小説

『まち針心中』犬浦香魚子(『蛇婿入り』)

「あの男の人間は、帆志っていう」
 真子は、雪に秋アザミを渡せなかった。
「あたしは帆志とだけ喋って、帰った。帆志は光みたいな人間だった。人間ぜんぶがこんな光みたいなんだったら、あたしはひどい思い違いをしていたんだと思った。帆志はいつでも、信じられないくらいにまぶしかった」
 隣で武蔵丸が、「でもさ」と恐る恐る訊いた。
「彼女、いるんじゃん」
「うん」
 ぽろっ、と真子が涙を零した。武蔵丸はぎょっとした。あわてて、ポケットからハンカチを出そうとしたが、今の自分にはポケットもハンカチも無いことに気が付いた。しょうがなく、しゅるりと舌を出したり引っ込めたりしていたが、真子は武蔵丸の方を見もせずに続けた。
「あたしは帆志と話すようになって、雪とも、話すようになった。雪はどこにも文句のつけようのない人間だった。ほんとに、どこにも……」
 真子はもう一度、ぽろりと雫を地面に落とした。彼女はしゅるりと生垣の裏に回ると、人間の姿になった。
「先に帰ってて」
 と、足元のヤマカガシに囁いて、真子は人間たちのいる夜の駐車場に入っていった。

 くちなわ園で、真子と武蔵丸の喧嘩はめずらしいことではなかった。二人は子蛇のころからしょっちゅう、言い合いばかりしていたからだ。
 それでも、蛇たちの寝静まった明け方、こんな大声で怒鳴り合うのは初めてだ。
「だから、あたしの勝手でしょ!」
 真子はプリーツのスカートを荒々しく揺らして、背の高い草原をかき分けていた。その後ろから、ブレザー姿の武蔵丸が、
「うるせえ、バカを見過ごせるわけねーだろ」
 真子は、草原に向かって叫ぶように言った。
「バカで悪かったわね、ほっといてよ! 今日こそあたし、好きだって言いに行くの」
 武蔵丸は苛々と、
「俺もお前も、蛇だ。人間じゃない。間違えんなよ、真子」
 真子は足を止めると、ぱっと振り向いた。
 彼女は何かを言おうとして、一度口を閉ざした。それからもう一度口を開くと、今までの怒りをどこかへ落としてしまったかのように、静かな声で話し出した。
「帆志は、一番最初にあたしを見たとき、すごく恐がってた。蛇は苦手なんだって、どうしても気持ち悪くて無理なんだって、雪にそう言いながら、車を押して助けてくれた」
 真子は視線を上げて、訴えるように武蔵丸を見つめた。

1 2 3 4 5