハエなどが侵入してしまうことはある。乗客は寝ているし、殺虫剤を撒くわけにもいかないから、対応はなかなか難しい。だからこの殺虫器を導入した。まぁそんな話だ。逆に言えば、そればっかり。色恋の話が一切出ない。バカ野郎。せっかく二人きりなのに。ここで機内が揺れてお互い抱き合いでもしたらロマンチ――

「きゃっ」

 ガクンという衝撃と女の悲鳴。本当に機内が揺れた。マジかよ。神の力か。それとも乱気流か。

 衝撃は大きく、倒れてきた青年を女が受け止める形で二人が抱き合う。が、それも束の間。すぐに男が慌てて女から離れる。普通、逆だろっての。

「ご、ごめんなさい」

 男の謝罪。女は男を気遣う。

「大丈夫ですか?」

「え、えぇ……あっ」

 男はようやくズボンの異変に目がいった。カウンターに置いていたコーヒーが波打ち、少しだけ男の脚にかかってしまったのだ。

「ごめんなさい、私の置き方が――」

 そう言うが早いか女は棚からタオルを取り出し、男の脚を拭いてやった。

「だだだ大丈夫ですから、ほほほホントに――」

 男が慌てて女からタオルを取ろうとする。その譲り合いというか綱引きの結果、男と女の手が一瞬触れ合った。

「あっ」

 静電気を帯びたように男が咄嗟に手を引く。だから普通、逆だろうっての。

 一秒か、二秒か。気まずい沈黙。だがこれがオスとメスの間合い。

 すると女は不意に他の乗客からの呼び出しがあったのか、失礼しますと言ってギャレーを後にした。男は壊れたししおどしみたいに延々と脚を拭いている。今の彼は暴走機関車だ。俺たちハエもオスがメスに触れると脳の細胞が興奮して求愛行動の引き金になる。やはり人間はハエと同じだ。

 ふと別のCAがギャレーに入って来て、ようやく青年は我に返った。ギョッとしているCAを後目に、男はバツが悪そうに謎の会釈を繰り返しながらギャレーを飛び出していった。

 男が座席に戻ってくる。客室は少しどよめいていた。さっきの衝撃で多くの乗客が目を覚ましてしまったのだ。中には「着いた?」なんて寝ぼけているやつもいる。さっきの衝撃は何なのか。ちゃんと目的地に着くのか。起きてしまったから寝酒にワインを持って来てくれ。そんな客の質問や要望に、二人のCAが立ち向かっている。だが例の女はこの客室にはいない。

 青年はそれに気付いたとみえ、席についたばかりなのにすぐさま立ち上がった。おっ、これはきっとあの女を探しに行くんだな。そう思って彼について行ったのだが、結果的にはただの便所だった。もちろん釣られて俺も便所に入ったが。

 男は便所の中で鏡を見た。おっと俺も映っちゃうなと警戒したが、今の彼に俺を見つける余裕は無さそうだ。

 男は両手を水で濡らすと、下ろしていた短髪の前髪をグイッと掻き上げた。鏡に向かってニィと笑顔の練習をする。両手にハァと息を吹きかけ口臭をチェックする。

 俺たちオスもよくこういうことをやるから気持ちは分かる。

 カッコつけを済ませ男が便所から出て行く。すると――

「あっ」

 目の前に例のCAがいた。これはラッキー。たまたま鉢合わせた二人の視線が交差する。が、その刹那、女は男を拒否するように機内前方のほうへ消えた。男がその背中を茫然と見送る。あちゃあ、こりゃダメだ。さては他の客室にもっと良い男を見つけたな。

 男はさっき便所で作ったスマイルはどこへやら、顔に死相を漂わせてふらふらと通路を彷徨った。

 俺はどうするか中空で迷った末、女の後を追うことにした。どこの馬の骨に捕まったのか見てみたい気がしたのだ。

 女は、青年のいた客室よりもずっと快適に過ごせそうなゆったりとした客室を抜けて、機内の最前線、コックピットの前までやって来た。扉の脇につけられた通話端末で、女が何やら報告している。

「いま見て来ました。やっぱり穴が開いていました」

 美しかった女の顔が歪んでいる。汗も滴っている。何かあったのだろうか。

「きゃっ」

 その事態の緊急性を示すように機内の照明がいきなり落ちた。非常時に灯るのか、小さな照明だけは点いているから真っ暗闇では無いが。

 女が怯えていると、コックピットから一人の男が出て来た。シメたと思ってコックピットの中に侵入してみる。俺を突き動かすのはいつだって好奇心だ。

「おぉ、これは……」

 俺は眼前に広がる光景に圧倒された。膨大な数の機器やスイッチに、ミラーの奥に広がる夜の雲間。せわしなく交信される無線に、いくつかの異なる警報音。室内には二人のパイロットがいて、専門用語が飛び交っている。「パワー」「ストール」「ライトターン」「プルアップ」「オールロス」――短いセンテンスがかろうじて聞き取れる。

 外を見てようやく気付いたが、どうやらこの飛行機はグイングインと横に揺れ不安定な飛行をしているようだ。

 俺たちハエは通常1秒間に200回羽ばたきをする。だから迫り来る脅威に対し、人間がまばたきするよりも速く体を傾け、進行方向を変えて一瞬で逃げることが出来る。だが、人間の作ったこの金属の塊はどうもそうはいかないらしい。

 と、さっき通路に出て行った男がコックピットに戻って来た。これ幸いと入れ違うように通路に出る。なにせこの部屋は密閉空間だから次にいつ出て行くチャンスが訪れるか分かったものじゃない。

 通路に出ると例のCAはすでにいなかった。まだそう遠くへは行っていないだろう。俺はとりあえずこの場を離れ客室に向かった。するとすぐにガコンとさっきよりも大きい衝撃が機内に伝わった。乗客たちは酸素マスクとやらを付け、CAを呼んだり、何やら遺書のようなものを書き始めたり、阿鼻叫喚といった様子だ。さっきまでの平和が嘘のようである。もうこうなると全てが好奇心の対象なのだが、俺はとりあえず例の青年のいた座席に戻って来た。

 不思議な光景だ。緊急着陸態勢というらしい。皆が同じ姿勢をとっている。身体を前のめりに傾け、一見するとストレッチでもしているようである。

 青年も同じ姿勢をとっていたが、やはりあの女が気になるのだろう。横目にチラチラと様子を窺っている。

 と、そこへ偶然あのCAが男の脇を通った。すると青年は覚悟を決めたように姿勢を解いて彼女の後を追った。俺は「よくやった」と褒めるように彼の背中にひっついた。

 男はギャレーで女に追いつき声を掛けた。女が振り向く。男が開口一番、核心をついた。

「この飛行機はもう……ダメなんですね」

 男の言葉に女は首を振った。

「大丈夫です。地上とは連絡が取れています。ただ、お知らせもなく緊急着陸する場合がありますので、どうかお客様は――」

 発言こそ力強いが女の瞳は死を覚悟し潤んでいる。男はそれを眼だけで感じ取る。そしてそれ以上の言葉を封じるように彼女を抱きしめた。女は抵抗しない。

「あなたに会うのは、初めてじゃないんです」

「……知っています」

 女も男の背中に手を回す。また機内に大きな衝撃が伝わる。ついに非常灯さえ消えた。普通なら立っていられないくらいだろうが、抱き合う二人はちょうどお互いを支え合うように微動だにしない。

 二人の出会いがどういうものだったか。そんなことは俺には分からない。だが最期に良いもん見せてもらったぜ。俺は祝福か哀悼か二人に向けて脚をすり合わせた。所詮は同じ動物だと思っていたが、人間とは実に儚い生き物である。

 俺は二人を残して静かに飛び去った。暗闇の通路に煌々と輝く光が見える。まるで走馬灯のような鮮やかな光だ。出口だろうか。俺は吸い寄せられるようにその光の中へ真っ直ぐ飛び込んでいった。