小説

『四鷲市公共施設カタツムリ』宮沢早紀(『かたつむり(童謡)』)

 斜向かいの席からガサガサと音が聞こえてくる。ああ、今日も始まったなと思いながら、岡田さんの動きを目で追った。晴れの日も雨の日も八時二十七分に出勤してくる岡田さんの仕事はブックスタンド、ノート、バインダー、ポケットファイル、紙の電話帳、カタログ、ペン立て、本といった机まわりのあらゆるものを駆使してオリジナルのバリケードを作るところから始まる。

 昨日は正面にあった電話帳が今日は右側に配置されており、日によってその作りは微妙に異なるが、抜群の安定感でもって岡田さんの手元とノートパソコンの画面を覆っている。毎日バリケードを作るのなら、そのままにして帰ればいいのにと思うのだが、岡田さんは一七時二十八分になるとバリケードの解体を始め、机の上をきれいにして十七時半に帰っていくのだった。

 公共施設課へ異動してから一週間、岡田さんの作るバリケードについてわかったこととしては、どうやら岡田さんは勤務中の机の上を人に見られるのが嫌で、それを隠すためにバリケードを作っているようだということ。勤務中はいつ見てもバリケードの中に潜り込むような姿勢で不自然なほど身を屈めて働いていた。


 僕が公共施設課へ着任した日、岡田さんは有給休暇を取っていて、岡田さんという名前も唯一いなかった人というので覚えることができた。異動の翌朝、挨拶に行くべきか思案しながら岡田さんの様子を伺っていたところ、モーニングルーティーンとも言えるバリケードの建設が始まり、僕は目を奪われていた。

「あれ、いつもだから気にしないでね」

 隣の席に書類を置きにきた人がこっそり教えてくれた。どんな仕事を担当している誰なのかは分からなかったが、僕はその人と同じ苦笑いを浮かべて小さく頷いた。頷きはしたけれど、こんなに不思議な人がいるのに気にしないなんてできるわけないじゃないか、と心の中で反発した。

 結局、岡田さんにはその日の終業時刻になる頃に「この度の異動で参りました、今井です。よろしくお願いします」という当たり障りと共に何の面白味もない挨拶をした。岡田さんは一瞬、驚いたような顔をしてから「岡田です。お願いします」と小声で言うと、足早に去っていった。岡田さんが逃げるように帰ったことをしばらくの間、僕は気にしていたのだが、その後、岡田さんを観察していると毎日、定時ぴったりに席を立ち、いそいそと執務室からいなくなるので、岡田さんは僕の振る舞いが気に障ったから急いでいなくなったわけではないのだと安心したのだった。


 異動から一週間たったある日、読んでいた引き継ぎ資料から顔を上げると、課長が岡田さんに声をかけているのが見えた。岡田さんはめんどくさそうに曲げていた背中をぐねりと起こし、不貞腐れた顔で話を聞いている。岡田さんの方が課長より年上とは言え、さすがに失礼すぎる態度だろうと思ったが、課長は表情を変えることもきつい口調になるようなこともなく、もうとっくに慣れているようだった。一ヵ月もしたら、僕も慣れるのだろうか。少なくとも着任から一週間が経ってもなお、僕は岡田さんの行動の一つ一つが気になって仕方がなかった。

「データ入力くらいしかやらせることがないのに、進捗報告してって言っても全然しないから、ああやって確認しにいってるの。ああいう人が部下だと大変だよね……」

 課長と岡田さんが席を外したタイミングで隣の席の小谷さんが教えてくれた。小谷さんは心の底から課長に同情しているようだった。確かに岡田さんのような部下は扱いにくいだろうとは思う。それよりも。それよりももっと別なことが僕は引っ掛かっていた。

 年齢不詳な岡田さんだが、職員番号から推測するに四十代後半だろうから、少なく見積もっても二十代の僕より二百万くらい年収が高いはずだ。それで簡単なデータ入力ばかり回ってくるなんて、そんなのイージーすぎる。最初に配属された部署はなかなかハードで割に合わないと感じていただけに、僕は岡田さんがうらやましくなってしまった。

 楽して稼ぎたい、そんな思いを持っている人はきっと僕だけではないはずだ。岡田さんのことを悪く言う人たちだって表に出さないだけで、あわよくばという思いは心のどこかにあると思うのだ。


 昼食は外で食べることにした。本格的に公共施設課の業務が始まれば四十五分しかない昼休みをめいっぱい休めるなんてこともないだろうから、せめて今のうちにランチを楽しんでやろうという思いだった。パスタを無心に食べているとパーティションごしに、やや興奮気味に展開される隣の席の会話が聞こえてきた。

「……あの状況で、ふつーに定時で上がっていったの許せないんだけど。ありえなくない?」

「マイやんお疲れ。やってらんないね。うちらより給料高いのにねー」

 なんだ、職場の愚痴かと思いながら、僕はアイスコーヒーを一口飲む。

「てか毎日、壁作ってるの意味不明すぎる。あんな壁作ってる暇あるんなら、もっとちゃんと仕事してほしいよ」

 会話の続きを聞いてコーヒーを吹き出しそうになった。毎日、壁を作るのなんて岡田さんか大工くらいだし、壁を作って非難されるなんて、それはもう岡田さんしかいないだろう。英語のリスニング試験に臨むかのように、僕はパーティションの向こうの会話に集中した。

「壁、まだやってんの? うちらが入庁してからずっとじゃん」

「その前からって聞いてるから、もう十年くらい余裕で経ってるかも。呼ばれるとにゅーって顔出すのもほんと無理。カタツムリかよ」

「でんでんだけにね」

「え?」

「岡田の『田』を『デン』って読んだの」

 やっぱり岡田さんの話題だった。僕は少し嬉しくなる。隣のテーブルで話しているのは公共施設課の若手とその同期といったところだろう。いまだに全員の顔と名前が一致していないこともあるが、誰が話しているかよりも岡田さんがどう思われているかの方が僕は気になった。なるほどカタツムリ。岡田さんが顔を出す動きは、確かに殻から出てくるカタツムリに似ているし、あのバリケードも角度によっては岡田さんの体の一部のように見えなくもない。今日からあのバリケードは「殻」と呼ぶことにしよう。僕は嬉々として決意した。

「あ、そういうことか。でんでんて……ちょっと、かわいくするのやめてくれない? それでいくと私、『マイ』だから、繰り返したらマイマイになっちゃうんですけど」

「確かに。まあ、同じ部署だからいんじゃない?」

「はぁ? 一緒にしないでもらえます?」

 僕は「今井真広」という自分の名前が、「マイ」という彼女の下の名前をくりかえすよりも、どちらかというと「マイマイ」に近いように感じていた。あと一文字。あと一文字足せば、岡田さんと同じカタツムリになる。

 僕は二人が盛り上がっているうちに店を後にした。間違ってもパーティションからにゅーっと顔が出てしまわないように最大限に身を屈めながら。


 公共施設課の今年の一大イベントである市民会館のリニューアル記念式典の日、僕は案内板を持って市民会館の入口に立っていた。準備にほとんど携わっていない僕でもできる役回りを当てがわれたようだった。市民会館は迷うような所ではないので、正直、案内係はいてもいなくてもいいような存在だったし、蒸し暑い中で立ちっぱなしという大変さとどうせなら岡田さんが割り当てられた屋内で案内係をやりたかったという不満はあったが、課の他の人たちは皆、責任の重い係として忙しく走り回っており、それに比べればはるかにマシだった。

 指定された時間まであと十五分ほどあったが、暑かったし、もう開会式の時間もとうに過ぎており、今から式典に来る人もいなさそうだったので、僕は執務室に引き上げることにした。何か言われたら、暑くて気分が悪くなってしまったとでも言えばいい。僕は案内板をひっくり返した状態で脇に挟んで庁舎を目指した。

 庁舎の階段を上がり、二階の執務室に入る。皆式典に出払っていて、誰もいない放課後の教室のような開放感があった。無性に思い切ったことをしてみたくなった僕はCMに使われている流行りの曲を口ずさむ。軽い足取りで自席へと向かっていると、目の前ににゅーっと顔が出てきて腰を抜かしそうになった。

「あ、岡田さん……」

「楽しそうですね」

「ええ。や、その、暑すぎたんで、ちょっとおかしくなったかも? しれないです……」

 心臓が早鐘を打つ。咄嗟に思いついた冗談を言ってみるが、岡田さんはフンと鼻を鳴らしただけで、体を引っ込めた。

「持ち場での仕事は終わったんですか?」

バリケード――殻の中に顔を引っ込めたまま岡田さんが言う。

「ええ、まあ。最後の三十分なんて誰も通りませんでしたよ?」

 言い訳めいたことを口にしてみると、途端に罪悪感を覚えて、もうあと十五分立っておけばよかったと後悔した。後悔してから岡田さんだって予定よりも早く引き上げてきているのだから僕と同罪なはずだと気付くが、岡田さんのように開き直ることが僕にはできなかった。どうして岡田さんはいつでも、こんなにも堂々としているのだろう。僕も岡田さんも楽して稼ぎたいという根底にあるであろう思いは一緒なはずなのに。岡田さんに対する好奇心と僻みがない交ぜになる。

「岡田さんのその、バリケードというか覆いみたいなのって何で作るんですか?」

 小学生の頃に道端で見つけたカタツムリの体を無理やり殻から引っ張り出そうとした時と同じような気持ちで、気がついたらそう尋ねていた。

「何となく、落ち着くからかな」

 岡田さんは殻をひと撫でしてから、顔を出さずに答えた。その撫で方が腰とか頭とか体の一部を撫でるのと同じようであまりにも自然だったので僕は見入ってしまったし、ちょっとした意地悪のつもりで言ったのに岡田さんが動じる素振りを全く見せなかったので、言葉を返すことができなかった。

「今日、私たち何て言われてたか聞きました?」

 殻から体をにゅーっと出して岡田さんは僕に尋ねてくる。岡田さんは自らコミュニケーションを取るといったことは控えているだろうと勝手に思っていたところもあり、思いもよらぬ問いかけに僕は戸惑った。

「いや、聞いてないです」

「市役所の『看板職員』て言われてたんすよ。仕事ができなくて、看板を持って立たせるくらいしか振れる仕事がない『看板社員』だって」

 言った瞬間、岡田さんはケッケとどこから出ているのか分からない奇妙な声で笑った。気味が悪かったが、動揺しているのを悟られるのは悔しかったので、僕は表情を変えずにうまいこといいますねとだけ返したが、皮肉っぽく響いていたらいいのだが、と腹の内ではどきどきしていた。岡田さんと話していると、岡田さんの殻にずるずると引きずり込まれてしまうような感覚だった。

「今井さんって、ゆるく働きたいんですか?」

 岡田さんがこちらへ向かって最大限に体を伸ばし、僕の机の端に重ねられた本を指した。建築関係の法律に関する本の間から『三十代からのゆる~い働き方戦略』という本のタイトルが覗いている。昼休みに読んでいたものをしまわないままにしていた。自分で自分の顔が赤くなるのが分かる。

「どちらかといえば、ゆるい方がいいですけど」

 ああ、こんな時にへらへらできればいいのに。僕も岡田さんみたいにゆるく働きたいんですって無邪気に言えたらいいのに。看板社員という先ほどの言葉を思い出して悔しくなる。悔しい、悔しい、悔しい。岡田さんと一緒にされたことに苛立った。楽して稼ぎたいとは思うが、どうやら僕はカタツムリにはなれないようだった。

「意外と私も皆さんのこと見てるんですよ」

 先ほどと同じようにケッケと奇妙な声で笑いながら、岡田さんは執務室から出ていった。


 一人きりになった僕は幼い日に見つけたカタツムリのことを考えていた。意地悪で体を殻から引っ張り出そうとした、大きくも小さくもないカタツムリ。マンションの植栽の脇にいたカタツムリ。

 あの時の僕には躊躇いみたいなものがあって、結局、殻と体を引きはがすことはできなかった。ぐいぐい引っ張るのをやめると、掌の上でカタツムリが角をピンと立てて、小さな目玉で僕の方をじっと見ていたことを思い出した。意外と私も皆さんのこと見てるんですよ。岡田さんの言葉を反芻し、身震いした。

 岡田さんの席を見る。机の上はきれいに片付いており、もう――もしかしたら殻ごと――帰ってしまったのかもしれなかった。