小説

『風に乗せて』小山ラム子(『てでっぽっぽ(岩手県)』)

 ねえ、風太(ふうた)。
 聞こえているはずなのに、なかなか振り向いてくれない彼。こっちを見てほしくて、わたしは何度も彼の名前を呼ぶ。
 ねえ、風太。ねえ。
 ようやく振り向いた彼の表情は、わたしの期待とは裏腹に険しいものだった。焦ったわたしは彼に向かって手を伸ばす。しかし、その手はわずらわしそうに振り払われた。
そして彼はこう言った。
「今更もう遅いよ」と。

 気が付いたらベッドから飛び起きていた。
 どくどくと鳴る心臓の鼓動を感じながら自分が今いる場所を確かめる。薄暗いこの空間は間違いなくわたしの部屋だ。時刻は五時半。今日は大学の講義が一限から入ってるとはいえ、まだ寝ててもいい時間だ。
 だけど寝直す気にもなれず、ベットから降りて勢いよくカーテンと窓を開く。十月ともなると朝に吹く風は涼しいというよりも冷たいが、今の自分にはこの目の覚めるような温度がちょうどよかった。
 窓を閉めてからスマートフォンを充電器から外して連絡先の一覧を開く。そこにある名前を確認してから目を閉じた。
 瞼に浮かぶのは、別れる直前の最後の表情だ。夢と同じ、呆れかえったあの表情。
 開いたページを閉じてから、スマートフォンを元にあった場所へと戻す。
 あれから何度、連絡してみようと思ったか。だけどできなかった。もし着信拒否をされていたら。ラインのブロックをされていたら。
 完全拒否を突き付けられるのが怖かった。
「風太」
 ふうた、という優しい響き。付き合っていた頃は、口にしただけで幸せになった。だけどそれは受け止めてくれる本人がいたからだ。
 今は空しく地面にぽとりと落ちるだけ。
 それなのに、今日もわたしは未練がましく彼の名前を呼び続ける。

「あれ、美晴(みはる)。早いね、おはよう」
 朝食にトーストを食べていたところで、お母さんがパジャマ姿のままリビングに顔をだした。
「おはよう。なんか目覚めちゃってさ。あ、今日は大学からそのままバイトいくから。帰りは八時くらいかなあ」
「分かった。帰り道気を付けてね」
「うん、ありがと」
 二年生になってキャンパスの場所が変わってからは、一人暮らしをやめて実家から大学に通うことになった。今まで勤めていたバイト先も変えることになり、どこかいい場所はないかと探していたところ児童クラブでの募集を見つけ、採用になった。勤務を始めたのはゴールデンウィーク明けからなので、今は半年目くらいになる。
 一年生の頃は大学の最寄り駅近くにある居酒屋でバイトをしていたのだが、次にやるのは飲食店以外と決めていた。
 子どもの相手は初めてだったけれど、生意気なところも含めてとてもかわいいし、他の職員さんがとても優しく教えてくれるので今のところ楽しく仕事をさせてもらっている。
 お母さんは「帰り道気を付けてね」なんて言ったけれど、家から児童クラブまでの距離は自転車で十分ほどと、とても近い。この近さもバイト先に選んだ理由の一つだ。

「先生、これ分かんないです」

1 2 3 4