小説

『笑顔の花』染井千奈美(『花咲か爺さん』)

シロ、もういいんじゃないかい――――。

かつて大好きだった花を見上げながら、思う。

 年中桜が咲くと噂がたち一躍有名になったこの村の、噂の元になった我が家の庭に咲く花。「花咲かじいさん」と呼ばれ、村の内外問わず多くの人達に親しまれてきた夫は、数年前から食事をとったことを忘れ、数分前の質問を何度も繰り返すようになり、そして、最近ではシロのことも忘れてしまったようだった。
 それなのに、庭の桜の木にシロの灰を撒く行為は、今も続いている。何を思って撒くのか、体に染み付いた習慣として撒くのか、だとしたら習慣というものはとても怖い、と思う。
 かつて夫は、殿様に「この桜は、亡くなったうちの愛犬であるシロが咲かせているものなんです」と言った。そのとき夫は本当に、心の底からそう思っていたと思う。そして私もそうなのだと信じている。
 だから、年中咲いている桜を当初はあたたかい気持ちで眺められていた。優しい夫、そして死んで尚主人に慕うシロ。シロが亡くなったことはもちろん耐え難い程悲しいことなのだけれど、夫とシロの思いがこの世とあの世の境を越えて、繋がっているのだ、と。切れぬ絆があるのだ、この桜はその証拠なのだ、と。
 しかし、あれから数年経った今。シロの存在を夫が忘れてしまった今。どうして夫はシロの灰を撒き、どうしてシロは自分の存在を忘れてしまった元主人のために、今も枯木に花を咲かせ続けるのだろう。
 年をとれば物忘れがでるのは当たり前。どんなに物忘れがはげしくなっても、優しいことに変わりはないし、私の自慢の夫だ。ただ、シロの気持ちを思うと、いつも胸が痛むのだ。そして、そう遠くない未来、私の存在もシロと同じように夫の中から消えてしまうのかもしれない。桜を見るたびにそんな思考がよぎり、気持ちが暗くなっていた。

「おばあさん、一緒に外へ出ないかい」
 いつものようにシロの灰を抱えながら、夫が声をかけてくる。いつもならここで、すっかり重くなった腰をなんとか上げ、夫の後ろについて庭に出る。でも正直、もう桜を見たくなかった。最近は、桜を見るたびに嫌なことを考えてしまう。それならいっそ、桜から距離をおきたい。
「私は先に、炊事の支度をしようと思います。庭で怪我をしないように気をつけて下さいね」
「それなら、おばあさんの用事が終わってからにしよう。急がないから。食事の後でもいい。」
 私はいいから先に庭へ出て下さいと何度も伝えたが、結局夫は聞かなかった。仕方なく、私はまたいつものように重い腰を上げ、夫とともに庭へ出た。
「おばあさん。私は、おばあさんの笑顔が見たいんじゃよ」
 最近はいつも無言でシロの灰を木にかけており、今日も当然そうするものだと思っていたので、私の方を振り返って、そう声をかけられたことにまず驚いた。だから、言われた内容を理解するのに、やや時間がかかった。
「私の笑顔、ですか?」
 言われた言葉を反芻する。夫は、少し照れたようにまた桜の方へ向き直り、言葉を続ける。
「おばあさんの笑顔をあまり見なくなったような気がするんじゃ。私の物忘れが酷くなっているから、忘れてしまっているだけかもしれないがね。でも、おばあさんは昔はもっとよく笑っていた、と思う。いつもにこにこしているおばあさんが好きじゃった。この灰を撒いたとき、枯木に花が咲いたじゃろう。そのとき、おばあさんの顔にも、それはそれは綺麗な笑顔の花が咲いたんじゃよ。そのときの幸せな気持ちが今でも忘れられないんじゃ」
「その時のことを、覚えているのですか」
 声が震えているのがわかる。最近の夫の様子からは全く想像のできないセリフだった。私は今、夢をみているのかもしれない。
「その灰で、なぜ桜が咲くのかも、わかりますか」
 夫は少し悲しそうに首を振る。
「だけど、灰を撒くのは私であっても、花を咲かせているのは、おばあさんや皆を笑顔にしているのは、私の力ではない。私の、いや私とおばあさんの大切な誰かなんじゃ。なんとなくだけれど、そんな気がするんじゃ。」
 シロ―――。もしかしてシロはずっと、夫の気持ちを知っていたの?だから夫の気持ちを汲んで、桜を毎日咲かせ続けてくれていたの?
 シロのことを忘れたようでいて、完全にシロの存在がなかったことには、なっていないんだ。例え、シロのことを忘れてしまっていても、物忘れがどんなに増えても、夫は夫なんだ。考え方も性格も、私の愛する夫のままだ。毎日一緒にいて、どうしてこのことに気が付かなかったのか。すっかり変わってしまっていたと、何もかも忘れていくのだと、勝手に思っていた。だけれど、そうじゃないんだ―――。

それからもまた、夫は毎日シロの灰を庭の木に撒き、花を咲かせている。私も夫の後ろに立ち、これまでのように夫の背中と桜を見ていた。いつもと変わらない光景。だけれど、私の気持ちは大きく変わっていた。今までのような胸の痛みはもうない。
 これからいつまでこの日々が続いていくかはわからない。今よりももっと、夫の症状は進行していくかもしれない。本当に私のことも忘れてしまう日が来るかもしれない。それでも私は、夫と向き合って生きていこうと、強く心に誓ったのだった。