小説

『ユキノシタ』洗い熊Q(『雪』)

 宿から大分歩いて来た。
 ここは山間近く、人の気配も消え、雪深い。本当に似ている。
 頬に来る冷たさも、手足が悴む寒さも痛さに変わったと分かる。
 でもその痛さ、心痛と比べたら心地よいくらい。苦しみ抜いた世界に比べたら天国かも知れない。

 本気で死にたいと思った。だからここまで来たんだと。

 思い知らされた。この冷たさが思い出と共に甦る、私の本気を。
 忘れていたのはまだ縋りたいと甘えたいから。何かあるかと思えて。でもここには何もなかった。彼女はいない。誰もいない。本当に何も無くなって、ここまで逃げて来た。いえまだ逃げ途中。その先へ逃げようとしていたんだ。きっと楽な世界があるんだと信じて。
 決心した訳じゃないけど、もうこのまま行こうか。優しいくらい静かな雪原に寝そべって夢見心地で行ってしまおう。
 この白い息をしなくなるまで。

 
 あの時は、熊の足跡に怯えきった私のせいでそれ以上行かなかった。
 それを別に不満そうにも怒るもせずにただ二人、静かな雪原を見つめていた。
 そこは何か特別で違っていて。
 普段見る景色ではない、二人だけの音のない世界。
 今思えば、その後に私が突然に引っ越し事が決まり、二人だけで遊ぶのが最後の日だったとすれば。
 何か感じる沈黙だった。ただ澄まし、耳鳴りのない静寂に傾けて。
 暫く黙っていたら急にサッちゃんが思い付いたように歩き出した。
 新雪の上をもっさもっさと進んで、その先で急に雪を掻き出し始める。
 何してるのと聞く前に彼女が言った。
「一生懸命に掘ってみ? きっとある」
 言われるままに、何も不思議に思わない。
 私も一緒に雪を手で掻き出す。
 二人で防寒着の下が汗だくになって、真っ白な息を更に吐いて、ベージュ色の枯れ草が折り重なった隙間に土が見えた頃。
 小さく屈んでいる薄緑の芽を見つけた。
「ユキノシタや」
 見つけてそうサッちゃんが言った。笑顔でリンゴ頬を更に真っ赤にして。
「もう春やんな。だから雪が溶けてたら直ぐにお日様たくさん浴びよう思うて芽を出してる。一生懸命や。こんな雪の下で、もう一生懸命に芽出してる」
 陽のない今なのに新緑の色は輝いている様に見え、たった一つの芽なのに雪原の下ぜんぶに広がる息遣いを感じさせた。
 その芽になのか、目の前にいる私にだったか、サッちゃんは切々と言うんだ。
「一生懸命にやろう、一生懸命に生きよう。どこまでやっても意味ないやなんて思わんと。一生懸命に掘ったから見つけたんや。一生懸命に芽出そうとしたから出たんや。やることやるってのが一生懸命や、途中が大事やんな。どうなったんやなんて大したことない、今は生きとこ。良い事あるなんて言わん。でもな、今は生きとこ。春が来るて信じるよりも今は精一杯に芽を出しとこ。きっとそれが大事やんで」
 先にある別れを察してなのか、それとも自分を鼓舞する独り言だったんだろうか。
 雪の下の芽を見つめながら、一生懸命に言った彼女の言葉が溢れ出した。

 
 私は目の前の雪原を掘り始めていた。
 今まで何でその事を忘れていたんだろう。この似通った風景のせいなのか。彼女の言った一言一言が鮮明に思い出された。
 あれは誰に向けて? それとも不幸な自分に? そんなの関係ない。今思い出されたのが大事。
 今の私に向けられた言葉に感じた。

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