小説

『うらら葛の葉』香久山ゆみ(『信太妻』(大阪府和泉市))

   秋風はすこし吹くとも葛の葉のうらみ顔には見えじとぞ思ふ
 すとんと納得した。そうだよね、恨むはずないのだ。秋風が吹くように寂しいと思うことはあっても、我が子をうらむことなどありえない。恨むとすれば、不甲斐ない我が身をこそだ。恨まれるとすれば私の方。
 作者が和泉式部だから本当は葛の葉狐とは全然関係ない恋の歌かもしれない。けれど、私はもやもやしていた気持ちに解を得たと思った。
 参拝を終えると、まだ昼過ぎだ。
 葛の葉狐の子を祀る神社へも足を伸ばしてみようと思い立つ。電車に乗ると冷房が効いていて涼しい。が、汗が引くと湿った服が我ながらいっそう汗臭い。友人もいないのでデオドラントにも制汗剤にも疎い。車両の隅に縮こまって立つ。
 そんな人間関係が苦手な私が唯一心を開いたのが亜紀だった。私とは真逆の性格で、竹を割ったようにはっきりしていて、誰に対してもずばずばものを言う。敵を作ることもあるけれど、大方の人から好かれる。そんな亜紀に選ばれたことが未だに信じられない。以来、もう十年来の付き合いだ。
「ねえ、千晴」
 亜紀が話を持ち出したのは昨年のこと。
「私、子どもを産みたい」
 蜜柑の皮を剥きながらぽかんとする私を、亜紀の大きな瞳が真っ直ぐに射竦める。
「私達の子どもがほしい。二人で育てたい」
 私は「うん」と頷いた。
 そこからの彼女の行動は早かった。あれよあれよと様々な手続きをこなして一年半後にはもう大きなお腹を抱えている。
 なのに、私ときたら今なお自身が同性愛者であるという自覚さえない。そのうえ子どもだなんて、今更ながら不安が募る。
 天王寺で路面電車に乗り換え、まず阿倍王子神社を訪れる。安倍氏ゆかりの神社で、八咫烏を祀っている。参拝を終えて境内をうろうろしていると、「ジージージー!」突然足元で鳴り、驚いて飛び上がる。何の音?! 振り返ると、アスファルトに引っくり返った蝉が鳴いている。木から落ちたのだろうか、もう飛ぶ力もないのだろうか。土の上まで運んでやるべきだろうか、とおろおろ迷っている間に。
「あ!」
 バサバサッと烏が下りてきて、大きなくちばしで蝉を咥えた。また口を離したり、つついたり、転がしたり。私は呆然とそれを眺めて、哀れな蝉を助けてやることもせずに背を向けて逃げ出した。私は無力だから。何もできないから。
 そのまま並びの安倍晴明神社へ駆け込んだ。
 安倍保名と葛の葉狐の子が、陰陽師の安倍晴明だといわれる。
 境内には稲荷社や狐の像がある。まだ学生だった十年前の陰陽師ブームの折に一度訪れたことがあるが、案外覚えていないものだな。当時はただ無邪気に伝説の陰陽師に熱中していた。
 けれど今は、まったく違った思いでこの地に立っている。
 恨んでなどいない。

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