小説

『秋の恩返し』川瀬えいみ(『信太狐(大阪府)』)

「あのトンボは、ウスバキトンボというんだ。毎年東南アジアから大量に日本に渡ってきて、世代交代しながら日本列島を北上、冬の訪れとともに死滅する。毎年、死ぬためだけに渡ってくる不思議なトンボだよ。別名、精霊トンボ」
 太郎は、昆虫の生態に詳しいわけではない。陰陽師マニアであると同時にオカルトマニアでもある太郎は、ウスバキトンボの別名に惹かれて、その由来を調べたことがあったのだ。
 お盆の頃から姿を見せ始めるので、先祖の霊を乗せてやってくるトンボと信じられていたのが、その別名の由来。
『山田太郎』同様、日本で最もありふれたトンボである。

「大阪のビルのエレベータの中にいたんだ。誤ってエレベータの箱の中に飛び込んでしまったようだった。エレベータのドアが開くたび、ひやひやしたよ。一階以外でエレベータの箱からフロアに出てしまったら、永遠にビルの外に出ることができないかもしれないだろう? だから、エレベーターの箱の中で、そのトンボを捕まえて、一階まで下りて、外に逃がしてやった」
「ジョンは優しいんだな。そのうち、君に助けられたトンボがあでやかな美女に化けて、恩返しに来てくれるかもしれないぞ」
 太郎がジョンにそう告げたのは、ちょうど稲荷社の前だった。小さな社に、幾体もの狐の像が置かれている。
「安倍晴明には、母親が狐だという伝説があるんだろう?」
『トンボが(人間の)美女に化けてくる』という太郎の発言が、ジョンに『信太の狐』を思い出させたらしい。
 安倍晴明は、人間の父親と、彼に命を救われた白狐が化けた女性との間に生まれた子供だという伝説である。

「日本には、鶴女房という民話もあるね。どうして、狐や鶴が人間に化けるんだ? しかも人間の姿をしているからといって、そんな化け物――異類の生き物と結婚するなんて気持ちが悪い……というか、人としての矜持はないのかと思う……」
 ジョンの日本語が、殊更ゆっくり、注意深げな口振りになる。
 ジョンは、日本人である太郎を不快にしないよう気遣っているというより、ずっと奇異に感じていた疑念を、できる限り正確に伝えようと努めているようだった。
 太郎は、ジョンにそう問われて初めて、信太の狐の伝説はもちろん、鶴の恩返しの物語も『気持ち悪い』と感じたことがなかった自分に気付いたのである。
 そんなふうだったから、当然、太郎はジョンの疑念に対する答えを持ち合わせていなかった。それは、太郎には『わざわざ考えるまでもないこと』だったのだ。
 太郎に代わって、ジョンに答えたのは茜だった。

「日本は八百万の神の国。自然のものすべてに神が宿っている国なんです。米の一粒一粒にも、神様がいると考えるお国柄。だから、魂を持っている者同士の交流の物語なんですよ。信太の狐も鶴の恩返しも」
 押しつけがましいところのない、やわらかい口調だが、それは断言だった。否、むしろ、事実の報告と言うべきか。
 茜の説明で、太郎はすとんと得心できた。

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