小説

『カッパ男』後藤由香(『河童伝説(日本全国)』)

 父はため息を一つついて、かっぱ巻きに手を伸ばし直に口に入れた。
「久しぶりに食べたけど、うまいな。もうひとつ行こう」
 手を伸ばした父の手を見ると、爪の先から徐々に緑色に変化し、指と指の間がくっついたかと思ったら水掻きらしきものが形成され始めた。
「あら、久しぶりの変身ね。相変わらずきれいな緑色。お義父さんは赤カッパだったのにね」
 まるでヒーロー戦隊の変身ものかのように吞気に母が言った。俺は、目の前の父が異形の物に変化してくのを受け止められない、自分の目が信じられない、声が出ない。

 父の変身が終わったところで、父が俺にかっぱ巻きを勧めてきた。論より証拠、お前も実践してみろ、ということだろうか。正直言ってもう食欲はなかったが、やけっぱちでかっぱ巻きを掴んで口に入れた。もはや味はしなかった。何とか噛み下したかっぱ巻きを水と一緒に居に流し込むと、何だか指先や足の末端がムズムズしてきた。ふと、子供の頃に岩手のじいちゃんのところで罹ったしもやけを思い出した。自分の指を見ると、爪の先から徐々に緑色が侵食してきた。
「まじか・・・」
 これが、俺がやっとひねり出した三文字の言葉だった。

 
2 出会い

 あの日以来、徹底的にキュウリを避けた。それまで全く関心のなかった食材だが、あらゆるところにトラップはあった。ポテトサラダやタルタルソースの細切れキュウリ、冷やし中華の中の細長いキュウリ、ハンバーガーのパンズに貼りつくキュウリのピクルス。奴らは至る所にいる。気が抜けない。一方、自分の変身時間を確かめるためにわざとキュウリを食べて実験を試みたこともある。どうやら俺は十~十二時間程度で人間に戻るらしい。父親もそれぐらいと言っていたから、呪いの設定がそうなのだろう。

 この十年間、呪いのせいで人間関係が希薄となった。カッパ男という常人には理解しがたい事実を他人に打ち明けることはできず腹を割って付き合えなくなった。早い段階で恋愛も友情も諦めた。全てを諦めた俺は、とにかく余計なことを考えないように、仕事に没頭することにした。そういう意味ではシステム・プログラマーという仕事は俺にあっていた。ひたすらパソコンに向かってコードを打ち込んでいくとあっという間に時間は過ぎる。平日は終電ギリギリまで仕事をし、週末は寝るかプログラミングの専門書を読む。そんな平和な日々がこれからも続くと思っていた。

「あ、言い忘れてたけど明日から中途採用のプログラマー、入るから。営業がでかい案件受注しちゃって採用かけてたんだよね。隣の席だから、指導よろしく」
 上司が俺の肩をポンと叩いて、去って行った。新人が来るとは聞いていないし、新人を指導する余裕もない。俺はパソコンに向かって大きなため息をついた。パソコンに張り付けていた付箋がはらりと落ちた。

1 2 3 4 5