小説

『昼下がりの空き部屋から』斉藤高谷(『春の野路から(岩手県)』)

 つまみ食いに気づかずおしゃべりに花を咲かせているのは、あの漫画の作者たちだ。
 はるののじ(読み方は〈はる・ののじ〉らしい)というペンネームは、二人の女子生徒からなるものだった。二人は共に漫画を描くことが好きで、別々のクラスではあったものの、入学して間もなく共通の友人を介して知り合った。すぐに意気投合し、一緒に漫画を描き始めた。
 二人は漫画研究会の立ち上げメンバーでもあった。高校生には高価な画材を買うため、部費が欲しかったのだ。部員は二人だけ。〈同好会〉という、正式な部の三分の一しか部費の出ない扱いだったけど、彼女たちにはそれで充分だった。大した部員勧誘も行うことなく、自分たちの漫画を描くことに専念し続けた。
 終わりは突然やって来た。
 何か〈これ〉という明確なきっかけがあったわけではない。次の進路を具体的に考えなければならない時期というのもあったのだろう。なんとなく自然に、二人の心がはるののじとして漫画を描くことから離れていった。
 彼女たちはそのまま卒業し、別々の大学に進んだ。それから片方(則子さん)は就職し、もう片方(春子さん)は絵の勉強をするため専門学校へ入り直した。今はそれぞれ、主婦とイラストレーターになっている。
 そんな二人が十年ぶりに会おうということになった。いわずもがな、それがこの場だ。ここへあの空き教室にあった未完の漫画を一冊持ってくるというのが、彼女がわたしにした〈頼み〉だ。そうすることで彼女は外へ出られるとのことだった。
「キミが漫画を読んでくれて助かったよ。この機会を逃したら、次はいつになるかわからなかったし」結構奇跡に近い巡り合わせだったはずなのに、卯月は相変わらずポテトを食べながら言った。
「来たはいいですけど」小声で言ってみて、二人に聞こえていないらしいことを確認してから改めて声を発した。「何しに来たんですか? これじゃおしゃべりを聞いてるだけじゃないですか」
「どうにか漫画の続きを描いてもらいたいんだけどね。それでわたしも成仏できる」
「成仏って言っちゃってるじゃないですか」
 二人は仕事のこととか子供のこととか、たぶん年齢に見合った話をしては笑い合っている。そこには漫画の〈ま〉の字も出てこない。描いていた過去などなかったように、一切触れられない。
「それとなく仕向けるとか?」策はないけど、言ってみた。
「大丈夫。二人なら、自然とそういう話になっていくから」
 けれど、ポテトがなくなっても、ワインのボトルが空いても、漫画の話にはならなかった。チーズの盛り合わせと追加のワインが運ばれてきた。チーズが減っても、ボトルが半分になっても、まだ漫画の話にはならなかった。
「そういえば、こないだ仕事で編集の人が――」
「上の子が行ってる幼稚園でね――」
 彼女たちの会話はテニスのラリーを見ているようだった。右へ左へ、規則正しくボールが往復する。
 その往復に、徐々にだけれど熱がこもり始めた。打ち返されるボールの勢いが増していく。あるいは、相手の返しづらい場所を狙ってボールが打ち込まれる。お互いに、自分の勝利という形でラリーを終わらせようとしているようだった。
 イラストレーターをしている春子さんには、漫画を描くことと同じ延長線上にある〈絵の仕事をしている〉という自負があった。自分は高校の頃からの夢を諦めておらず、それを叶えたのだと思っている。それは裏を返せば、専業主婦になった則子さんを見下す気持ちでもある。彼女は、夢を諦めたかつてのパートナーを嗤い、哀れみさえ抱いていた。

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