小説

『三十五日目の山参り』十野響(『三十五日目の山参り(兵庫県淡路島)』)

 私が暮らしている淡路島には昔からの古い習わしがある。身内の者がなくなった三十五日目に十三個のおにぎりを作り東山寺にある閻魔堂に四個、六地蔵に六個お供えして東山寺の裏山から三個後ろ向きに転がして振り返らず帰るという習慣。私の祖父が亡くなった時も、叔父が亡くなった時も行っていたのでこれが当たり前の習慣の様になっていたがどうやらそうではないらしい。
 私が大学1年になり本州の学校に進み友達の親戚が亡くなった時にこの話をすると馬鹿にするように笑われた事を今も覚えている。そもそもおにぎりを作ってお供えするという習慣、文化自体がない事に気づいたのがこの頃だった。
 そんな事があったので私は淡路に返った際に母親にすぐにその話をした。

 「葬式後の東山寺のおにぎり持っていくやつめっちゃ笑われてんけど」
  私は冗談半分で母親に話していると笑いながら母親は意外な返答を返してきた。
 「そうか、あんたはなんでしてるとか知らんかったね。でもあれは大事な習慣やからあんたもちゃんと覚えとかなあかんよ」
 あまり古いしきたりなどを気にしない母親がこんな風に言うのが珍しかったのでもう少し詳しく聞いてみると。昔話の様な話が出てきた事に驚いた。

 どうやら淡路島には亡くなってから極楽浄土にいくために長い旅を続け、そのあと極楽浄土にたどり着くという言い伝えがあるらしい。その昔、父親を亡くした若者の枕元に亡くなった父親立って助けを求めてきた。極楽浄土にたどり着く旅路の三十五日目に餓鬼達に邪魔されてたどり着けないと言うのだった。そこで考えた息子はおにぎりを準備し閻魔堂に四個六地蔵に六個お供えし、残り三個は餓鬼達に会うのが怖くなって山の上から転がして餓鬼達を鎮めたという話らしい。
  私は少し馬鹿にしたように
「そんな昔話みたいなのが今も守られてるのってすごいな」
  と母に言うと珍しく厳しい顔をした。私は違和感があったので「なんかあったん?」ときくと母は話始めた。
「あんたよく知ってる武さんおるやろ?」
  近所で漁師をやっているちょっとぶっきらぼうだけど話すと優しいおじさんで昔よく話をしたことを思い出した。
「武さんがどうしたん?」
「あんたが小さい時に奥さん亡くしたのおぼえてるか?」
 小さいながらにあの武さんが葬式で涙を流していることが印象的ではっきりと覚えていた
「そりゃ覚えてるよ」
「あんとき武さんね、お山参りせんかったんよ」
 と母は言うと次の言葉にこまっていた。
「で何かあったん?」

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