小説

『やさしい足音』ウダ・タマキ(『ごんぎつね』)

 テレビから流れる天気予報が、台風の接近を知らせている。大型で強い台風らしい。気象予報士の深刻な顔に、画面を通して緊張感がひしひしと伝わる。

「大丈夫かなぁ」と、思い浮かべるのは遠く離れた故郷の景色。

 台風が来ると思い出す。

 1993年9月。夏から秋への移ろいを今よりずっと、目や、耳や、肌で感じられた時代―

 

 貫太が過ごした生家の東隣には竹藪があり、朝はすっぽりと影に覆われ、夏でも過ごしやすい。

 畳の上に小さな体を目いっぱい伸ばして寝転ぶ貫太。その傍らの扇風機が運ぶ風に、レースのカーテンが揺れた。ふわり広がる裾の向こう、さわさわと音を立て、大きくしなる竹が覗く。

 台風が接近しているらしい。

 貫太の住む集落の周りは見渡す限りの田園が広がり、所々にいくつかの集落が点在している。冬は色彩が乏しく寒々しい景色だが、夏には陽射しを跳ね返す水面に、青々とした苗が規則正しく並ぶ。

 貫太はとりわけ秋の景色が好きだ。頭を垂れた黄金色の稲穂が、夕陽に照らされ美しい。小学生ながら、そう感じていた。

 そんな田舎では、台風が近づくと農家の人々は気忙しくなる。風に煽られた稲が、倒伏してしまうのではないかと気が気ではないのだ。とはいえ、自然の脅威には立ち向かえず、刈り取れる状態にない稲は、深水にしてあとは神に祈るのみ。貫太の祖父も、台風が近付くと決まって五穀豊穣の神を祀る田丸神社を参拝した。

 しかし、祖父には申し訳ないが、貫太は台風が嫌いじゃない。非日常的なスリルがある。荒々しく吹き付ける風と、滝のように降り注ぐ雨音を耳に、危うさと不安を感じながらも、家族の結束を感じて安堵するのだった。

 大工を営む両親は、慣れた手付きで自宅の窓に板を打ち付け台風に備えた。築七十年の民家が、瞬く間に要塞となる。それでも激しい雨風は、木の要塞を激しく揺らす。自然の力を前にすると、日々の暮らしに起こることが小さく、くだらなく思えた。大海原に浮かぶ、落ち葉のようだ。いや、それ以下かもしれない。

 しかし、いつもの貫太にとっては、日常に起こる小さな出来事さえ、心に大きく圧し掛かることがある。

 四年生の夏休みが明けてから、貫太は一度も学校に行っていない。いわゆる不登校というやつ。

 理由は些細なことだった。体育の授業でグループ分けをした時、同じグループになった和也が、英之に顔を寄せた。

「貫太と一緒だってさ」

 そう耳打ちしたのが、聞こえた。ただ、事実を告げただけかもしれないが、貫太は勘繰った。やっぱり自分と同じグループは嫌なのだと。

 知っている。嫌われてはいないかもしれないが、良く思われていないことは。以前から、知っていた。いや、正しくはそう感じていた、と言うべきか。クラスメイトにとって、自分はとっつきにくい生徒だと、ずっと卑下してきた。

 貫太は一見すると内気で、周囲の目など気にしないマイペースな少年だ。だが、本当は常に人の目を気にしてしまう。それも過剰に。相手が何を考えているのか、自分がどう思われているか。自分の言葉で相手に嫌な思いをさせていないか。常にそんなことばかりが頭をよぎる。

 しかし、あれこれ考え過ぎてしまい、本来その場においてふさわしいであろう言動にうまく移せない。明るく笑顔で、気配りできる少年になれば良いのだろうが……できない。つい素っ気ない態度をとってしまう。考えれば考えるほど、うまくできなかった。

 幸いにも台風は進路を変え、被害が出ることなく過ぎ去った。農家をしている祖父は一安心だろう。だが、貫太にとっては少しばかり不幸だった。暴風警報が出れば、みんなが等しく休みになるのに。窓のフレームに収まる、台風一過の青い空を眺めながら、そう思うのだった。

 いつからか蝉の鳴き声は消え、空は随分と高くなった。

 

 貫太の両親は共働きなので、日中は貫太一人で過ごすことが多い。両親の性格は不思議なくらい貫太と真逆で、父母共に考えるより先に言葉が出るタイプ。多少のことは気にしない。なるようになる。それがポリシー。だから、貫太の不登校も気にしていない。

「行きたくなったら行きゃいいさ」

「勉強が全てじゃないからね」

 理由も聞かず、不登校を受け入れた。

 高い空から天井に視線を移すと、焦点の定まらない曖昧な木目が、徐々にくっきりと浮かび上がった。木目を目で辿り、迷路のようにゴールを目指す。が、結局は元のところへ戻った。

 ジャリ、ジャリ、ジャリ

 庭に敷かれた砂利を踏む音が耳に届いた。夕方の訪問者は珍しい。

 程なくして、郵便受けにぽとりと何かが落とされた。

 遠ざかる足音が消えるのを待ち、貫太は体を起こして玄関に向かった。

 郵便受けには『矢野貫太様』とだけ記された封筒があった。大人の字ではない。きっと、クラスメイトの誰かの字だ。中には三つ折りにされた数枚の用紙。二枚は学校で配布されたプリントで、秋の課外学習のことが記されている。一瞥して、元のとおり折り畳んだ。自分には関係ない。

 もう一枚は、何やら手書きの文章が記されていた。

 内容は今日の学校であった出来事だ。太一の顔面にドッヂボールが当たり、大泣きしたこと。由香が給食に大嫌いなピーマンが出て、鼻をつまみ、目をつぶって食べていたこと。そんな他愛もない内容だった。

 小さなため息が漏れた。だからなんだ、というため息。自分がいなくても、学校には何一つ影響はない。どこにでもある、いつもの日常は続いていく。

 窓の外を一匹の赤とんぼが横切っていった。少しずつ暑さが和らぎ、熱っぽい大地は徐々に冷めはじめる。

 手紙は次の日も、その次の日も届いた。たとえ配布物が無くても。足音が聞こえ、ポストに落ちる音が耳に届く。貫太は、決まってしばらく経ってからポストを確認する。

 貫太はそれが誰か確認しようとはしなかった。誰だっていい。学校を楽しく過ごすクラスメイトと自分は違うのだから。

 

 ある日の手紙から内容に変化があったのは、綴られた文章に貫太の名前が登場するようになったこと。

 去年、文化祭の展示作品を一緒に作ったことや、大仏山公園への遠足で、みんなで弁当を食べたこと。そんな思い出が綴られていた。そう、貫太が学校に行っていた日々のことが。

 手紙を届けるのは、誰だろう―

 いよいよ、貫太にそんな気持ちが湧いてくるのだった。いつも、決まって午後四時半頃に足音はやって来る。

 台所の小窓を細く開け、その隙間から外を覗く。事件の張り込みをしているようで、鼓動が速く、強く打つのを感じた。

「あと、三分」

 貫太の鼓動が、壁に掛かる時計の秒針を追い抜き、どんどん引き離していく。

 ジャリ、ジャリ、ジャリ

 足音はいつものリズムを刻みながらやって来た。唾をゴクリと飲み込み、息を殺してその人物を目で追う。

 夏休み前より、大人っぽく見えたその姿に、貫太の鼓動はさらに速さと強さを増した。

 

『貫太くんがいないとさみしいよ』

 

 ノートを切り離したモノクロームの紙が、豊かな色彩で満たされた気がした。

 密かに想いを寄せていた彼女が、そう思ってくれていることを知り、貫太の心の闇に光が射した。強い光。何も遮ることのできない、確かな光だ。

 頬を涙が伝っていた。こんな感情で泣いたのは初めてだった。

 

 今年は台風の当たり年だそうだ。今朝の天気予報が、新たな台風の発生と上陸の可能性を知らせていた。

 時おり強い風が吹く学校からの帰り道、田丸神社の鳥居の前で祖父と出会った。

「じいちゃーん」

「おぉ貫太。おかえり」

「台風、大丈夫かな?」

「さぁな。自然のことは分からん。だから神頼みだ。よかったら、お前も神様にお願いしてくれ」

 祖父が日に焼けた手を貫太の肩に置いた。

「おーい! 貫太くんー!」

 振り返ると、聡美が駆けて来るのが見えた。

「おかえり、聡美ちゃん」

「ただいま。お参りに行くの?」

「あぁ。稲に被害が出ないよう神様にお願いしないとな」

「台風が心配だって、うちのじいちゃんも言ってた」

「よし。じゃあ、聡美ちゃんも一緒に三人でお願いしに行くか」

 学校に行くようになって、数日が経った。全ては貫太の杞憂に過ぎなかった。貫太の不登校を心配していたクラスメイトは、温かく迎えてくれた。

 しかし、貫太は聡美と会話をしていない。感謝すら伝えていないままだ。どうも、うまく言える気がしなかった。そうしているうちに、数日が経っていた。

 三人は柏手を打つと、静かに目を閉じ、手を合わせた。ちらっと横目に見た聡美は、貫太より少し背が高い。その目を閉じた横顔が、やけに大人っぽく見えた。

 きっと、実りますように―

 貫太はそう願った。強く、強く思いを込めた。

 

 あれから三十年の月日が流れた。

 貫太は在宅ワークが主なライターの仕事に就いている。自分の書いた文章が、人にどう読まれるか考え、推敲する作業に没入できるのは、貫太の生来の性格によるものだ。

 強い風が窓を震わせる。静かな夜を雨が打つ。故郷を離れているが、祖父の田んぼは無事だろうかと心配し、心の中で無事を祈る。

「ふぁぁぁっ」

 パソコンの画面に並ぶ文字が止まった。貫太の思考が止まったことを意味している。こうなると、書く楽しみは消えて苦痛に変わる。目に映る画面はモノクローム。何も心躍らせてくれない。デスクの向こう、窓の外には湿った夜空だけが広がる。

 頭の後ろで手を組み、背もたれに身を委ねると、久しく伸ばしていない腰に痛みが走る。二日後が原稿の〆切だと考えると、気が重い。

 その時、スマホが震えた。まさか、担当者から催促メールかと心臓が縮まる。

 慌てて手にしたスマホに表示されるのは、LINEの通知だった。

 『ドア、開けてみ』

 続いて飛び出した陽気な顔したウサギのスタンプ。貫太は思わず吹き出した。

 階段を降りて行く足音が、かすかに聞こえた。

 ドアを開けると、トレイに載ったコーヒーとチョコレート、そして、折り畳まれた一枚のメモ用紙が添えられていた。

 貫太は椅子に腰掛けると、チョコレートを一つ口に放り込み、コーヒーを啜った。甘いチョコレートと、ブラックコーヒーの苦味がほど良い。

 メモ用紙には― 

 『無理せず、頑張れ! きっと成果は実るからね! 聡美より』

 

 聡美は貫太のことを熟知している。大人になっても、貫太の性格は少年の頃と変わっていない。相変わらず繊細なままだ。だけど……嫌いじゃない。そんな自分のことが。だから、聡美と出会うことができ、実ったのだから。いつも貫太のことをそっと、優しく見守ってくれる。

 モノクロームのパソコンの画面に、鮮やかな色彩が浮かびはじめた。