小説

『当たりの箱はどの箱か』五条紀夫(『舌切り雀』)

 そう呆れたように言うと、老紳士は懐から小さな瓶を取り出した。
「心配してくれなくても結構だよ。箱に入れた毒と同じものを用意してある。事を終えたら、娘のもとへ旅立つつもりだ」
「大した覚悟ですね。分かりました。では、ゲームに付き合いますよ」
「時間はある。どの箱を開けるか、じっくり考えてくれ」
 閉ざされた部屋の中、目の前には二つの箱が置かれている。
 一方には現金が、一方には毒が、入っている。
「確認ですが、ある酔狂な資産家というのは、あなたのことですよね?」
「そうだな」
「じゃあ、どっちの箱に何が入っているのか分かっているってことですね」
「その通り。そして、当たりの箱を選べれば君の勝ちだ」
 密かに思う。このジジイは俺を侮っている。
 馬場は一つの箱の前に立った。老紳士は澄ました顔で正面を向いている。
「さっそく箱を選ばせて貰いますね。童話の舌切り雀では、雀の舌を切った老婆は、雀から差し出された二つの箱のうち、大きいほうを選ぶ。その結果、老婆は箱から出てきた化け物に襲われます。この茶番がその物語を忠実になぞっているならば、当たりの箱はこっちということになりますが……」
 馬場は足元の小さな箱を指差した。と同時に、勝利を確信した。
 馬場にとって人間は玩具であり、観察の対象でもあった。どう苦しむのか、どう怯えるのか、心理と反応との関連を熟知していた。それこそ、微細な筋肉の動き、血色、視線などを見極めるのは容易かった。
 人は隠したいものがあると、意識的にそこから視線を逸らそうとする。老紳士にしてみれば当たりを隠したいはずだ。ところが彼は、馬場が小さな箱を示した時、惚けた顔をしようともせず、指先につられて視線を落とした。つまり、この小さな箱は当たりではない。そうなると、
「当たりの箱は、そっちの大きな箱ですね」
 老紳士は何も言わず、扉の郵便受けに鍵を放り込んだ。その表情は、少しばかり安堵しているかのようだった。彼は、心の奥底では、人を死なせたくないと思っていたのかも知れない。

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