妻ならこの光景を見て大喜びしたことだろうが、私はいささか困惑していた。とにかく、借りた以上はありがたく使わせてもらおう。そう思い切って、お椀を家に持ち帰り晩酌に充てることにした。椀を覗き込むと、注がれた酒に「ほら、言った通りでしょ」と笑う顔が浮かぶようで、少しだけ明るい気持ちに酔いしれた。
翌朝、綺麗に洗った椀を返しに、再び椀貸淵へ赴いた。川の流れは昨日と変わらず、穏やかな表情を浮かべている。淵にそっと椀を浮かべると、少しの間をおいて水底に返っていった。
貸してくれるのは、お椀だけなんだろうか。次に私の思い浮かべたことはそれだった。夢のような不思議が現実になったのだから、まだまだ叶うことがあってもおかしくはないだろう。
膳や椀は昔の人にとってハレの日を彩り、一堂に会した家族のつながりを確かめる特別な存在であったに違いない。だが、今の私はその家族を欠いている。もし、椀貸淵が家族をつなぐ存在であるというのなら、私が頼むものはただ一つしかない。
1日だけでいい。もう一度、妻と一緒の時間を過ごさせてほしい。
夕暮れ時の椀貸淵、そのほとりに二人の人影があった。果たして、私の願いは成就した。隣に立つ妻は、かつてここに来た時と同じように、朗らかな表情を浮かべている。
「まさかあなたが本当に頼むとは思わなかった」妻が言う。「でも、それだけ寂しかったんだね」
今日一日、私と妻は片時も離れず、ずっと話し続けていた。もっとも、私が話していることの方がずっと多かったかもしれない。彼女が生きていた頃は、どちらかと言えば私が聞き役にまわることの方が多かったのに。それでも、妻は嫌な顔ひとつせず話を聞いてくれた。
そんな時間も、終わりが近いことはわかっていた。「まだまだ一緒にいたいけど、もう終わりだね」妻は、川縁から一歩進み出る。「あなたを残していくのはやっぱり辛いよ。でも、どうか前を向いて生きて」そう言うと、川の中へと足を踏み入れてゆく。
借りたものは、ちゃんと返さなければならない。そう頭ではわかっていても、「このまま行かせたくない」という心の叫びが脳裏を駆け巡る。
ついに、身体が動いた。「待ってくれ」私は妻を抱き寄せる。「どんな罰を受けたっていい。これ以外のものは何もいらない。僕のそばにいてくれ」