小説

『檸檬、その後』小川葵(『檸檬』(京都))

 二条を抜け、寺町の奥に妻の親戚が大家の借家があった。月六円という格安の家賃で貸して貰えたが、財産を震災で無くした私たち夫婦にはその金もなかなか懐が痛かった。
 家に着くと日は暮れて、まごう事なき夜だった。
「ただいま」
玄関を開けても返事はなかった。框を上り居間に入ると、土間の台所に妻の背中があった。背中にもう一度ただいまと言うと、妻は振り返ることなく小さくおかえりなさいと言った。その日の朝から妻は不機嫌だった。噂になっていた普通選挙法の施行が今朝の新聞に載り、女性への参政権はないことが明記されていたからだった。
 妻は女学校で文学に目覚め、見合いの際、憧憬は深く古今東西の作家の話をし、書店勤めの私を閉口させた。東京にいる頃も婦人雑誌の手伝いをし、婦人参政運動への署名活動も行なっていたので、今朝新聞を私の手から奪い男に生まれたかったと悪態をついた。
 外套を鴨居に掛けようとし、私はポケットの檸檬に気づいた。私は働き出してから水彩画を始めた。誰に習うこともない下手の横好きで、近所の風景や静物画を描いた。描いた絵を飾ることもなく押し入れにしまいこんだままだった。明日の休みはこの檸檬をスケッチしようと、綿入りを羽織りコタツにあたりながら手にした檸檬を眺めていると、ちゃぶ台に妻が盆でキャベツのサラドとつみ入れを運んで来た。つみ入れは鶏肉におからを混ぜたもので昨晩の残りものだった。
「どうしたんですか? それ」
 妻が檸檬を見て言った。店の棚の画本がごちゃごちゃに積み上げられ、その上に置かれていたんだと話すと、妻はきょとんとした顔をした。
「立ち読みした学生の悪戯ですか?」
「さあ。どうだろうね」
 私は橙色のアングルの大きな画本の上に置かれていたのを思い浮かべながら、檸檬を眺めた。画本の上から手に取った時は冷んやりとした檸檬は、手に馴染み生暖かくなっていた。

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