小説

『星のブランコ』香久山ゆみ(『羽衣伝説』(大阪))

 もともと登山が趣味だった私が、登山がてら星のブランコに行くと伝えたところ、夫が車を出すと申し出てくれた。星田連山には60ものピークがあり、私はどれだけ多くの山頂を踏めるか計画していた。しかし、彼は「任せてよ」とまず星田妙見宮に車を停めた。まつわる伝説についてとうとうと説明を受けながら、妙見山に構える境内の石段を登りつめ参拝した。「ほら、来てよかったろ?」彼は笑顔を向けた。「ここは絶対押さえとかなきゃ。ひいちゃんて、どこか抜けてるからなあ。俺がいなきゃだめなんだから」いつものようにそう言った。
「放っておけない」「心配だ」「俺がいないとだめなんだから」、彼はいつもそんな言い方をした。私はいつでもただ黙って微笑んでいた。彼のことが好きだから。
 結局その日は、星のブランコを見たきり山を下りた。「星田山までって結構歩くよ? しかも山頂っていっても木々に覆われていて全然展望もないんだよ?」スマホ画面をスクロールしながら彼は言った。「ランチ予約してるから」、駐車場に引き返す彼の足元はしゃれたツルツルのスニーカーを履いていた。
 羽衣伝説では、舞い降りた天女が水浴びしてる間に男がその羽衣を隠した。天へ還れなくなった女はその地で男と結婚し、子を生して睦まじく暮らした。年を経て羽衣を見つけた天女は天に還り、天寿を全うして星になった男と永遠に寄り添いましたとさ。
 結婚して数年、妊娠した。「産休育休が明けたら、保育園のお迎えは当番制でもいいかな。熱出した時とかはなるべく私が休むようにするから」。私の方が、勤務先まで遠かった。今後のキャリアを考えると、これが最大限の譲歩だった。
「えー……」スマホ画面を見ながら、夫が答えた。
「いいよ。辞めなよ、仕事」
「えっ」
「今でもさ、晩ごはん手抜きだったりするじゃん。ひいちゃんには無理だよ、働きながら子育てとか家のこととか。だから辞めていいけどさ、家のことはちゃんとしてよ」
 スマホを操作しながら言った。最近は帰宅も遅く、家で食事することのほうが稀なのに。私達夫婦ともに実家は他県なので両親のサポートに頼ることもできない。私は会社を退職した。

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