「あれかなあ」妻が対岸を指差す。私達が立っているのは流れが弧を描きながら膨らんだその内側で、対岸の外側に向けて深く落ち込んでおり川底の様子も窺いしれない。「何か潜んでてもわかんないね」妻は楽しそうに言う。確かに、想像の余地はありそうだ。
「ねえ、今も頼んだら貸してくれるのかな。河童の貸してくれた道具でキャンプとか楽しそうじゃない?」
「言い伝えだと、ちゃんと返さなかったやつがいて以来貸してくれなくなったんだろ?」
「ほら、何百年も経って淵のヌシの怒りも収まってるかもしれないし」
妻は半分本気のようだった。でも、今日頼んでも借りられるのは明日なんじゃないだろうか。私がそう訊くと、残念そうにつぶやいた。
「あー……そっか。それじゃ借りてもしょうがないね」
今日はキャンプ場に一泊して、明日は帰るだけの予定になっていた。
「まあ、気に入ったならまた来ようよ。割合来やすいところだしさ」
私は何気なく言ったが、結果的に「また」はなかった。キャンプに訪れてからしばらくしてのち、妻は病を発した。もともと丈夫な質ではなくよく体調を崩していただけに、すぐ良くなるだろうと本人も気丈に話していた。しかしそれもつかの間のことで、みるみるうちに悪化し気持ちの整理をつける間もなく逝ってしまった。一年ほど前のことだった。
私は目の前のお椀を1つ手に取り、回し眺める。よく見ると小傷が多く使い込まれた様子であるが、漆黒と朱色のコントラストが美しい。それ以外は特に変わったところはない、いたって普通のお椀に見える。
まさか伝承が実現するとは思っていなかった。そもそもここに来たのは、無気力な日々を過ごしていた私を見かねた知人が、思い出の場所を訪ねてはどうかと勧めてくれたからだった。二人で出かけた先をぼんやりと思い返すと、ふとあの椀貸淵での会話が蘇ってきた。もしもう一度来られていたら、彼女はやっぱり頼み事をしたのだろうか?
だから、「お椀を貸してください」と書いた紙を流す時も本気で願っていたわけではなく、妻への弔いとして、精霊流しのような心づもりであった。ところが、流した紙が溶けるように消えた途端、淵の底から本当に椀が浮かび上がってきたのである。