小説

『愛の天秤』尾西美菜子(『鶴の恩返し』)

山を下り、帰宅した私達は井戸の水で手を洗い、小さな庵へと足を踏み入れた。すぐに囲炉裏に火を灯し、冷えた体を温める。動いていたとはいえ、体は芯まで冷え切っていたようで、わずかなぬくもりでもとても暖かく、ありがたく感じられた。急いで夕餉の支度をし、二人で取り留めのない話をしながら食べた。主が町で見た大道芸人の話。年越しの準備に勤しむ村人の話。冬を超えた後の話。いつもと変わらぬささやかな日常の一つ一つが、今日の私にはとても愛おしく、かけがえのないものに感じられた。主がゆっくりと湯呑を手に取り、最後の一口を飲み干した頃。私は全ての器を下げ、腰を上げた。

「では、私はそろそろ仕事に就きますので。旦那様は先におやすみになられてください」
「今日も機を織るのかい」
「はい」
「こんな時間から働かなくてもいいだろう。今日は辞めておいたらどうだい。私はもっと、お前と話をしたい気分だよ」
「私も旦那様のお話をもっと聞いていたいのですが、桜の風景を忘れないうちに、着物に仕立てておきたいのです」

あの時、主の言う通り、機を織らなければ。主と、夢心地のまま共に夜を過ごしていれば。運命は、変わっていたのでしょうか。

「そうか、なら仕方ないね。決して無理はするんじゃないよ」
「はい、ありがとうございます」

私は立ち上がり、主が用意してくれた機織機のある部屋へと足を踏み入れた。そろり、そろりと足音を消して、ゆっくりと戸に手をかける。あかぎれだらけの己の指から、じんわりと血が滲んでいた。それはまるで、羽を抜くときに流れる血を思い起こさせる、鮮やかな赤い赤い血であった。心臓がドクドクと波打つのは、気のせいではないように思う。あの言葉を言うときは、いつもそう。だから、これは、悪い予感ではない。そう、決して。そう自分に言い聞かせ、私は言葉を続けた。

「では、旦那様。おやすみなさい。それから……」

私の羽根(いのち)が尽きるのが先か、主が約束を破るのが先か。愛の天秤がどちらに傾くのかと心をざわつかせながら、私は今日もいつもの台詞を口にした。

「絶対に、中を覗かないでくださいね」

叶うなら、桜色の着物を織りきれますように。主と二人で満開の桜を見に行けますように。そう祈りながら、私は後ろ手で静かに戸を閉めた。

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