小説

『蘇る昔話の神』霧水三幸(『長者ヶ森(山口県)』)

 森に踏み込むまでは心が淀んでいるようなスッキリしない気分だった。
 が、いざ一歩踏み込んでしまえば肺に入ってきた空気の清涼感に驚かされて思わず感嘆する。
 そこから全身を巡って体内を全て浄化されていくような、何とも言えない爽快感。先程まで鬱々としていたのが嘘のように、一瞬で心が晴れていくのを感じた。
「まあ緑がある分空気が綺麗……か? けど、言うほどか?」
 どうやら彼からするとそうでもないらしい。感じ方に多少の個人差はあるとしても、私にはこれだけ明確に心身に変化が現れたものだから不思議なものだ。
 そう、それだけの話。
 いつものやり取りと同じ、些細な会話の応酬。私が素直に感じた素朴な感覚が、あたかも間違っていて絶対的に彼が正しいような言い方で否定されただけ。
 けれど、長年鬱屈し癒しとは縁遠かった心が珍しく軽くなっていたせいか――今の会話はいやに癇に障った。
 物事に不満や腹立たしく思う事自体は多いが、いつも内心に留め何もせず大人しくしていればいずれ鎮火するのが常だったはずだ。
 だが、今この時に限っては何故かそれができない。
 感情をいくら殺そうとしても殺そうとしても、抑えきれない怒りが、不満が、憎悪が沸々とぶり返してくる。これが俗に言う、溜め込んだ不満が爆発する兆候なのだろうか。
 とにかく今の私は何かしらの形で彼に報復をしないと気が済まないほどに心が荒れていたわけである。
 とはいえ流石にいきなり怪我をさせるような勇気もなければ、不満を口にするような饒舌さや頭の回転の速さを持ち合わせていない私。
 少し考えた末、ふと視界の端に飛ぶ虫を見かけて思いついた。
 そうだ、彼の背中に虫がついたと嘘をつき、払うフリをして叩いてしまおう――と。
 報復と呼ぶにはあまりにみみっちい攻撃。だが、小心者かつ怒りを抑えきれない私にできる最大限の仕返しだった。
 思い立ったら即実行、と思った矢先に彼が景色に気をとられ、おあつらえ向きに私に背中を向けてきた。
 今まで反撃などしてこなかったものだから我ながら緊張し震えでもするかと思っていたが、腕を振り上げる私は自分でも驚くほど冷静かつ俊敏であった。
 そして、その手を振り下ろす瞬間でさえも。
 ――ああ、いっそ。昔話みたいに、触れたら金銭にでもなってくれたらいいのに!
 現実では決して叶わない妄想を、今まで感じた事もない高揚感をこの手に乗せて振り下ろす。

 ――パンッ!

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