小説

『昼下がりの空き部屋から』斉藤高谷(『春の野路から(岩手県)』)

 一方、則子さんは則子さんで、主婦業の大変さを愚痴っているようでいて自分の方が幸せな現状にあると考えているようだった。二人の男の子の子育ては確かに大変ではあるけれど、家族がいるというのはやはり良い。それに夫は大きくはないものの時折メディアに紹介される会社の経営者であり、経済的にも余裕がある。未婚で、明日をも知れない仕事にすがりついているように見える春子さんを嘲笑い、やはり哀れんでいた。
 同じだ、とふと思う。
 わたしが教室で見たものと。
 逃げ出すほど見たくなかったものと。
 チーズは、ある時点から減っていない。たぶん、卯月は全く手を付けていない。彼女の顔までは見る気になれない。
 わたしは、学校から持ってきた漫画を鞄から取り出した。テーブルの上に置いて差し出すと、窓際に座る二人の視線が同時に注がれた。
 そこから腕を辿って、わたしの方まで目を向けられた。
「あなた、誰?」春子さんが眉を上げながら言った。「いつからそこにいたの?」
 大人が見せる本気の怪訝な顔に、気持ちがたじろぎそうになるのをわたしは堪える。
「これ……」則子さんが漫画に目を落としながら言った。「どこでこんな物を?」
「学校で見つけました。お二人が描いたものですよね」
 はるののじは顔を見合わせ、再びこちらを向いた。
「卯月が泣いてます」わたしは二人に言った。「見えないでしょうけど、泣いてます」
 嘘をつく。わたしの向かいでは誰も泣いてなどいない。そこには誰もいない。卯月はとっくにどこかへ行ってしまった。

 休日でも練習のある部活のために、学校は開いていた。部外者の入校を咎めるような人はおらず、わたしははるののじの二人を件の空き部屋へ難なく通すことができた。
 お酒のせいか、わたしの話しぶりのためなのか、二人はわたしの言うことを簡単に信じた。そうして話を聞き終えた彼女たちは、どちらからともなしに「学校へ連れて行ってほしい」と言った。
「ホントにある。なつかしー」
「絵、こんなに下手だったっけ」
「この台詞(笑)。若いねー」
「それ、描いたのあんたでしょ」
「いや、あんたでしょ」
 かつて自分たちが描いた漫画を読みながら、二人はそんなことを言い合っている。なんとなく、高校時代の彼女たちの姿を見たような気がする。あるいはそれは、わたしの友人たちの姿であり、わたしの願望が映し出された光景なのかもしれない。
 冷たいそよ風に振り向くと、窓の傍に卯月が立っていた。彼女はもう泣いていなかった。
「こんなのでよかったですか?」わたしは訊く。
「うん。ありがとう」卯月は微笑んだ。「思ってた以上だよ」
「それは何より」
「約束通り、願いを叶えるよ」
 後ろで笑い声が上がる。二人の話は過去から、漫画の〈これから〉に話題が移っている。
 卯月に願ってまで叶えてほしいことは確かにあった。けど、今わたしが叶えてほしいのはそれじゃない。
「漫画の続き」わたしは言った。「わたしにも、終わりまで読ませてください」

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