彼は何も持っていなかったのです。そんなことに、今まで、今の今まで一切気が付かなかったのです。
「僕は、大丈夫ですから」
そう言って差し出してくる傘を。
まるで──受け取らないと、引き下がらないぞ、とでもいうような剣幕に。
私は彼と対面しているのが怖くなって、お礼も言わずにそれを受け取り、走って帰りました。
走って走って、カバンが濡れるのも、肩が濡れるのも厭わずに、傘を差さずに帰りました。自宅までの1km、かつてない程の土砂降りで、止む気配はなく──けれどその傘を差す気にはなれず。
濡れた体のまま、水の滴る体のままに帰宅。シャワーを浴びる事も、タオルで髪を拭くことも忘れて、台所から不燃ごみの袋を取り出します。
詰めるのは勿論、黄色と、青と、赤い傘。よく見ると単色ではなく波模様があるとか、どの傘にも止め鋲が無いな、なんて余裕の観察は遥か後方に、三本纏めて詰め込みます。ゴミ袋の口をキツく結び、また雨の中を行くは近所のゴミ置き場。
翌日がゴミの日で良かった、なんて思う程に、私はこれらに恐怖を覚えていました。
傘にも彼にも、今までの恩義はどこへやら、恐怖しか残っていません。あのあどけない顔も、あの心配そうな声も、何もかもが怖く感じるのです。
傘の処分をしたその日は、暖かくして眠りました。お風呂は少し怖かったので、シャワーだけにして。布団にくるまって、次の日を待ちました。
待って、待って。
私は昨夜の判断が正しかったと、そう知るのです。
翌日。
いつもの時間に出勤すると、上司や同僚から妙なざわつきで出迎えられました。
「大丈夫だったか?」とか「連絡くれたら有給でもよかったのに」とか。
何の話か分からず疑問符を浮かべる私に、仲の良い社員がそれを見せてくれました。SNSの記事です。この周辺地域の──いいえ、まさに、私の家の、すぐ近くの事。
何故分かったかって、簡単です。
だって、サムネイルに使われていた写真は、酷く見覚えのあるものだったから。
だって、まさに昨晩、そこを使ったばかりだったから。
「こんな住宅街でシンクホールとは、ちょっと怖くなるなぁ」
「空いたのがゴミ置き場の下で良かった。もし家のど真ん中とかだったら、って思うぞぞっとするよ」
「これは多分、市が地域の地盤調査に動く奴だ。渋滞多くなるだろうから、遠い奴はあらかじめの連絡怠るなよ」
──なんて。
そう、彼らの話す通り。