小説

『愛の天秤』尾西美菜子(『鶴の恩返し』)

「すごい……。こんなにも大きな木を、ツルは初めて拝見しました」
「とても立派だろう。私だけのとっておきの場所なんだ」
「旦那様だけの、ですか」
「そうだ。こんなにも素晴らしい桜の木があるというのに、私以外誰も知らないんだ。村の者も、あの荒れた山にそんなものがあるはずがないと言って、聞く耳をもたない。だから、この桜の木は今までずっと私だけのものだったんだ」
「こんなにも素敵な場所を独り占めだなんて、旦那様は贅沢者ですね」
「そうだろう。でも、今日からは私たち二人のものだ。今までは一人さみしく花を愛でながら酒を飲んでいたが、次の春にはツルが酒を酌んでくれるのだと思うと、今から楽しみでならないよ。私はこの世で一番の幸せ者だ」

そう言って主は猪口からぐいっと酒を飲む真似をして、楽しそうに笑った。つられて私も、笑った。

「ツル、桜はな、辺り全体を明るく照らすように、咲き誇るんだ。それはそれは、まるで天女に包み込まれたような心地なんだよ。この舞い落ちる雪のように、枝の端々にまで、明かりを灯すんだ。想像してごらん。この終わりなく降り注ぐ雪のように、いつまでも降り注ぐ桜の花びらを。淡い紅色の花吹雪を」

私は目の前の巨木を見上げて、想像をした。雲一つない青空の中に咲き誇る桜の花を。舞い落ちる雪のように、枝を隠すほどに咲き誇る桜の花を。鍋いっぱいの雪に紅を塗った唇を混ぜたような、薄い薄い紅色の花を。すると、知らない花のはずなのに、私の目の前には、それはそれは風光明媚な春の景色が広がっていた。それはまるで、年老いた巨木が見せてくれた幻のようであった。

「桜とは、とても美しいものなのですね」
「そうだよ。人々の心を幸せにする、美しい花だ」
「それは、ツルも見てみとうございました。旦那様と、満開の桜を見とうございました」
「来ればいいさ。次の春も、その次の春も。何度でも、共にここに来よう」

その言葉に返事をすることができずに、私は一人、静かに涙を流した。

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