小説

『八百万人事課』小柳優斗(『ちんちん小袴』(新潟県佐渡島ほか))

 仰々しく嘆息する御手洗さん。ちいちい小袴様は、仕方がないという顔で御手洗さんに笑いかけている。御手洗さんは僅かに頷くと、耳の後ろを掻きながら答えてくれた。
「実はね、小泉八雲が縮緬本を出した明治の時点で既に、ちいちい小袴様は本来の役目から退かれていたのです」
「えっ、どうして――?」
「小泉八雲も書いていますよ。新しい鉄道や電信柱が怖がらせて、多くの妖精が去っていった――と」
 そうして御手洗さんは、眉に憂いを湛えた目で掌を見下ろし、
「神様の中には、わたしたちの文明に恐れをなし、逃げ出してしまわれる柱もいるということなのです。それ以降、ちいちい小袴様は少しでも日本の原風景が残るこの場所に落ち着き、この小さな祠の中で過ごされてきました。私達、八百万人事課の迎えをお待ちになってね」
「……」
「所在を掴むまでに何年もかかりました。しかし今日、漸くお連れすることができます。常世の国を厭う神様もいらっしゃいますが、ちいちい小袴様にとっては、今の現世よりは遥かに住みやすいはずです。わたしの手でお連れすることができて、良かったと思いますよ」
「えっ? じゃ、じゃあちいちい小袴様は忘れられた神様ではないのですか」
「覚えている人は少ないでしょうが、本にも残っていますから忘れられてはいませんね」
「つまりまだ、ちいちい小袴様を必要とする人がいるかも知れないということですよね。それを、わたしたちがお連れしてしまっても良いのですか? 物を大切にすることを教える役割は、いつの時代でも必要なのでは――」
 そう、神様がいなくなるということは、そういうことなのだ。
 神様がいなくなった瞬間、その神様が担ってくれていた役割もなくなってしまう。
 それはどんな時でも「損失」に他ならないのではないか。
 少なくともわたしは、そう思う。
「及川さん――」
 御手洗さんがメガネを取って、わたしを真っ直ぐ見た。その目の中に、わたしは怒りじゃない何かが見えた気がした。
「そんな当たり前のことを、神様に背負わせてどうするのです」
「えっ――」
 すぐには御手洗さんの言葉が理解できなかった。彼の手のひらを見ると、小袴様は寂しそうに笑っていた。
「物を大事にする、そんなこと当たり前じゃないですか。その当たり前を教えるのに、どうして神様のお力を借りなければならないのです。それは私達、大人の役目でしょう」
「……」
「暮らしや文明が熟しても、そうした当たり前のことが教えられないうちは、いつまで経っても未熟です。その未熟の部分を、小袴様はずっと担ってくれていた。その役目を今、お返しいただくのですよ。これから先は、私達が担えば良い。いや、担うべきなのです」
 行きますよ――と言い残して、御手洗さんはわたしの横を過ぎて去っていく。その掌に、恭しく小さな神様を乗せて。わたしは一時……ほんの一時だけ、その場に立ち尽くした。
 見えていなかったものを、まざまざと見せつけられた気がしたから。
 何も分かっていないわたしを、どうして御手洗さんは選んだのだろう、そんな疑問に一瞬、胸を押しつぶされたような気がしたから。
 神様は、役目を終えて忘れ去られればこの世を去る。
 じゃあ、わたしの役目ってのは一体なんなんだろう。
 わたしはこの世で、神様と一番近いところにいるこの仕事で、どんな役割を担っているんだろう。
 それが分かる日が、そしてその役割が完了する日が、いつか来るんだろうか。
 思わず唇を噛んだ。わたしには分からない。今は分からない。
 分からないなりにやっていくしかないんだ。
 ふっと息を吐いて目を閉じた、次に目を開くと、夏の日差しは変わらず眩しかった。

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