その後連絡も取らないままに時が過ぎた。時が過ぎるのを待っている俺が居た。そのくせ街中で似たような長い髪の女を見かけるとつい振り返ってしまう。好きだったのだとやっと気づいた。今更旦那から奪い取る度胸も何も無いが。
ただ俺は。いつか偶然街中で彼女を見かけて、幸せそうに笑ってくれてたらいい。
その時俺の恋にならなかった初恋は成就するのだろう。
俺は会社を辞めることにした。そこそこ使える便利な男を逃すまいと周囲は説得したが決意は変わらなかった。辞める理由を説明すると相手は失笑し呆れた。
「絵を描きたいからってお前。そんなの趣味で描けばいいじゃないか」
「そうだよ、会社で働いてりゃ月々の決まった収入があるんだから。それ捨ててまでやることじゃない。絵で生きてくって半端じゃないよ、分かってるだろ」
そりゃそうだ。十分、じゅーうううぶん分かっている。死ぬ程分かっている。何の保証もなく太平洋のど真ん中に飛び込むようなものだ。
あの時俺は藤村を救えなかった。俺だけが僅かに受信した救難信号を放置してしまった。
だからこそ今の俺にしか捉えられない何かがある。煙か幻のように、今捕まえないと霧散してしまう何か。
今こそ俺は、生きた人間を描けそうな気がする。