小説

『椀貸淵の主』 田崎ミト(『椀貸淵・椀貸伝説』(山梨県、群馬県ほか全国各地))

 八ヶ岳山麓を流れるとある川に、椀貸淵と呼ばれる場所がある。曰く、祝い事や法事で多くの食器が入り用なとき、この淵に行って頼むと必要な分を貸してくれる。近くの住民たちはこれを大事に共有し、丁重に礼をして返していた。しかしあるとき借りたものを返さなかった不届き者がおり、それ以来二度と貸してくれることはなかったという。
 私は今、そのほとりに一人立ち尽くしている。目の前の水面には、漆塗りのお椀が浮かんでいた。

 椀貸淵を訪れたのはこれが二度目だった。はじめは数年前、妻と近くのキャンプ場を訪れたときに遡る。荷ほどきを終え、テントも張り終えて一息ついていたところ、妻がその存在に気づいた。
 「『椀貸淵』だって。変な名前。聞いたことある?」
 妻はそう言って、受付でもらった周辺の散策ガイドを見せた。手描きの地図にはそばを流れる川が描かれており、蛇行する流れの一箇所に確かに「椀貸淵」とあった。
 「初めて聞いたよ。何か由来が?」
 私の尋ねに、妻はガイドの解説を読み上げた。
 「なんでも、昔お椀やお膳が足らなかったとき、そこに行って頼みごとを書いた紙を流すと必要なだけ用意してくれたんだって」
 「へぇ……まあ、昔は裕福な人でもなければお客さん用の食器なんて持ってなかっただろうしね」
 「それにしても、誰が貸してくれたのか気にならない? 河童でも棲んでたのかな」
 妻はいたずらっぽく目を輝かせた。はじめて出会った学生の頃から空想家気質な向きがあったが、20年近く経った今でも変わらないようで、時折少女時代に戻った表情を見せる。私はそんな変わらぬ純真さに安らぎを覚えていた。
 「はは、そうだと面白いね。少し歩いてみようか」
 二人連れたって河原へと向かう。堤防に挟まれた幅10mばかりの小河川は、春を迎えていた。川沿いに出ると時折肌寒い風も吹くものの、穏やかな陽光が心地よい。河原にはヤナギの低木が繁茂し、白い綿毛を飛ばしている。浅瀬に目をやると、真っ赤な婚姻色をしたウグイが群がり、水しぶきを上げていた。

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